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フウマの本部には各フロアに浴室が設置されている。

 片桐のいる階の右の奥側にシャワールームがある。なかにはいるとタイルと、小さな個室のようにしてシャワーが三つ。

大概は先に男が済ませて、クシナダはあとでおもいきり使ってもらうようにしている。女の風呂は長い。たとえそれがシャワーでも。

いつものように片桐と、ヤマトが先にシャワーを使う。

 シャワーで湯を出して浴び、頭と体を洗う。

「シャンプー、貸してくれよ。ヤマト」

 二人はいつも一緒にはいるので、石鹸からシャンプーまで共有していた。今日はヤマトがシャンプー類は一式持ってはいったのだ。

 声をかけたのに返事がない。

「ヤマト?」

隣を覗き込むと大きな背が丸まっている微動だにしない。

「どうしたんだよ」

 片桐が背中を叩くとヤマトはようやくぎこちなく動き出した。まるでゼンマイ仕掛けの人形のように。

「片桐」

「ん?」

「俺、クシナダに振られた」

 その言葉に片桐は目を丸めた。

「告白したのか」

「ああ」

 しおれた声に片桐は息を飲む。そんなそぶり二人ともちっとも見せなかった。それなりに人の顔色を見るのはうまいと思っていたのに気がつかなかった。

「他に好きなやつがいるんだってよ」

「クシナダのやつに?」

「ああ」

 吐き出す告白にまたしても片桐は驚いた。

 クシナダとはずいぶんとそばにいるが、誰なのか検討つかない。いや、傍にいすぎてわからなかったのか。

 下唇を片桐は噛みしめる。

 ヤマトに対するどこか安堵とした、それでいて哀れに思う矛盾した二つの気持ちがこみあげてくる。

「……聞いたの? 誰かって」

「いや、いわなかった。たださ」

「ん?」

「お前じゃないのか。クシナダが好きなのは」

 片桐は目を丸めて唖然とした。

「まさか、そんなわけあるかよ」

「なんでだ」

「だって、クシナダは俺がアマテラスを好きだって知ってる」

 第一に、好かれる理由がない。

 クシナダの男の好みは知らないが、映画を一緒見てもクシナダが好きだという俳優はいつも自分よりも年上で、クールな二枚目。

 片桐も顔はそこそこに整った顔をしているが、それでもクシナダのお眼鏡にかなうとは思わない。思いたくない。

「だから?」

「え」

 片桐はうろたえた。

「お前が他が好き。だから? それだけじゃ、恋愛対象にしない理由がないだろう」

「年下だし」

「その程度だろう」

 ヤマトは笑った。本当に馬鹿にしたように。

「クシナダはお前が好きだよ」

「……」

 片桐は言葉を失い、ヤマトを見つめた。とたんに、目の前でうじうじと悩む男に猛烈に怒りが湧いてきた。そんなこと言われて、俺にどうしろっていうんだ。こいつは

「それで、ヤマトはなんなんだ」

「なんだよ」

 二人は殺気をこめてにらみ合う。

「クシナダが俺を好きだったら、それで」

「どうもしない。ただな」

「うん」

 たっぷり一分間――永遠にも等しい時間が二人の間で過ぎた。

 ヤマトは泣き出しそうな顔をして黙ったあと、頭をかいて俯いた。

「友達でいてくれ」

 困り果てた顔で告白されて、片桐は驚いた。

「お前はダチなんだ。大切な」

「ヤマト……」

 この男はバカだ。

 どうしてこんなときにこんなことを口にするのだろう。好きな女の子がもしかしたら好きな相手なのに。

 殺したいとか、憎いとか思わないだろう。

 片桐が恐れたのはヤマトが自分に絶縁を迫ることだった。短気であるヤマトならそれくらい言いだす可能性だってある。いや、そちらのほうが高い。

 クシナダを好きだとヤマトが口にしたときから、片桐はもしかしたら二人に弾かれてしまうのではないかという恐怖があった。クシナダがヤマトを受け入れないことで、二人がどのように言いあいをしたのかわからないが、それでも表向きはなにもないのだから、このままでいたい。なにもしらないままで。

