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春になった。
それと同時に片桐は高校に入学した。入学式には紺色のブレザーに、赤いネクタイが真新しい制服を身につけた。まだ汚れもしていない、糊の匂いがする服は新鮮さすら味わえる。
広い体育館に生徒を集めて、段の上に立つ中年の校長がいろいろとありがたいことを口にしている。それを聞き手である若い彼らはみんな右から左へと聞き流しているのは、あっちこっちで小さな漣が立つのでわかっていた。
体育館のなかは春らしい冷えた空気を孕み、このままでは風邪をひいてしまうかもしれないと寒さに弱い片桐はむっつりとしていた。そろそろ耐えきれなくなったとき、長年の経験でこの演説の無意味さを知っている校長は見計らって切り上げ、めんどうな入学式は終わり、次は教師に先導されて教室へと向かう。
体育館から出るとき、ピンク色の花びらが散っているのが見えた。――櫻だ。
片桐が入学したのは、有名な大学までのエスカレーター式の私立の高校。
ほとんどが小学生からの知り合いというなかで、こうして新しい生徒がはいってくると物珍しいらくし、好奇心に満ちた視線が自分を突き刺してくる。片桐はそれを無視し続けた。うっとおしいのはそれだけではない。背後の気配だ。
片桐がわりふられたのは、廊下側の列の一番後ろ。わが子の成長を見届ける保護者たちの気配がひしひしと感じられる。ほとんどの場合は母親がきているのだろう、化粧の匂いがする。
ちらりと横目で見るとそのなかに珍しい男親で、若々しくもハンサムな柳羽は目立っていた。女子生徒、さらには母親たちの好意的な視線をものともせずにこにこと笑っている。
――くるなっていったのに
片桐は心の中で毒づく。
柳羽のことは嫌いではないと、今は思う。が、それとこれとは別だ。いちいち暇人なのか、こんなバカみたいなイベントに顔を出して。
ほとんどの生徒が知り合いのような高校に入学するのだ。下手に目立ちたくなかった。そう説明したのに、わざわざきて人の視線を集めるとは。
頭が痛くなった。
そのとき、刺すような殺気を湛えた視線を感じて片桐は目を向けると、この学校では唯一の知り合いともいえる同じ高校の――本田がいる。
本番に弱い秀才くんは、なんとかこの高校にはいれたのか。
まさか目指したところが同じとは思わなかったが、どうしてああいう視線を向けてくるのかさっぱりわからない。親しいわけではないが、仲が悪かったわけでもないし。
素直におめでとうと心の中で思うが、どうも陰気な視線だ。腹が立って睨み返すと、あわてて目を逸らしてきた。
真っ向から他人を睨むこともできないやつが、こそこそと!
そんなおかげで片桐は苛々して、教師の説明を――ほとんどが中学からの繰り上がりのため、かなり手の抜いたもので終わった。そして明日からの予定の書かれたプリントが配られ、それを真新しい鞄に詰めて、ようやく解散。
はやくここから帰りたい気持ちで片桐が用意をしていると、柳羽がひらひらと手をふっている。また、熱心なパパのことだ。なにか余計なたくらみ――このあと片桐と遊ぶ予定でも立てているかもしれない。
本当にこいつ裏社会でも名のあるフィックサーなのか。
片桐が疑問を抱いていると、ふいに肩が叩かれた。
「あの、片桐くん」
「はい?」
振り返るとまだ名前だって知らない女子が三人くらいそろって立っていた。
「あの、よかったら歓迎会をね、一緒にどう?」
「今から?」
片桐は丁寧に応じる。誘いに乗るつもりは毛頭ないのだが、ふりきるにしてもめんどくさそうだ。なんせ、これからいやでも付き合うやつらだと思うと下手に敵にまわしたくない。
とくに女子は相手にするのが大変だということはわかっている。
「みんなと顔合わせできると思うけど」
もじもじと話しかける女子がうつむく。
片桐はわざと思案顔を作り、どうやって断ろうかと必死に考えた。
「片桐、いるの? あ」
生徒たちと保護者が出ていくり入口からクシナダが顔を出した。当クシナダはここの三年生だ。
「あ、真田先輩」
「どうして、真田先輩が? やだ」
片桐を相手にしていた女子生徒たちが騒ぎ始める。それにまだ残っていた生徒たちも。とくに女子が嬉しそうな声をあげ、男子は緊張した顔をしている。
