16
片桐はアメリカにいるサキの情報を手に入れるようにクシナダに命令した。彼女はその命令になんら疑問など投げかけることもなく、忠実に動いた。男に抱かれ、情報を盗み、聞きだし――片桐に尽くした。そのときだけクシナダは生きているという実感を抱ける唯一のときだったのかもしれない。片桐の部屋で報告するときは嬉しそうに、さっぱりとした顔をしていた。壊れる前のクシナダのようだった。
クシナダの情報で、サキが、戻ってくる正確な日がわかった。
フウマの混乱もようやく一段落ついたところで帰国は妥当といってもいい。しかし、内々というのは、ツクヨミはまだアマテラスの死を仲間たちに隠しておきたいのだろう。
そして、時期を見て発表するのか。
アマテラスの死を、自分がフウマの長だと。
そんなことはさせない。
ツクヨミが長になるならばなればいい。ただし、サキを己の駒として使うのはさせない。あれは俺の獲物なのだから。
だから、片桐はクシナダに口にした。
愛してるから、サキを殺して。そしたら、俺がクシナダの一番ほしいものを手に入れて、あげる。
それがどれだけの威力をもってクシナダを突き動かすか、片桐は理解していた。彼女は欲に目がくらみ動き出す。まるで弾丸のように。
それもとんでもない方向に。もう後戻りだってできない方向に。
それでいい。
それでいい。
片桐は二度心の中で繰り返した。
クシナダのことは好きだった。――過去形だ。今はもう好きだったのか、その存在を持て余しているのかすらわからないほどにそばにいる。ただ心の一番奥に、落ちていった黒い黒い濁り。それをどうにかしたいと、ふと思った。
サキを殺す。
そう願ったときと同じように。
クシナダに最後をあげようと思った。
ああ、それは、なんて素敵な思いつきだろう。
サキの帰国の日。
片桐は本部の自分の巣で灯り一つつけなす仄暗い部屋のなか、ベッドに腰かけて、じっと待っていた。テーブルに置いた携帯電話にいつ連絡がはいるかと、胸をときめかせていた。
携帯電話が鳴った。片桐は震える心でそれをとった。
「はい」
『片桐か』
ツクヨミの押し殺した声がする。ああ、きっと、彼女は
「はい」
『裏切り者が出た』
「誰ですか」
『クシナダだ。殺せ』
怒りとも諦めともつかない声だった。片桐は携帯電話を黙って切り両手で握りしめ、嗤った。脳裏に思い描くのはサキの肉体が血まみれとなること。クシナダは仕事をやり遂げた。
と、ドアが開いた。
片桐はそちらに視線を向けると、傍らに置いてある黒蛇王を手に取った。
「片桐」
「クシナダ」
闇の中で、彼女だけが美しく、輝いていた。全身に怪我をして、血まみれなのにここまでちゃんと戻ってきた。
きっとツクヨミの護衛と死闘を繰り広げたのだろう。死にかけたのだろう。それども彼女は逃げおおせた。
この世で生に執着するのは女だ。男ならばどぶ水に顔を突っ込んで諦めて死ぬところを、女は必ず立ち上がり這いずってでも生きようとする。一度転がり落ちればとことんまで落ちて、恐ろしいほどの残忍さと強さを発揮する。
「殺したわ」
微笑んで。
「殺したわ、あの女を。空港から外へと出るときに、撃ち殺したわ。ふふ」
「そっか」
深夜といっても、人の目があっただろうに。きっと今頃、ツクヨミはその処理に追われているだろうが、それ以上に自分の駒が消えたことに落胆していることだろう。それは少しだけ片桐を喜ばせた。