 なのに、どうしてそんなことを口にするのか。

「俺はお前も。クシナダも失いたくない」

「そうか」

 残酷なほどに傲慢な答えに笑いだしたくなる。

 片桐は冷やかな目をしてヤマトを見つめ、その願いを叶えてやりたいと思っている自分に気が付いた。

 ヤマトと同じだ。そしてクシナダとも。

 誰一人として満たされない気持ちを抱きながらも、それでもいいからそばにいたい。あやういバランスの上で、もう本当は壊れているのに、必死で大切なものを守ろうとしている。

 そんな一人に、自分もいる。

「どうするんだ」

「何も言わず、このままでいてくれ」

 いずれは崩壊がくる。ただ結果を知りながら先送りしているだけの選択を、片桐は受け入れた。

「わかった」

 片桐の返事にヤマトは笑った。片桐は肩を竦めて手を出した。

「シャンプー、貸して」

「おう」


 この地点でもう三人がそれぞれ純粋に守りたいと思っていたものは、本当は粉々に壊れていたのかもしれない。

 大切にしていたものは、三人それぞれ同じだったはずだ。

 それは虚ろへと変わり、空っぽになっていったことを、知りながら目を背けていたのはやはり大切だったから。


 クシナダは恋をした。はじめから敗れていても。

ヤマトは傲慢だった。だから選び取れないでいた。

片桐は純粋で、ゆえにその目を容易く曇らせ、狂って落ちていった。


 なにもかも、壊れていた。

 それでも、三人はそれを大切にしていた。

 誰も悪くなく、ただ時間が残酷に進み、ひびわれたそれが完全に壊れただけのこと。

 もしかしたら、はじめから、悪かったのかもしれない。

三人の、出会いそのものが罪だったのかもしれない。


 ■


 アマテラスがアメリカへとサキを連れて渡り、フウマの本部を指揮するのはツクヨミの役目となった。

 片桐よりも三つ年下であり、アマテラスの実の子。

 フウマ当主である今は亡き明人の血を継いだ、唯一の後継者。

 組織において、血というものがどれだけ役目を果たすのか片桐としては、かなり疑問だが――それでもツクヨミのことを侮るつもりはなかった。訓練場での一件のことが尾をひいていた。また、あのアマテラスが溺愛して、自ら躾た子供なのだ。いくら若いといっても素質はあるのだろう。あとは若さをカバーするだけの経験が必要だ。それも時間とともに身に付くことだろう。

 若すぎる当主に周りは困惑したが、それでもアテラスの影響は彼女がいなくても健在だ。

 表向き組織はツクヨミの指導の下、平和に、過ぎていった。


 片桐は深くは考えない。

 ただ毎日、だらだらと学校に行って、訓練して、人を殺して、そして、ヤマトとクシナダと過ごす。

 ときどき、三人で過ごすことに違和感と窮屈さを、子供らしい潔癖さから感じたが――自分にまだそんなものを思う心があったのかと驚くが、どうしようもなさは鉛のように重々しいが必死に飲み込んだ。

あまりにも陳腐で、形にもならない塵のような不満。それが重なり、積り、山となっていく。

 だが、人なんてそんなものだ。

 親しげにしていたところで、心の中でなにを考えているかなんてわからない。わかるはずがない。掌を返されることなんて殺しの世界ではしょっちゅうだ。

 だから、わかりやすい。

 けど、クシナダもヤマトも、己の利益のために動いているのではない。

 ただ失わないため、それも大切な人のために、――片桐もそうだ。この息苦しい、水の中に溺れていくような緩慢な自殺の世界に、進んで足を突っ込んでしまっている。

 欺瞞だ、と思いながら抜け出せない。

 ――もっと、大人なら、なんとかなるのか

 片桐は放課後、いつも読んでいる漫画に目を落としてそんなことをぼんやりと考えた。

 好きな漫画も、ゲームも、アニメも変わらないまま好きだが、数カ月の間に、片桐の世界はあまりにも鮮やかに変わってしまった。

 本部にいても今は暇だし、なによりも、ヤマトやクシナダに会うのも億劫だ。

 二人から逃げるために最近は委員会という言い訳も使って、図書館でだらだらと過ごすこともある。今日は部活だというクシナダに来ないし、クラスメイトたちもさっさと帰っていったのに一人になれる場所と教室を選んだ。