片桐は手をひらひらと振って応じると、クシナダはにこりと笑って片桐に歩み寄ってきた。
「このあと暇? ヤマトが、遊ばないかって、あっちも今日が入学式だったの。そもとも用がはいってる?」
クシナダが女子生徒に視線を向けると、三人組は顔を真っ赤にしてふるふると首を横にふり、手もふる。
「いえ、なんでもないです。ぜひ、先輩の用事を優先してください」
照れながら距離をとる三人を見て片桐はあと少しで噴出すところだった。
「いいのかしら?」
クシナダは唖然とした顔で片桐に視線を向ける。片桐は肩を竦める。
「いいんじゃない? 相手がそういってるし、正直、助かった」
小声で片桐は愚痴をこぼす。
「けど、うち、熱心な父親ついてきそうなんだけど」
「え? あ、どうも」
クシナダは片桐が示す方向を見ると、あわてて背筋を伸ばして頭をさげる。柳羽はにやにやと笑って近づいてくると、大げさに肩を竦めた。
「俺のことは気にしなくていいよ。若者たち、遊んでおいで」
「あ、パパ、俺とクシナダの荷物運んでくれる? あと、お小遣いちょうだい」
片桐がわざと猫撫で声を出すと柳羽は嬉しそうに笑った。
最近、片桐と柳羽の間ではこの親子ごっこがブームなのだ。
「いいぞ。どうせ、車できたし、よかったら途中まで送るよ。彼の大学はわかってるから」
「わーい、行こうぜ」
屈託なく笑う片桐にたいしてクシナダは緊張ぎみに背筋を伸ばして、はい、と応じる。いつもは片桐相手にお姉さん風を吹かしているくせに、柳羽の前ではかしこまるなんて――少しだけ面白くない。
ヤマトとは、彼が入学した大学の門で合流した。そこまで運んでくれた柳羽には多少は悪いと思ったが、三人の荷物を運ぶのと、お小遣いをせしめた。「子供に冷たくされる親っていいなぁ」なとど呑気なことを口にする。馬鹿だ。
、三人は駅前のマックにはいった。ちょうど昼で混んでいたのにカウンターに腰かけて、バーガーに齧りつく。
「どこいく?」
「ゲーセンがいい」
片桐が唇を尖らせる。
「今の時間だと混んでないか」
「あー」
三人でゲームセンターで遊ぶのはわりと楽しいので、片桐としてはぜひとも行きたいが、人が多いと聞くと気分が萎える。
楽しいのは大好きだが、それ以上にめんどうだと無精に考えてしまう。
「たまには青春ぽいことしない?」
コーラを飲みながらクシナダが言う。
「毎回、ゲーセンもねぇ」
さすが、この中では唯一の女子。いつもゲームセンターというムードのないものはいやだと顔が語っている。
ゲームセンターに行けば一番にはしゃぐのに。
だいたい三人はゲームセンターで遊ぶか、映画を見るかでこの冬は過ごした。ときどきヤマトがプロレスを見たいといったりして、チケットをどこからか入手して見に行くことはあったが――つまりはもっぱら男性の娯楽が多かった。クシナダも殺し屋らしく、その手のスポーツは嫌いではない。むしろ、誰よりも興奮している。しかし、女性らしく澄ますことも忘れない。
女ってめんどくせぇ。
片桐が目でヤマトに愚痴る。しかし、ヤマトはにやにやと笑っている。こういうクシナダを見るのが楽しいらしい。
「いいぜ。どこいく? 一応、免許はとったけど」
この冬にヤマトは車の免許もとった。今まではたまに無免許で車などは運転していたそうだが、下手して捕まったら困るだろうし、あればあったで困らないものだとしてアマテラスに命令されたのだ。
「けどさ、車ないじゃん」
「それは、あれだ、あれ」
「あれってなんだよ」
ヤマトは唇を尖らせて、身を屈めると小声で告げる。
「盗むんだよ」
「……バカじゃないか」
片桐はため息をつく。
「そんなでかくて足がつくものとってどうするよ」
「いいじゃん。なぁ」
「あのね」ヤマトの無頓着な視線にクシナダが呆れた顔をしたが、ふっと影が差した。
「いいかもね。海行きたいわ」
「海?」
「またなんで」
片桐とヤマトが目を丸めてクシナダを見つめる。とたんに自分の発言に恥じ入るように彼女はもじもじとしながら
「だって、青春みたいだし」
などという始末だ。
片桐とヤマトは黙って視線を交わすと、肩を竦めた。
「なによ、二人とも、バカにするなら笑いなさいよ」