これで、アマテラスは生き返る。――無邪気に片桐はそう思った。
「ねぇ」
クシナダの甘えた声が片桐を現実へと引き戻す。
「なに」
「ちょうだい、私の欲しいもの」
「いいよ」
片桐は笑って、刀を抜くと、迷うこともなくクシナダの胸を突き刺した。クシナダの身体は抵抗もなく、後ろへと押され、壁に叩きつけられる。
ああ、部屋が汚れた。まぁ、いいか。
溢れる血に塗れてしまいながら片桐はじっとクシナダを見た。
「クシナダ」
「……片桐」
「これ、だろう」
片桐は囁いた。これがほしかったんだろう。クシナダ――クシナダの目は何も映さない。まるで人形の目に嵌めこまれたビー玉のように輝き一つないのに。
その瞳から透明な、この世で一番美しい宝石が一筋、溢れて転がってゆく。
「ごめんね」
「クシナダ?」
不思議そうに片桐は見つめた。闇がどんどん濃厚になって自分たちを包み込んで一つにしていく。
「ごめんね、片桐」
クシナダの手が震えながら伸びて、それは見当違いな空をかいて、転がり落ちる。
片桐はじっと見つめていた。
「クシナダ」
絶望のさらに、その先の果てからのような声だった。
片桐ははっと振り返った。
「ヤマト」
暗闇に、溶け込んだ人影に片桐は目を丸めた。いつから見ていたのだろう。そして、いつからいたのだろう。
「クシナダ」
ヤマトはもう一度囁く。そこに片桐がいるのに、片桐の存在など見えないかのように。
「人殺しめ」
突然と叩きつけるように向けられた刃に片桐はぎくりとした。今まで麻痺していた感情がさっと蘇ってくる。
「……クシナダは裏切り者だ、だから俺が始末した」
「そういう風にしたのは誰だよ」
「ヤマト」
「クシナダを裏切らさせたのは誰だよ。片桐!」
それは自分だ。
まぎれもない断罪に片桐は今、この時になって自分がなにをしたのかわかった気がした。
クシナダを自分の手で殺してしまったのだ。
「ヤマト」
片桐はクシナダの肉体から黒蛇王を抜き取り、その死体を抱えて、よろよろとヤマトへと近づこうとした。
近づくことをそれを許さないほどの激しい憎悪を感じたが、たとえ傷ついてもここで怯んではいけないと片桐の正常な理性が告げていた。
「ヤマト」
「お前を殺す」
「ヤマト」
「友達が死んだ。好きな女が死んだ。俺はここにいる理由はなくなった」
ヤマトの言葉に片桐は目を丸めて、笑おうとして出来なかった。
「オロチだろう。俺を殺しにこいよ」
片桐は首を横に振った。
「いやだ」
「なら、殺すように仕向けてやるよ!」
ヤマトは血に飢えた獣のように片桐へと襲い掛かった。死体を抱えたままでは反撃だって出来なかった。
ヤマトに殴られ、蹴られて、片桐は血と痛みを抱えて床にうずくまった。反撃する隙さえ与えられなかったし、そんなことを考えもしなかった。
立ち上がれないままでいると、痛みはふってはこなかった。
ヤマトは黙ってクシナダの死体を抱えて背を向けて歩き出す。
「どうして」
血を吐きながら片桐は尋ねた。
「殺さないんだよ」
ヤマトは何も言いはせず、歩き出す。
「どこに」
片桐は必死に身体をひきずり、血を吐いて叫ぶ。
「行くんだよっ!」
行くな。
どこにも行くな。
壊してしまったが、それはまだ治る範囲だろう。だから、行くな、ヤマト。
儚い願いのように片桐は叫ぶ。
