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しとしとと、鼓膜を震わせるうるささに窓から外に目を凝らせば、深い闇色に映る雨は白色を帯びていた。いつの間にか雪になったのか。

 片桐は思い目を細める。

「片桐? どうしたの」

 クシナダが声をかけてきたのに、いや、と短く答える。

 今片桐とクシナダがいるのはヤクザの事務所。そのなかにいる全員を皆殺しにするのが仕事。すべて終わったのであとは本部に戻るのみ。

ここ最近の仕事は他組織への牽制とともに、仲間たちの裏切りを防ぐための見せしめ――派手でかつ残忍に。悲鳴などが聞こえては困るとだいたい時間帯は夜に限られる。

 そのため、片桐とクシナダは二人で仕事にいく帰りはいつも徒歩を選んだ。今日も徒歩で帰宅すると本部には連絡してある。

 学校から一度アジトに戻って、そのあとコートだけの軽装で出てきてしまった。

雪のなか、帰るのは正直うんざりとしたが、事務所でうだうだとしていたら警察が来てしまう。踏ん切りつかない気持ちで外に出ると、寒さに身が震えた。こんなことならば迎えを頼めばよかったと後悔した。

「寒い?」

「少し」

「ほら」

 クシナダは自分のかけているマフラーをとって片桐の首にまく。そっと腕に手を伸ばすとしがみついてきた。片桐はいやがらないと、大胆になる。

 片桐はここ最近ずっとクシナダとだけ組んで仕事をしていた。行為的にクシナダがヤマトを避けていたせいだ。彼女は片桐と肉体関係を結んだ日から、片桐との二人きりの世界だけを望み、それ以外を排除しようと躍起になった。学校でもクシナダは今までのクールな女子生徒という印象を捨てて他の女たちに牙を向き、片桐に陶酔した。誰もがクシナダは異常だと思うが、彼女の心は現実にとどまっていた。異常になればもう片桐のそばにいられないと彼女はわかっているのだ。

 片桐が言えばクシナダはなんだって喜んでやった。死ぬことだって厭わない。いや、喜んで死んでみせるくらいに。

 そうした爛れて、狂った関係が完成したころには冬になってからだ。

 二度目の冬。

 クシナダと出会い、ヤマトと出会った時期だ。かけがいのない思い出は白い雪のように光を当てればきらめくが、熱によって溶けていく。

 片桐の嫌いな冬。

 今年はいつも以上の寒い。

 雪のせいだ。

 片桐はそう思った。

 いろんなものを無くした気がする。だが、実際はなにも、なくしていない。目の前にちゃんとある。

 自分の両手にあるものは常に雪のように。

 空から降ると、さっと消えていく。あとだけを残していく。形を変えても、自分の心に在り続ける。永久なんてありはしない。


 片桐は本部に帰ると、クシナダと部屋に流れ込んでセックスをした。それがクシナダが望んだことで、片桐が唯一の与えるべきことだからだ。そのときだけは寒さも、それに準じる気持ちもなにもかも忘れることが出来た。

