そのこどもに名前はない
物心がついた時には、高い壁の中だった。
外に出る自由も、学ぶ自由もない。
誰かに名前を呼ばれるということもなく、ひとり。
壁の外の世界について知らされることも無かった。
きっと本来であれば、壁の外に『世界』が続いているなんて思うことも無く。
壁の中だけで完結した『世界』の中、生きながら腐らされるような道を歩んだ。
本来であれば。
私はきっと、世に言う……そう、神童のようなものだったのだと思う。
私は生きているだけで、ただそれだけで『全て』を知ることが出来た。
それは全知全能と、=(イコール)ではなかったけれど。
私を生かすという手間をかけるためだけに、食事を運ぶ男。
私の身なりを最低限整えるためだけに、壁の外から通う女。
『使用人』という分類に属す者達が口にする言葉は必要最低限。
その業務内容に、『私の話し相手』は含まれない。
ただ人格に異常の生じない範囲内でのみ、最低限の受け答えを口にした。
まるで無機質な音しか立てない、人形のように。
そのような生活を送っていれば、何もせずとも精神に異常をきたすというのに。
元から異常な精神性を抱えた者たちの精神構造は、真っ当な判断を下せない。
それが出来るのであれば、きっと私は最初から殺されていたのだろうが。
権力闘争に敗れ、後継者争いから脱落した、過去の男。
その血を繋ぐ、忘れ形見とも言える一粒種などは。
私が閉じ込められていた先は、王宮のはずれ。
反逆罪にある貴人を幽閉する為の、罪人の為だけに存在する小さな離宮。
地方豪族の屋敷よりも小さな、最低限の体裁だけを整えた場所。
屋敷の屋根よりも高く、重苦しい壁に四方を囲われた、金のかかった牢獄。
血筋だけを鑑みれば、誰よりも尊い。
しかし私を省みる者はいない。
罪など犯した経験は無かった。
この血筋ゆえに私は囚われ、飼い殺しにされている。
だが血筋ゆえに私は生かされ、衣食住を整えられている。
何故か?
それは、私の身に流れる血が、今は何よりも貴重であったゆえ。
尊き始祖……ヒトではなかったとされるモノ。
実体を持ち、肉を身に纏った変種の精霊。
王の祖として讃え祭り上げ、『始王祖』と呼ばれる異形。
その血を繋ぎ、後世に残す。
より濃い血脈を保つ為、王族は何世代にもわたって血族婚を繰り返した。
繰り返される近親婚。
継がれていく、血と代。
それは繰り返せば繰り返すほど、代を重ねれば重ねるほど。
後に異常なものばかりをより多く残す結果を導く。
貴族達とて王の血脈から支流を少なからず引き、また貴族同士での婚姻を結ぶ。
何世代も、何世代も。
複雑に絡み合った血脈は、果たして誰と誰がどのように血を繋いでいるのかも定かではなくしていく……どこでどんな風に血を結んだか、どれだけ濃い血筋に当たるのか。
系図を管理する者にも、既にわからなくなっているのだろう。
そうして無駄に凝縮された血脈の弊害は、既に出始めていた。
腐りきったこの国。
爛熟の極みにある、文明文化。
腐っているのは貴族や王の頭ばかりではなく、血もきっと。
どろどろに腐りきり、罪も知らずに死んでいく赤子へと姿を変える。
濃くなり過ぎた血は、『異常』という形で重くのしかかる。
それは、子供の形をして。
異形としか呼べぬ、身体異常の奇形児。
身体異常ばかりではなく、精神異常、知能障害……そして出生率の低下。
重すぎる弊害に、生まれても子供は直ぐに死んでいく。
貴族の社会の中で、いつしか子供は『貴重品』になっていた。
それが尊き血筋にあるのであれば、より一層。
育つことの出来るまともな子供はごく僅かで、大きくなれても育ってから精神への異常性が現れることもままあること。
『血』と『家』を繋ぐ『道具』は姿を消していき……
高い地位にいる家であればあるだけ、若い血族を保持しようと躍起になった。
それは確かに、貴重で高額な品を求めるように。
なればこそ、私は生かされた。
濃くなりすぎた、血の結晶。
凝縮された、血の一滴。
もしかするとまともに育つかもしれない、可能性のある直系王族。
人々が思うのとは別の形で、私が『異常』を有しているなどと露とも思わずに。
ヒトではなかった、王家の始祖。
どれだけ血を重ねようと、代を重ねるほどに血は薄れ、ヒトに混じる。
始王祖の特異性を有していたのは、代を重ねて5代目までだと伝えられる。
その、先の先に。
何世代も、何十世代をも経た先に。
凝縮された血の結晶。
わたしという、異常が生まれる。
始祖の流れを濃く深く刻む、私という異常が。
風の流れを見るだけで。
指先で土に触れるだけで。
水滴が地に落ちて撥ねる音を聴くだけで。
私は遠く、広く、あらゆることを知った。
知るはずのないコトから、教わらずにいたコトまで。
教えられてもいない文字を読み、聞いたこともない言葉を話す。
しかし必要最低限以上に私に接触しようとする者などいなかったから、誰も知らない。
知られずに、済んだ。
私は聡明という訳でもなかったし、思慮深くもない。
だから、この境遇はある意味では恵まれていた。
全てを知識として収集し、知覚する。
私の知識は増えていく。
だがそれらは実感を伴わない、ただの『知識』。
ヒトとの触れ合いを介して経験として積むべきモノは、何も蓄えず。
私という異常は異形ではなかったが……更なる『異常』へと育ちつつあった。
ヒトとの交流経験が皆無であった私は、きっとそれを隠せない。
隠すことなど出来なかっただろう。
もしも、私との接触を望むものがあれば……の話だったが。
そのようなモノはどこにもいないのだから、最初から隠す必要も無かった。
ただ閉じ込めただけで安心し、放置した愚かな王。
無関心という揺り籠が、私をゆっくりと育んだ。
知識と知覚した物事を糧に、私は『私』として育っていく。
ただし経験として学ぶべき、人間社会の常識や基礎的な暗黙の了解。
それらだけは、私1人しかいない壁の中、身につけることは叶わなかったけれど。
ある日、唐突に。
まるでぱちりと夢から覚めるようにして。
私は不意に理解した。
それまでも『知識』として有し、知っていたこと。
理解したつもりになっていたこと。
些細な……ほんの小さなきっかけで、私は理解する。
経験を身につけられる環境とは程遠い、私の状況。
何のために、いま私がこうしているのか。
何のせいで、私が経験を得られないのか。
親子のふれあい、ぬくもり、情。
人と人との関係性、出会いと別れに構成されるもの。
私はそれを知識として知ってはいても、触れることが出来ない。
なぜ?