その祈りが通じたように、ふと、ヤマトが足を止めて振り返った。暗がりで顔は見えないが、声ははっきりと聞こえた。
「……海に」
「え?」
「待ってるから、来いよ。あと、二三人、殺しておくからよ。そしたらお前は俺を殺すしかないだろう」
容易くそんなことを言ってのけて、ヤマトは去っていったのに片桐はただ見ているしかできなかった。
ぼんやりと、世界がにじむ。
血が熱となり、
痛みが涙となって、
身体が溢れて、零れ落ちる。
どれくらい気を失っていたのか。わからないが、気が付いたとき、肌にぱりぱりと血の乾いた気持ち悪さがあった。痛みが鈍く肉体に広がるのを無視して、片桐は起き上がるとよろよろとふらつきながら刀を片手に歩き出す。
何かが壊れた。
ぼんやりとした頭で思いながら、それを否定している己もいた。
痛みが
血が
その否定を無理やりに現実へと引き戻す。
「クシナダ」
自分が殺した大切な女性。
「ヤマト」
自分が殺すべき大切な男性。
片桐は一度深く呼吸したあと、意を決してエレベーターでロビーに降りて目を疑った。悪臭がした。目を凝らすと、闇の中に一人、二人と――見覚えのあるビルのガードマンが倒れていた。もう死んでいることはそれを見てわかった。片桐は絶望のなかでも動いた。こんなときこそ長年の習慣から携帯電話ですぐさまに連絡をする。
そのあとは、まるで音のない映画を見ているようにビルのなかにいた仲間たちが駆けつけて事態に対応した。
片桐もビルの奥の医療室につれて行かれ、傷を手当された。ぼんやりしていると、すぐに白衣を着た医者が困った顔をして視線を向けてきた。
「ツクヨミさまがお呼びだ」
「わかった」
片桐は無感動に応じた。
目を閉じていても、社長室に行くぐらいはできる。それくらいにビルのなかは把握していた。
今日は驚くほどに音がない。
足を引きずるようにしていった社長室のなかにはいると輝くネオンと闇を背にツクヨミは怒りをたたえた瞳で片桐を見た。何もかも知っているぞといいたげに。
「カードマンが三人も死んだ」
「はい」
「カメラにあった。……ヤマトが彼らを殺した」
「はい」
「お前が始末をつけてこい」
お前がしたことだろう。やってことだろうと、言いたげに。
今すぐに叫んで否定したかった。こんなことは望んでいない。ヤマトを殺したくない。これは悪い夢だ。そうだろう――と、だが、できなかった。
「わかりました」
片桐はすぐに出ていこうとすると、ツクヨミの声が呼び止めた。
「……ヤマトの行った先に心当たりは?」
「あります」
「……そうか」
それだけだった。
片桐は一度だけ振り返った。
ツクヨミの冷たい瞳が自分を見つめている。そのとき、アマテラスを思い描けた。ツクヨミは、アマテスラのようだ。
「ツクヨミ」
「なんだ」
「……いえ」
果たして、どこまでツクヨミは知っているのだろうか。
片桐にはわからない。ただ今はやれと言われたことをただやろうと考えた。ヤマトを殺さなくちゃいけない。
自分のせいで。
クシナダを殺した。そのとき何も考えなかった。ただ悪い夢が終わると歓喜すらしたのに、ヤマトに殴られたときにはっきりとわかった。
すべて壊した。
二人のことが好きだった。とても。
何かがきっかけで壊れたのだろうか? クシナダがヤマトを好きではないから? クシナダが自分を好きだから? 罠にはまったクシナダが敵によって拷問されたから? アマテラスが死んだから?