 セックスのあと、片桐はそっと起き上がると灯りをつけずに部屋にあるノートパソコンをスイッチをいれた。

ここ最近、ずっとアクセスしているが、さすがに本部のデータベースだけはあって、内部にいる片桐も簡単には侵入することは許されない。

「片桐、どうしたの?」

「クシナダは寝てて」

「いや」

 クシナダは強く言い返すと、片桐の背中に抱きついた。

「なにをしたいの?」

 耳元をくすぐる囁き声。

「教えて」

「クシナダ」

「私に、頼って」

 そして、同じく私を求めて。

 クシナダの心の声が片桐にははっきりと聞こえてきた。

 彼女の狂おしいまでの願いと、狂気。それに手を伸ばしたら飲みこまれてしまうと理性は警告を発する。

 ほの暗い闇の漂う部屋で片桐はクシナダを見る。真剣な瞳を輝かせる女。彼女を薙ぎ払うことは簡単なことだ。

「出来るか」

「なにが?」

「後方支援から情報を盗む」

 クシナダは驚いたように目を丸めた。

「そしたら、抱いてやる。愛してやる。お前だけを」

 それは毒だ。まわりまわって死んでゆく、愛という名の人の目を潰す毒。クシナダはその毒に溺れていた。

「なんの情報がほしいの」

「アマテラスが死んでいるか、どうか」

 クシナダの眉が寄る。片桐がアマテラスのことを好きなことを彼女はよく知っているのだ。

 片桐がここ数か月、ずっと仕事の傍ら調べているのはアマテラスの死についてだ。

ツクヨミの箝口令のせいで少しも漏れてこない。

 片桐がいくらアマテラスのことを知りたくとも、ツクヨミは餌を目の前にぶらさげたまま動こうとしない。そうしてうまく片桐を動かそうとする。

「死んでいるのか知りたい」

「わかったわ。だから」

 唇が寄る。片桐は黙って目を閉じてクシナダの唇をむさぼった。

 愛している、求めている、あなたがほしい。

 毒を広め、溺れ、死んでゆくように。

二人は肉体を貪りあった。


 もしアマテラスが死んでいたら――そんなことはないだろうが――万が一のときは……復讐に溺れようか。

 片桐はぼんやりとそんなことを考えた。

 アマテラス以上の人はいなくて、失うものはなにもなくて、だから、なにもかも壊す道を選んだとしてもきっと自分は後悔しない。



 ――暦では冬は終わった。とはいえ、まだ肌寒い日々が続く。

 片桐が高校二年生に無事に進級し、クシナダが高校を無事に卒業し、大学生になることが決まった。

クシナダは大学生になることを拒んだが、片桐が命令して受け入れた。クシナダにとっては片桐の命令が第一の義務なのだ。

 あとは桜が散る季節を待つだけというのに間にクシナダは片桐のほしい情報のために身体を使ってまで手に入れてくれた。

それを教えてくれたのは、いつものように仕事を終えて、セックスした深夜だった。

クシナダがもったいぶるのに片桐は頭痛を我慢するように執拗に彼女の要求に答えて、ようやくその口から決定的な言葉を聞いた。

「アマテラスは死んだって」

 クシナダは意地悪く笑った。そうすることで片桐を自分のものに今度こそ完全になるのだと信じて疑わず。

差し出された分厚い茶封筒のなかにあったのは情報部が管理していた秘密書類――それを見て片桐は壊れた。

 なかにあったのは英語で書かれた書類と、無数の写真。すすだらけの部屋、血まみれ女の死体――アマテラスの死。

「片桐」

 クシナダが微笑んで、手を伸ばしてきたのに、片桐は払った。

「触るな」

「どうして、片桐」

「うるさい、黙れ」

「あなたの欲しがったことじゃない」

 クシナダが噛みついてきたが、片桐にとってはそれどころではない。

アマテラスが本当に死んでいたなんて! 悪い夢だ。いいや、この世界はどうして壊れないのかとすら理不尽に恨んでしまう。

 完全で、最強の彼女が死んだ。そんなことが許されてしまうなんて。

 クシナダは困惑とした顔のままじっと片桐を見つめ、瞳に暗い絶望を広めた。

「片桐」

「……こんなことあっていいはずない」

「けど、それが現実よ、片桐」

 自分の元へと戻そうとクシナダは必死に真実を告げる。

「うそだ、こんなの」

片桐は一心不乱に書類を見続けていたが、その手がふっと止まった。

「サキが、生きてる」

「片桐?」

「アマテラスが死んだのに、あの女だけ生きてる」

 どうしてサキは死ななかったのだろう。いいや、サキこそが死ぬべきだったのだ。かわりにアマテラスが生きているべきだったのだ。

「殺してやる」

 片桐は理不尽な怒りを吐き出した。

「サキを、殺してやる」

 それは復讐というにはあまりにも愚かな考えが頭に浮かぶ。

 サキが死ねば、アマテラスが生き返る。死ぬべき者が死ねば、生きるべき人が生きるはずだ。――どうしてそう考えたのか。アマテラスの死があまりにも受け入れ難く、それを否定するための言い訳が必要だったのだ。

