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雨が降っている。

最近は、梅雨でもないのに、空の上には常に灰色の重たい雲がのしかかり、世界を覆いつくしてはまるで誰かの癇癪かのように涙がぱらぱらと降りしきる。憂鬱と疎ましさがまざったような天候だ。

 ツクヨミは、社長室の窓から空を見つめた。

 母であるアマテラスは豪華なことと、派手なことを愛していた。社長机の後ろは巨大特殊硝子がはめられ、景色を一瞥できる。怖いくらいに透き通った硝子に、空と大地のちょうど狭間――ここにいれば支配者になった気分にも、またさらなる上を目指そうとも思うかもしれない。ツクヨミにはあいにくと野心といえば、己の組織をいかにして守り、成長させるかということくらいで天へと届こうなどというものはない。

 アマテラスが死んだ。

 痛快な気分だ。同時に、自分のふがいなさが忌々しくもなる。

 母であるアマテラスはツクヨミがいずれは超えるべき人だった。近いうちに敵対することになっただろうと思う。

 いくら溺愛していても、彼女はツクヨミにたいして根本的な親子の信用や愛といった情が欠落していた。

 一人の男として愛し、殺そうというほどの偏愛を向けているのだとツクヨミは理解した。

それは吐き気すら覚える気持ちのわるさで、精神的に追い詰められた。

セックスこそしなかったが、母の目は自分のことを異性として見ていた。きっと時が熟すれば母はツクヨミを男として扱ったに違いない。

理想の男を作ろうとしたのだ。

だからこそ、ツクヨミは母を恐れ、憎んだ。

いずれはどういう手を使っても排除するべき敵。あの人が死ぬまで待っていたら、フウマはどうなっていたのか。考えるだけでも恐ろしい。 

 すばらしい腕をしていたが、どこかで何かが壊れていた。その壊れは悲しいほどに暴走し、誰も彼をも巻き込んで破滅へと向かっていた。

 今回のことはすこしばかり時間がはやかった。ということと、自分の手であの人を殺すことができなかったというだけだ。

 組織の者は後ろ盾がないことを恐れたり、不安がったり、今のうちにどうするべきか考える者と……誰一人として――否、オロチは激しいショック状態だった。一人くらいはあの母の死を本当に悲しむ人がいたのかと、ツクヨミは驚いたくらいだ。

 オロチはすぐに復活し、表向きは日常を過ごしている。さて、どうしたものか。

 すこしだけ時期がはやかった。

 計画をはやくしなくてはいけなくなった。悠長にしている暇はない。今、組織をまとめるのは自分だ。

 悔しいことにこのままではツクヨミの愛するフウマが崩壊してしまう。

 どれだけツクヨミが奔走しても、今はまだ幼いために手駒は少なかった。腹が立つことに一番信頼できるサキはアメリカだ。

 最後の最期まで母に邪魔される。もしかしたら、ここまで考えていたのだろうかとすら思う。

「まったく」

 疲れると、バカなことしか考えないな。

 ツクヨミは己の考えに笑い、仕事に意識を向けた。ここ数日、ろくに寝ていないが、それでもまだ追いつかない。

 子供である自分が憎い。

 経験のない自分が憎い。

 憎しみをエネルギーにして己のするべきことへと目を向ける。誰かを恨み、火を放つのではないかわりにすべてを投げうつような気持ちでただ没頭する。そうすれば叶うと信じるほどにツクヨミは若かった。