一体、なにがいけなかったのだろう。
泣き笑いの顔をして片桐は考えながら進む。
ビルの地下に行って管理人室を見ると、別の者たちがいた。ここにも死体があったのだという、そして車が一台盗まれているとも、その報告を他人事のように受けながら片桐はツクヨミの命令で一台車を借りると、誰かが付き添うというがそれは断った。
車に乗り込み、キィをさして、エンジンをかける。走り出す。
誰も来るな。この憎悪の果ての破滅に。
これは俺のもの。
ヤマトのもの。
クシナダのもの。
それ以外の人が立ち会っていいはずがない。
深夜の道をアクセル全開にして走る。エンジンが悲鳴のような声を荒らげて進むが、その音はやはり片桐の耳にはいることはなかった。
すべての音は失われ。色は黒に染まってしまった。
海に、とヤマトは口にした。三人が一番幸せで笑えていたときの最期の記憶。三人で行った海。片桐はそこへと走った。
光のない闇がみえ、駐車場に見慣れた車が会ったのに、その横に自分の乗ってきた車を乗り捨て、黒蛇王を片手に走り出す。
人の影は漣の音と塩の香りをまき散らす暗黒の海によってかききえた世界へと。
「ヤマトぉ!」
さざ波によって掻き消されないように怒声をあげる。
「ヤマトぉ!」
片桐は叫びながら砂の中を歩く。足をとられ、ころげて、口いっぱいにしょっぱい砂を噛みしめながら。
「ヤマトぉ!」
祈りにも等しい咆哮。
それに波の音が重なり合う。ざぁ、ざぁ、ざぁ。狂おしいまでの音と音の重なり合いにまるで世界には一人きりのような恐怖が広がる。ざぁ、ざぁ、ざぁ。
「片桐」
静かな声がして片桐は叫ぶのをやめた。
視線をさまよわせると、どうして今まで気が付かなかったのかと驚くほどに近く――びしょ濡れのヤマトが片桐の前にいた。
「なに、してたんだ」
「クシナダの死体を流してた」
「……そう、か」
今ごろ、クシナダの死体は肺いっぱいまで水に満たされて、深い海底へと沈んでいるのだろう。
「ここまで来たな」
「ああ」
片桐はヤマトを見つめた。
ヤマトは無言で構える。片桐はぼんやりとその姿を見つめて首を横に振った。
「構えろ」
「いやだ」
「クシナダは殺したのに俺はできないっていうのか」
ヤマトは吠え、殴りかかってきた。殺される、とわかったとき身体は勝手に動いていた。片桐の手のなかにいた黒蛇王が鳴く。血がほしい、狂気がほしい、すべて食らいたいと
片桐はヤマトの拳を避けて、上段に構える。
息が荒くなる。
心臓が音をたてる。
手が熱い。
全身が沸騰したようだ。
ヤマトの拳は迷いもなく怒りと失望を抱え込み、片桐を殴りつける。
片桐は悲しみをただ纏った全身に、狂気をはらんだ刀によって斬りかかる。
気が付いたとき、太陽はあけていた――絶対に夜は明けないとおもっていたのに、金色によって世界が満たされる。
そのとき片桐はヤマトの表情がみえた。
――笑って、ヤマトは片桐に向かっていった。逃げなくちゃ、と思ったとき、刃は吸い寄せられるようにしてヤマトの胸を突いた。
すべては一瞬。
ヤマトによって砂の上に片桐は叩きつけられ、黒蛇王はヤマトの胸を突き刺し、ヤマトは血をふきだし、倒れ込む。
「……ヤマト」
「ん?」
耳にくぐもった返事が聞こえる。
「どうして」
「お前はオロチだ」
「ヤマト?」
「すべて裏切って、食って、いくしかできない、そんなやつだ。かわいそうなやつだ。愛しい奴だ」
ちぐはぐの言葉。それが片桐の耳に静かに折り重なりあう。まるで溶けていく雪のようだ。心の届くと、消えて、あとにはなにかが残り、それがしみとなっていく。
「ごめん、片桐」
クシナダと同じことを口にする、どうしてそんなこと言うんだ? その言葉の意味はなんなんだ。片桐は尋ねたかったが、ヤマトの瞳はビー玉のように色も光も失い、ただ暗い闇だけをはらんでいた。
片桐はぼんやりとその顔を見つめて、そっと起き上がった。