 片桐は狂った笑みを浮かべて、同意を求めるようにクシナダを見た。彼女は泣き出しそうな歓喜に震える目をして、片桐にとびついた。

「ええ、そうね、そうよ! 大丈夫、私が必ず叶えてあげる」

 愛からクシナダは誓う。片桐のためサキを殺すことを。

 狂った妄想を肯定することを。それしか彼女には出来なかった。それしか片桐は欲していなかった。

 どんなバカバカしい、理不尽なことでも彼らにとってはそれ以上のものはなかったのだ。何かが壊れていた。それでも必死に壊れたものを正そうとしていたのだ。



 うららかな日差しが、淡い桜の花びら越しに見える。

 桜は散ることを恐れるように。また、どこか、諦めたかのように花弁を宙へと放つ。もっともっと咲いていたいのに、ただ散るしかない運命を儚んでいるかのようにも見えるが狂い、狂って笑っているようにも見えた。


 体育館でお決まりの演説のあと、二年生のクラスの顔合わせが済むとあとは解散になる。

片桐は帰ろうとすると、廊下でクシナダに捕まった。どうしてここに、と驚いたが、彼女は大胆にも学校の制服を着て、忍び込んできたのだ。

 期待に満ちた瞳に片桐は苦笑いして、クシナダと寒々しい校舎を歩いて人気のない化学室にはいると、広い机の上で当然のように愛し合った。少しも離れることは許さないといいたげなクシナダの深い嫉妬も狂気も、今の片桐にとっては心地よいものになっていた。

 そうして肉欲を満たすと、がたっと音がした。

 ドアを開けると、本田が驚いた顔をして立っていた。頬など真っ赤に染めて、見るとズボンが驚くほどに膨れ上がっている。

 片桐は笑って、本田の腕をとると乱暴に部屋の中にひきずりいれた。

「ひ、う、わ」

 間の抜けた声をあげて、本田は冷たい床に尻餅をつく。

「見てたのかよ」

「先輩がいて、だから、その」

 歯切れの悪い言い返しに、片桐はくっと笑った。

 本田がどうして自分に対してああも激しい敵意を向けていたのか、その半分の感情はわかった気がした。そうなるとますます滑稽に思えて腹を抱えて笑いたくなった。

「クシナダ、こいつ、口でしてほしいって、やってあげて」

 片桐の命令にクシナダは笑いながら

「いいわよ」

 忠実な人形のクシナダは犬のように四つん這いになって、本田に迷いもない愛撫を施す。

「先輩、やめてください。俺、あなたに憧れて」

 本田がもごもごと言い返しても、抗うこともなくそれを受け入れ、容易く快楽に飲まれ、それを爆発させた。

 片桐は思わず笑ってしまった。

「童貞かよ」

「……っ、うあああ」

 身を丸めて泣き出す本田に片桐はますますわからないものを見たように冷めた。

クシナダはくすくすと笑いながら立ち上がり、大きく肩を竦めて呆れてみせた。

 二人にとって残酷な遊びは本田の涙で冷めてしまった。

「服、着て。そろそろ時間」

「うん」

 クシナダは服に着替える。キスしてほしそうにしたが、本田に触れたその唇に触れるなど絶対にごめんだ。

 泣き出す本田を捨てて片桐たちはそこを出た。

 陽気な日差しに、空気は刺すように冷たい。

クシナダは甘えて、手を握ってきた。片桐は黙ってそれを受け取った。今日はクシナダの我がままをなんだって聞くという約束だった。

 それに片桐自身、クシナダとこうしているのは嫌いではなかったと今更だと思うのだ。こうしているとき心が落ち着いた。まるで熟れすぎて地面に落ちた果実の甘すぎる香りを纏うように、心が落ちて、ぐずぐすに腐って行くのが快楽のように心を麻痺させ和ませる。

「ねぇ片桐」

「なんなだよ」

「私、あなたが好き」

 前だけを見て、晴れやかにクシナダは笑顔で告げる。

「ああ」

「あなたが好きよ」

 もう一度、念を押すようにクシナダは繰り返す。

「ああ」

「あなたが好き」

 クシナダは何度でも、何度でも飽きるまで繰り返しづけた。それは校舎を出て、校門に行くまで繰り返され、片桐は何度も頷いて、彼女の愛を肯定し続けた。言葉だけならいくらだって認とめてやると言いたげに。


 その日、クシナダは愛のために殉じ――日本へと戻ってきたサキを射殺した。


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