 ドアがノックされて、パソコンから目を開け「入れ」と短くいうと、片桐がはいってきた。その後ろにはクシナダがいる。

 ――こいつは

 一番の問題が目の前にきて、ツクヨミは顔に考えが出ないように努力した。

「仕事を貰いに来ました」

「仕事なら、すでに」

「その仕事ではありません。ツクヨミ様……オロチの仕事をさせてください」

 厳かなに告げる言葉にツクヨミは目を眇めた。

「裏切り者が出ています」

 ツクヨミは自分の弱さを突かれたように奥歯を噛みしめた。

「それは証拠はあるのか?」

 片桐は黙って、服のポケットからそれを取り出した。白い粉。

「……麻薬か」

「壊滅した組織のやつらがこちらの事情を察して、反撃に出てます。うちの中にも、いくらかこれでたぶらかされているやつもいるみたいです」

 組織が大きければどれだけ長が注意を払っても、下は腐敗する。変な奴が紛れ込んでしまう。

 アマテラスはあまりにもフウマを大きくしすぎた。

 東京本部はなんとかなっているが、大阪支部は今、別の組織とぶつかりあい、日々戦争のような毎日を過ごしている。

 さざ波のような壊滅の宴をツクヨミは一人で必死に防ごうとしているが、それも限界に近い。いや、もうとっくに限界を迎えていた。

「オロチは裏切り者の始末をします。させてください」

「具体的には」

「あなたが、命令すればいい」

 片桐は微笑んだ。

「オロチは、毒蛇です。使い手の思いのままに動くための」

 ツクヨミは黙った。

 刃にはならない。盾ですらない。ただ自分すら殺してしまうかもしれない危険な毒をはらんだ蛇。それをどう使うかは長次第。

 下手をしたら長自身、このオロチによって殺されてしまう。

 そういうことか、とツクヨミはいまさら納得した。

 代々オロチは強い。

 フウマの要石ともなるが、それは味方に対する牽制とともに、長その人のことも試しているのだ。オロチを使いきれなければ、その毒によって死ぬ。

 常に試され、試す。

 いいだろ、のってやる。

 ツクヨミは覚悟を決め、決断した。もう考えるのすらめんどうになっていたし、選択はなかった。

「いいだろう。今は、麻薬組織を潰すこと。敵の長の首を刈り取れ。その組織にこちらの情報を流す者を殺せ」

「はい」

 片桐は目を伏せる。

「一体、どうしていきなり従う気になった」

「……動物は強い者に従います」

 ツクヨミは目を眇めた。この男が自分を認めたとは死んでも思えない。あれほどにアマテラスに陶酔していたのだ。

「そして、己の巣が壊されるのをいやがる。アマテラスのことがまだ何もわかっていないのです。それまで俺は俺のするべきことをするんです」

 ほの暗い目は、まるで深い森のようだ。

 ああ、危険だ――ツクヨミはすぐに察した。この男は深淵をはらんだ森の中へと歩いている。今から刈り取る命と死体はすべてその森の腐葉土になる運命なのだ。

 アマテラスが死んだとは思っていない。

「……アマテラスが死んでいたらどうする」

 片桐は答えない。だからツクヨミが代わりに口にした。

「裏切ってもいいぞ。ただし、今はだめだ。このごたごたがすんでからだ」

 片桐の目が開いた。意外なものを見るような目だ。

 ツクヨミは気分よく微笑む。

「いけ」

「……はい」

 片桐はクシナダを連れて部屋を出ていく。それを見てツクヨミは深いため息をついて安楽椅子に身を預けると、天井を仰ぎ見た。

 ――少し、疲れた。

 だが、それでも動くしかない。

 ツクヨミは思い立つと、社長室に飾られている絵をのけた。そこには秘密の金庫があり、そのなかにはもっとも大切なものがある。

 ――いまさらだが

 秘書を呼びつて、このあとの予定変更をした。午前でするべき事務はほとんど終えていたので、問題はなかった。

すぐにツクヨミよりもずっと年取った、父親といってもいいくらいの男が駆けつけてきた。

 その男が用意した車でツクヨミはお忍びで、あるところに向かった。


 東京都市部からやや離れたところにある、白い壁に守られた日本家屋。門をくぐり、砂利道をさらに五分ほど進んでようやく庭を抜けて建物が見える。事前に連絡をいれておいたので、建物の前で着物に身を包ませた男が待っていた。

 この屋敷の持ち主である矢部龍之介だ。

 やや縦に長いといえる馬面は人好きそうな雰囲気があり、温和な目は人に安堵を与える。

 車が止まり、秘書がドアを開けるとツクヨミは矢部に頭をさげた。

「お久しゅう」

「これはこれはツクヨミ様とあろう方が頭をさげないでください。うちのアトリエにようこそ」

 矢部は腕のよい刀師だ。フウマで使われている刀はほぼ、矢部家の作品だ。とくに十刀という十本ある妖刀を作り上げたのは誰でもないこの一族だ。

 一族というが、矢部家を継ぐのは常に婿養子――矢部の直系は女しか生まないという。だから常に弟子をとって、あとを継がせる。

 矢部龍之介は十代目の当主になる。

 すでに三十に手の届こうという年齢であるが、彼は娶った妻を結婚生活二年で無くしてからは再婚することもなければ、弟子をとらずにただほそぼそと刀を作り続けている。欲のない性格だ。

「お電話をいただきまして」

「ええ」

「それで、品は」

「これで」

 ツクヨミは持ってきた、紫色の風呂敷に包んだ、それを差し出した。矢部の目が細まり、両手で丁寧にそれを受け取った。

 包から出すと、黒い鞘に包まれた刀が顔を出す。

 鞘から抜くと、刀は途中からぽきりと折れている。これでは人は殺せない、そして実践で使うこともできない。

「あなたの作品ですよね。十本刀の十本目、咲姫」

「……私の作品というと、少し違います」

 矢部はそういうと、にこりと微笑んだ。

「立ち話もなんですから、中に」

 本当はこの場ですぐに聞き出したかったが、ツクヨミはぐっと我慢して家のなかに招かれた。まるで時間が封じられたような家は濃い樹の匂いがした。ツクヨミは秘書には玄関で待っていてほしいと告げた。できればこの話は二人きりでしたいと思ったのだ。

 広い畳張りの部屋に通され、ツクヨミと矢部は二人きりで、机を囲んで睨みあう。矢部は焦ることもなければ逃げることもなく、さっさとお茶の用意をする。ツクヨミはそれをいただいてから口を開いた。