暁が自分を染めていくのを感じる。
塩の匂いがする。
悪い、悪い夢から覚めたように、意識がはっきりとした。
「オロチ」
声がして片桐は振り返った。
黒でまとめた衣服を身に着けた若い男が立っていた。
「お前の裏切り行為の懲罰にきた」
「誰だ、お前」
片桐はヤマトの死体を奪われまいと、片手で抱きしめ、もう片方の手に黒蛇王を握りしめた。
「わからないか?」
男は笑った。誰かに似ていると思ったが思考がうまく動かない。
「お前が殺そうとした存在」
「……サキ? そんな、ばかな、だって、サキは女」
そのとき、男の姿がふっと女の姿に変わった。片桐は唖然とした。どいうことなのかわからなかった。
「あんたはサキ」
「ああ。そうだ」
サキだったものはすぐに男の姿に戻った。無感動な顔がふっと皮肉な笑みを浮かべる。
「どうして、生きてるんだ」
「サキは不死なのさ。お前、先代から聞かなかったのか?」
「……そんな、そんな、まさか」
片桐は混乱に陥ったまま頭を抱えた。
そうだ。先代は口にしていた。
――サキを、いつか殺せ
そんなことはずっと昔のことで忘れていた。先代を殺したときに、彼の残したすべてを封じたのだから。
彼の与える負の財産を背負いたくなかった。先代を殺してようやく彼から自由になったのだ。両親の復讐なんて考えなかった。それくらい先代が怖かったのだ。あの強さと冷酷さと、怖くて、怖くてたまらなくて。
死んだとき、ようやく自分は解放されるのだと思った。
だが、彼の与えたものは心に沁み込み、消えてはいなかった。
――サキを殺さなくちゃいけない
サキを殺すべきだと思ったのはなぜだったけ? アマテラスが死んだから。そして、黒蛇王を握ったからときから。
まさか、そんな。
「黒蛇王?」
片桐はぼんやりと黒い刀を見つめた。
「……お前は、それに操られていたようだな。その刀は、お前の前の使い手をとても愛していた。その男の望みをどんなことがあってもかなえようとした」
そんな、ああ、そんな。
「先代のオロチから聞いていただろう、サキは死なない。死ねない体なんだ。あいつはサキを殺すことに執着していた」
男はそこで哀しげに目を細めたあと、嗤った。
「俺はずっとサキのなかにいて、眠っていた。流石にあの爆発のなかではサキも死にかけていたが、ツクヨミがサキの刀をなおしてくれたおかげと……お前の女の銃弾のおかげであの女のなかにあった俺がちゃんと目覚めることができたのさ。ショック療法というやつか? 助かったよ」
からからと笑う声が遠くから聞こえるような気がした。
「そんなことって」
じゃあ、自分はクシナダをどうして殺した。どうしてヤマトは死んだ。
「殺してやるっ」
片桐は立ち上がった。
「殺してやる!」
誰を。
無論、サキを。
それが自分の意志なのか、黒蛇王の願いなのかなんてどうでもよかった。
自分が大切なものをすべて失ったのはなんだったのか。
「……目覚めた肩慣らしにちょうどいいか」
男に片桐はつっこんでいった。
世界が光に満ちたと思ったときには片桐は砂の上に倒れ込んでいた。痛みはなかった。ただ、激しく抗いがたい眠気が押し寄せてきた。
何をされたのか、どういうことが起こったのかわからなかったが、自分は負けたのだと、見下ろしてくる男を見て思った。
「未熟者」
ああ、くそ。
片桐は意識を失った。
男は黙って気絶した片桐の手から黒蛇王をとると、白い砂のなかに落ちている鞘を見つけ出し、しっかりと収めた。
刀が恨めしげな声をあげるのに男はふんと鼻を鳴らした。
「今回はずいぶんと勝手をしたな。何人もの命を食らったんだ。そろそろ満足しろ。それとも、先代のオロチが恋しいか? とはいえ、もう少し今の持ち手を大切にすることだな」
それでもなお一層、恨めしげに黒蛇王は泣き続けた。
男は無視して、片桐を覗き込むと、その身体を抱き上げて車へと運ぼうとしたとき、ふと足を止めて、光に満ちた海へと視線を向けた。