「いや、いいよ。海、行く? 付き合うよ」
「たまにはいいかもな」
「本当に?」
言いだしっぺのくせしてクシナダは二人の賛同を得られたことに驚きの顔をする。
「やっぱり盗むか」
「お、本気出しますか、旦那」
片桐が顎を撫でながらいうのにヤマトはのっかる。
三人は線を交わして、にやりと悪党らしく笑った。
車くらい、盗むなんて難しいことではない。――とくに片桐には容易いものだ。車といわず、機械類、コンピューターの構造などは頭に叩き込んでいる。だいたい三か月に一度は新型が出るが、それに片桐はいつも後方支援の仲間たちとともに専門の講義を受けて、常に勉強していた。
それは片桐というよりは、片桐のなかにいる人格の一人――遼の得意分野だからだ。
遼はコンピューターハッカー。企業に雇われて、様々なジャンルのプログラムを組んでいたが、それを利用しようとした企業によって殺されかけた、復讐として企業のデータをたった一夜で崩壊までさせた男だ。機械類についてはとにかくプロ根性を持っていて、ほとんどのものを扱えるようにしている。コンピューターもそうだが、半分は運び屋まがいのことを好んでやる。
片桐は遼を呼び出し、マックから出て、手ごろな車を探し出す。
その一つに目をとめると、ヤマトが掌打でガラスを叩き割り、遼が素早くエンジンをかける。
「ちょろいな」
三人は乗り込み、ヤマトが運転をする。片桐もできるのだが、制服を着ているので下手に目立ちたくなかった。なによりせっかく免許をとったヤマトは自分で運転したがった。
ヤマトはやや荒っぽくアクセルを踏む。
「きゃ」
「わ」
乗り込んだクシナダと片桐は体を跳ねらせ、運転席にいるヤマトを睨んだ。
「乱暴よ!」
「危ない!」
クシナダと片桐が叫ぶのにどこ吹く風のヤマト。
「わりぃ、わりぃ」
車が走り出すと、あとはスムーズに進んだ。ヤマトは乱暴だったが、片桐とクシナダはさっさと慣れた。仕事をしているときはもっと車内がゆれることは多々あった。それに比べればマシだ。
長い道を、ただただ進んでいくのに片桐は窓から外を眺めていた。人と建物……そればかりが続いていた。
ふと、建物が途切れる。
その果てに、空が落ちたような水色が見えた。
海だ。
「窓開けるか」
ヤマトが、窓を全開にする。
片桐はじっと海を見ていた。灰色の砂に、白い水の塊が動いている。今にもすべてを飲み込むような波の揺れ動き、微かに潮の匂いがした。片桐は目を閉じる。海の音が頭いっぱいに広がる。
海とはあまりにもセンチメンタルだ。
人を殺して、学校生活をして、遊んで、恋をして。そんな日々のなかで、どうしてこんなところに来てしまったのか。
どこか昏いともいえる世界の果てにつながる場所に。
ヤマトが砂浜の前にある公園みたいな駐車場に車を停め、外へと出ると、そのまま海を遠くに片桐は眺めた。
「きれい」
クシナダは微笑むと、海に向かって軽やかに走り出す。ヤマトもまた笑いながら歩き出すのに片桐だけが立ち尽くしていた。
二人が立ち止り笑って手招いてくる。
「はやくこいよ」
「どしたの?」
その声のあまりの屈託のなさに片桐は苦笑いして歩き出す。
はじめて本物の海を見た。
今まであえて避けていたし、見ようとしていなかった。だが、目の前に海はある。それに二人いるなら、怖いなどと思うこともない。
恐怖はすでに消えて爽快な気持ちが生まれた。
戸惑いも、躊躇いも、今は感じない。
三人は満ち引きする波でさんざん騒ぎ、砂場で遊び尽くした。それに飽きると片桐とヤマトは息も荒く、駐車場の近くにある自動販売機に歩いて、ジュースを買ってベンチに腰を下ろす。
クシナダは貝殻を拾いに夢中だ。三人で遊ぶとき、一番、元気なのはいつも彼女だ。
「なぁ片桐」
「あん?」
ベンチに腰を下ろして、コーラを飲みながら二人は前だけを見て会話する。
「クシナダっていいと思わないか?」
「は?」
思わず片桐が見ると、ヤマトの顔は照れが窺えた。
「クシナダだよ」
さりげなさを装っているが、あきらかにそれは恋する男の顔だった。真っ直ぐにクシナダだけを見て、頬まで赤く染めている。
これが素手で人を殺すことが大好きな殺し屋だとは誰も思うまい。
ヤマトはクシナダが好き――?