「話の続きを」

「咲姫は、明人さまがどこからかもらってきた刀なのです。それを私が多少の直しをしましたが……十本刀の一本だった、ということです」

「そんなことありうるのですか」

「さぁ、十本刀は、フウマにすべてお渡ししています。いくつかは欠けていますね……戦後のこと、刀は溶かされて鉄砲にされる運命にありました」

「フウマの、記録を読みました。いくつかのそれらしい刀の名がありましたが……紛失していました」

 フウマに存在する十本刀は全部で、三本。そのうち一本は片桐が所有し、もう一本はツクヨミが持っている。

 そしてもう一本がこの咲姫。

 それ以外はどこにもない。矢部のいうように戦中のなか、刀は溶かされ、消滅をたどっている可能性がある。

矢部家にも何度か問い合わせたが、十本刀は何一つとして自分の手元にはない、のことだった。

 そもそも、この刀が十本刀とわかっているのは矢部家の者が、刀に数字を刻み付けているからとわかるだけで、実際に十本刀すべてを見た者がいるかも怪しい。

 咲姫には拾と刻まれていたので、これは目の前にいる矢部龍之介の作品だと思っていた。なによりも記録では、明人の生前に、矢部龍之介の作品とて寄贈されていたとあった。

「あなたの作品ではないのですか」

「そうです。正確には……ただ私は、これを自分のものにしました。それは咲姫が、特別な刀であことと、私自身が、十本刀を作ることを放棄したためですけど」

 矢部の言葉にツクヨミは混乱した。

「それは正真正銘十本刀です。拾と刻まれていたのです、はじめから」

「なん」

「矢部家の名とともに」

 矢部の言葉にツクヨミは絶句した。

「咲姫の名は、私どもの持っている書にはどこにも作られた記録がないんです」

「なに……?」

 ツクヨミも手元にある記録をすべてあさったので知っていたが、こうなるとますます混乱する。

 矢部龍之介と父である明人は大きな偽りを作りだし、それをさも当然のようにしているというの。その偽りからしておかしい。

 記録にない咲姫――拾の数字と、矢部家の刻みがある。―― 一代に一本しか作らないはずの刀を?

「だから、私は、当時、作っていた自分の十本刀を放棄し、咲姫を正式な形にすることを選んだんです」

「どうして自分の刀を捨ててまで」

「咲姫が、それほどに美しかったからです。私は、自分の作っている刀を恥じ入るしかなかった。……もしかしたら、私よりもずっと腕のよい、戦前の矢部家の作品かもしれません。本来は一本なところを二本作り、それを隠していた」

「けど、だったら、どうして数字なんて。ただの刀にすればよかったのに」

「それが出来なかったのでしょう」

「なぜですか」

 ツクヨミは憤然と尋ねていた。こうなったら何を聞いても驚く気が起きない。ただ真実を知りたい。

「一人が持つ力などたかが知れています。表現できるものも……十本刀はもともと、そのときのその人の感情のすべてを集めた一本なんです。つまりは刀師のわがままで出来た、自分の生き様のようなもの。だから一本しか作れない」

 作り手の命、感情、生き様を、すべて宿した刀。

怨念とも呼ぶべき感情が、刀に宿り、恐ろしき妖刀となり果てた。

「だいたいは、負を作った者のあとはそれとは真逆の者を作る者が現れる。たぶん、そういう風にわざとしてあるんでしょうね。自分たちの作り出すそれが妖刀となるので……ある意味、刀同士を牽制しあうように、と。師が作り上げたとは違うものを弟子が作る。競い合い、受け継ぎ合うような……ゆえに夫婦刀、または二本刀というべきか。だから、矢部家の者は子子孫孫、先代の作り出したものとは違う刀を作る義務のようなものを負っているのです」

 血の繋がらぬ、しかし、それよりも濃い、受け継ぎを矢部家は繰り返す。

 ツクヨミには美術的な知識はないし、師と弟子の作り上げる愚かしいともいえるその受け継ぎをわからないし、わかりたくもないと思った。

「咲姫は、なんの形の対なのです」

「黒蛇王です」

 きっぱりと矢部は口にした。

「血に飢え、人を殺すしかできない黒蛇王と、咲姫が対です。咲姫は人を生かす刀です」

「だが、それは」

「そうです。不可能なんです……なぜなら、黒蛇王の作り手は、それを作りあげた直後、黒蛇王を使い自害しているから」

 矢部の言葉にツクヨミは目を伏せた。


 なにもわからないままであった。いくら矢部に己が作ったその刀はどうしたかと問いかけても頑なに口を開かずにいるので、仕方なく家から辞退し、咲姫は預けておいた。

人を切れるように、今度こそ完璧な形で咲姫を直してほしいというと、矢部は承諾してくれた。

 咲姫。

 あれはツクヨミの切り札。

 今まではアマテラスがいて直すことは出来なかったが、これで完全に直る。そうしたら、――考えていると、本社についた。

正面玄関にとまった車から降りると、ひときわ強い風が吹いたのにツクヨミは顔をあげた。

「嵐がくる、か」

 呟き、その予感がきっとあたっているだろうとツクヨミは思い、噛みしめた。


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