光に彩られた澄んだ海は淡い緑色をしていた。
「海、はじめてみたな」
男はぽつりと言葉を漏らして、再び歩き出した。
■
気が付いたとき、片桐はフウマ本部の地下にある牢獄にいた。いつからいたのは知らないが、自分がここにいる前の記憶をたどれば当然の処置だと思えた。ツクヨミは自分がどのようにしてサキの殺害をもくろんだのは知ったのだろうかとそんなことをぼんやりと考える。
時間という概念が欠落した広い部屋には娯楽がまるでなかった。このままでは身体が鈍ると考えて体の痛みがとれると、厭きるほどの時間をストレッチにあてていると、足音が聞こえた。
ツクヨミだ。
鉄の檻ごしの対面に少しだけ笑った。これでは珍獣ではないか。
「ツクヨミ」
「元気か?」
「はい」
片桐は頷く。
「そうか。アマテラスは死んだ。俺が、長として就任した」
「おめでとうございます」
片桐は無感動に祝いを口にする。
「今回のことだか」
「はい」
「……黒蛇王は、妖刀だ。それも持ち主を破滅させる。お前はその結果、ここにいる」
「はい」
それは誰でもない片桐が一番よくわかっている。
「出してやってもいい」
「というと」
「俺のものとして働け」
片桐は思案顔を作ると、にっと笑った。
「俺、裏切るかもしれませんけど? いいんですか? 一度裏切ったやつは何度でも裏切りますよ?」
「構わん」
にべもなくツクヨミは言い返した。
「いつでも裏切れ」
「いつでも?」
片桐は目を丸めた。
「以前もいっただろう。いつでも裏切るがいい」
それまで傍に置いてやるといいたげな傲慢さはアマテラスそのものだった。いや、アマテラスよりもずっと貪欲に見えた。
ごくりと、片桐は喉を鳴らす。自分の愛した人と、ツクヨミは似ている。あいてしまった穴を埋める最高の相手かもしれない。
ツクヨミもまた壊しようがない相手だ。
「ただし、条件がある」
「はい?」
「黒蛇王を使いこなせ」
「……」
「二度と、こんなバカなことをするな。愚かなのは許す、しかし、二度はない」
ぞくりと背筋に悪寒が走った。この支配される喜びを自分は知っている。アマテラスのときと同じだ。いいや、それ以上に。
「わかりました」
「よい」
「ただ」
片桐は遠慮がちに口を開いた。
「お願いがあります。ツクヨミ」
「なんだ」
「サキを、俺にサキをください」
片桐の口から開いた言葉にツクヨミは眉根を寄せる。
「サキを殺す権利を、食らう権利を俺にください」
ツクヨミはしばし考えるようにして懐から携帯電話を取り出すと、どこかに連絡をした。すると黒い着物に身を包ませたサキがやってきた。ツクヨミは五分で戻るといって去っていき二人きりになった。
「今日は女の姿なのか」
片桐は余裕たっぷりに笑った。サキは何も答えない。
「男のときは、いろいろと感情豊かなのに、女のときさっぱりなんだな」
やはり無言。片桐は構わずしゃべり続けた。
「お前が憎い」
「なぜ」
「みんな、お前を殺したいといった先代のせいで俺はなくした」
サキは答えない。
理不尽な憎悪だろうとも、それはこの女が自ら招いたものだ。
「だから俺はお前を憎むし、殺す」
「そう」
「そんな俺をお前はこれから受け入れるんだ。本当に死ねるまで、俺はお前にいろんなことをする。殺すために、それでもお前は俺を受け入れられるか? 俺はそれでツクヨミに協力するといった」
本当はツクヨミには無条件に従ってもいいと思っているが、あえて口にしなかった。
この溢れんばかりの憎悪を、これからこの女は受けるか知りたかった。
「わかった。それがツクヨミ様のためなら」
「人形だな」
「ええ、私は人形だもの」
サキは冷やかに言い返し、またたきもしない瞳がじっと片桐を見つめていた。
その瞳の輝きに託されたものがなんなのか。片桐はあえて知ろうとはしなかった。