私とて人の子として生まれた身。
父も母もこの肉体を構成する上で確かに存在した。
父を知っている。
母を知っている。
顔を知っている。
幼少期の性質を知っている。
青年期の懊悩を知っている。
何を為したか。
何を為せなかったか。
どのような道を辿り、どのような人生を完結させたか。
それらを『知識』として知っている。
知っているだけだ。
私は父にも母にも会ったことは無く、触れたことすらない。
血という確かな繋がりを有しているというのに。
だのに、『親子』という関係性は得られなかった。
それらの原因がどこに及ぶのか、何によるのか。
知っていたとしても、『理解』を経た私に納得は出来ない。
到底、許容できることではない。
父は私の生まれる前に命を落とした。
玉座と呼ばれる椅子を巡って争った末の謀殺。
母は私が生まれたその場で殺された。
出産により疲弊し、抵抗も出来ないまま産婆に首を絞められて。
いずれも殺した者は別なれど、命じたのは『国王』と呼ばれる男。
私の父の異母弟にして、玉座争いの勝者。
私の父母が善き親となれたかは知れない。
彼らが命を落とした今となっては、論じても虚しいばかり。
だが、そういうことではない。
いないことと奪われることは違う。
得られなかったことと、奪われることは違う。
大きく違う。
『理解』という形で知ることの出来なかったモノを認識してしまった、から。
この壁の中、ただ閉じ込めた者の望む通り閉じ込められてはいられなかった。
私はもう此処にはいられない。
何もしないではいられない。
奪われた。
奪われた。
奪われた。
……のであれば、私には権利があるのだろう。
復讐する権利が。
親の仇を取る義務が。
それこそが恐らく、死んだ父母の無念に唯一私が報いる方法。
そのくらいしか、もう『親子』という情の関係を得る手段はない。
それがどれだけ一方的で、独善的だとしても。
許せないと思ったことは、恐らく間違いないから。
何も得ることのないはずの、感情と情緒を育てず封じる壁の中。
揺り籠の中。
私の中で最初に芽生えたのは父母への念。
最初に目覚めたのは、恨みと怒りと復讐の意思。
それが善き事か悪しき事かはどうでも良い。
ただ成就させるという信念のみが肝要。
それ以外に望みも意思も、今まで持ち得たことはなかった。
私が『人間』らしくなる為の第一歩は、こうして示された。
後はその道を、ただ辿って行くのみ。
復讐するために。
私はこの壁の外へ出る。
私と言う異常種を閉じ込めてきた、揺り籠の中を。
さあ、飛び切り壮大に仇討ちを果たすため。
牙を磨ぎ、時機を待つ。
果たしてどのような形で復讐を遂げようか。
そう、それは……さながら英雄譚のように。
飛び切り物語りめいた、美しいモノが良い。
まるで露骨に、露悪的に。
老害が粛々と退場するようなものではなく……
明確に『悪』と示され、正義らしい正義に滅ぼされるような形で。
一方的にお前が悪いのだと、誰の目にも明らかに見える形で。
絶対的な悪として、完膚なきまでに滅ぼされる形が良い。
その為に必要なものなら、いくらでも揃えてみせよう。
準備に何年かかっても、どれだけの労をかけても構わない。
民衆の待ち望んでいるような英雄を一人ひとり拾い集め、束ね清めて。
誰もが歓喜にうち震えるような英雄譚を紡ぎあげて捧げよう。
既に必要な情報には、ある程度の心当たりがある。
英雄を集めるための小さな一欠片。
様々な場所に埋もれたそれも、時間をかけて待ち続ければ……きっと。
今はまだ未来を知らない者達も、きっと寄り集めれば太陽のように輝くだろう。
そうして、この『国』という悪を――いつかきっと、滅ぼしてみせる。
私はそう心に決めて、高い壁を越え去った。
実行してみれば、思うよりも遥かに容易に。
壁を乗り越える私の身は、まるで羽のように軽かった。