「好きなのか?」
「好きかもしれん」
ヤマトの口調は歯切れ悪い。いつもはバカみたいにぽんぽんと思いついたことを口にするくせに。
「どうなんだよ」
「だってよ、今までこういう気持ち、抱いたことねーからなー」
「へー」
片桐はわざと冷淡に嘲笑った。年齢はこの中で一番年上だが、わりと初心なところがあるようだ。
「セックスしたことないわけ?」
「いや、そういうのはソープのねーちゃんとした」あっけかんとヤマトは告白したあと、にやりと笑って見せた。「やーさんが世話してくれて、とびっきりの美人だった」
「そりゃいいや」
片桐はわざと明るく口にした。ちなみに片桐もすでに初体験は済ませてある。相手は柳羽が世話してくれた中国人女で、きれいで気立てもよかった。片桐はその女が気に入って、彼女の自慢の美貌をずたずたにして捨て、自殺した。片桐はいつも愛する相手を引きちぎり、ずたずたにして、捨てて、瓦礫を作り上げる。
「片桐はあるか?」
「好きだと思う子がいることは、たまにある」
たいてい、それは片桐の残酷な破滅願望を呼び覚まし、相手を精神的にも肉体的にもずたずたに引き裂くことではじまり、同時に終焉を迎えるが。
「それに、俺、今好きな人いるし」
「いるのか」
ヤマトが驚いた顔をして片桐を見た。
「うん。アマテラスが好き」
「あの人を?」
ヤマトはジョーダンでも聞いたように目を丸めて、しげしげしと片桐を見たあとそれが本当だとわかると呆れたように肩を竦めた。
「驚いた。あんな年増が好きかよ。お前より年下の子がいるんだぜ」
「うん。けど、好きだし。理屈じゃない」
「そっか」
片桐は照れ笑った。自分が本気になっても壊れないのはアマテラスだけ。だからアマテラスだけを愛して、他をときどき壊して生きていければいいと思い始めていた。
アマテラスは決して自分のものにはならない、壊せない。自分は好きなものが手に入らない空腹状態のなか、他を壊していくほうがきっと幸せなのだ。焦がれ続け、ただ魅了し続けてくれたら――そう願っているのだ。
「で、はじめての恋で、クシナダとどうなりたいわけ」
「そ、そりゃあ」
ヤマトはしどろもどろにしていたが、鼻先を指でぽりぽりとかいた。
「そりゃあ?」
「付き合いたいだろう」
「セックスしたいとか、デートしたいとか?」
ヤマトが飲んでいたコーラを噴出して、咳き込んだ。
「うわぁ、きたねぇ」
そう言って呆れながらも、仕方なく片桐はその背を撫でてやると、ヤマトは涙目で睨みつけてきた。
「お、おまえなぁ」
「けど、好きってそういうもんだろう」
「あまりにもストレートに言い過ぎだ。それに、まぁ、そばにいれるといいんだよ」
ヤマトが、ふっと口元に笑みを浮かべた。それがあまりにも穏やかであったのに片桐は目を丸めた。
「そうだな。クシナダには生きて、笑っててほしいな」
あまりにも当たり前のことのように口にする願望に片桐は戸惑った。
好きだから、殺す、奪う――そんなことはせず、そばにいて、笑っていてほしい。――その願いはまさに生ぬるい湯そのもので、油断して頭からかけられたような気分だ。
漫画や、ドラマみたいな――そちらのほうがまだドラマチックでどろどろしていたり、甘酸っぱさがあったりするが、ヤマトのはそれらとまるで違っているようで、おかしくもあたたかく感じられた。
こんな風に誰かを好きになることがあるのか。こんな風に他者を思う気持ちがあるのか。
片桐は知らなかったし、教えられなかった。
ヤマトは確かに人殺しだ。それでも当たり前の愛される家庭と、世界に今までいたのだといやでも思い知らされた。
少しだけ失望と、それ以上の羨ましさが胸を掠めて片桐は自分の胸を抑え込んでいた。――なにが羨ましいんだ?
「二人ともー!」
クシナダが叫ぶ。
「いい貝を見つけたわ」
クシナダが大声をあげて、手をふる。
「おー、行こうぜ」
ヤマトが立ち上がり、缶をゴミ箱に捨てて歩きだすのに片桐はわざと退屈そうに、仕方なげに立ち上がった。
すると、手が伸びてきて、片桐を掴んで、前へ、前へとひっぱる。恐くない。進めばいいといいたげに。
――あ。
「ほら」
ヤマトが笑う。
「二人ともー! いらっしゃいよ!」
クシナダが笑う。
二人がいて、自分のことを招いている。それに片桐は笑って、歩き出す。
この二人が好きだ。
とても。
たとえ、三という割り切れない数字のせいでなにかを破壊しても。――きっと破滅しか待っていないと頭のどこかで知っていた。
それでも、今、このとき、確かに二人が好きだと思った。
この大切なものを失いたくないとすら、思っていたのだ。