 時間は進む。

 生きていれば進むしかない。

 片桐は観念して漫画を鞄のなかにいれて立ち上がり、教室を出た。そのまま廊下を歩いて校舎を抜けて門を出ると、今日発売の雑誌のことを思い出した。

 それに夕飯までには時間がある。――本部ならいくらだって好きなように食べられるが、買い食いとまた違うものがある。

 学校近くのコンビニに寄ると、通り道なので学生の姿がちらちらと見えた。

 片桐は雑誌とスナック菓子を手にとってレジへと移動しようとして、本田の姿を認めた。

小さな文房具コーナーで世界の終わりのような暗い顔をしてボールペンを手にしてまじまじと見ている。その手が動こうとしたのに片桐は黙って動いていた。

「やめろよ」

 はじかれたように本田が顔をあげる。

「やめなよ」

「片桐」

「レジの人に、すげー見られてるし」

 指摘したように、先ほどから店員が本田を見ている。今もまだ疑い深い目をしている。

「捕まるよ」

 本田の陰気な目が片桐を捕えて離さない。

 中学のときの秀才くんは、今やクラスのなかでも救いがたい落ちこぼれだ。成績は後ろから数えたほうが早い。休み時間にどれだけ勉強したところで授業についていくのが精いっぱいのようで、いつも憂鬱な顔をしている。

 勉学にそこまで頭を悩ませることもないのに。

 確かに有名な進学ではあるが、部活も盛んで、勉学だけというわけではない。たぶん、本田よりもバカなやつは大勢いる。それでも本田はクラスで最下位に等しいのはみんなが要領よくしていることが、彼には出来ていないからだ。

 テストの成績もだめ、友達もいない、孤立無援。

 それで万引きをして捕まるなんて目もあてられない。

「捕まるよ」

 片桐はそれをもう一度いうと、ボールペンをとって、売り場の棚に戻した。

「なんでだよ」

 本田の暗い呪詛が聞こえたが、片桐は無視をした。

 助けたわけでも、同情したわけでもない。ただ、見ているとあまりにも苦しそうで、陸にあがった魚に、水を与えたくなったのだ。

 それがたった一時のつなぎでしかないとわかっていても。

 陸にあがった魚はいずれ苦しみ、死ぬ。

 水はなくなる。――時間が進み、空気によって、枯れていくのだ。



 その日の仕事もさして珍しいものではない。事故で愛する娘を亡くした男が――たまたま相手が反省の色のない若造で、男は裏社会の胴締めで復讐を委託するべき殺し屋組織を知っていた。それだけだ。

 ツクヨミはアマテラスのような乱暴な仕事はしない。

 かなり選び取った仕事ばかりしている。

仕事のやり方でその組織には色が出てくる。アマテラスの二つ前の長は、かなり無茶な仕事を多くしていたそうだ。戦後の日本で、勝ち馬に乗ってやってきた中国ギャング、ロシアマフィア、さらにはアメリカ軍と――荒れ狂う猛者たちを相手に死闘を繰り広げ、日本の有益のために戦い、果ては己の組織を大きくしていった伝説の男。

明人のとき――片桐は知らないが、かなりおとなしくしていたようだ。彼が死亡し、アマテラスに覇権が渡ると、まさに先先代の伝説を蘇らせるようにして、恐ろしいほどの乱暴な仕事を再びするようになった。

 おかげでフウマは急成長し、日本にいる他の組織に恐怖政治をはじめた。アマテラスはフウマを誰にもひれ伏すことのない恐ろしくも、強い組織へと変えようとしたのだ。

 ツクヨミは若いが、恐ろしく冷静で、潔く、穢れない。

 それは仕事の選択に出ている。

 ――悪党を殺す、か。

 片桐は心のなかで愚痴る。

 アマテラスは金さえ払えば誰でも殺すことを選んだ。むしろ、争いを起こす選択を自ら進んで歩むような女だ。

 しかし、ツクヨミは危険を避け、殺すべき相手を選択している。

 アマテラスのころなら、こんな殺しはしなかった。

 多少の裏の駆け引きはあったのだろうが、それでもただの悪がきの始末なんて――片桐はそれに不満を覚えた。

 もっと殺すことができればいいのに。

 争いは大好きだ。

 なによりも、このもやもやとした気持ちを解消するには誰でもいいから殺すのが一番だと思う。それでも仕事以外での殺しは面倒事が多い。

 片桐はターゲットの、事前のスケジュールを聞いていた。さして難しくないが、ヤマトとクシナダも暇をしているというので応援にきてくれた。

 情報では相手は、自宅マンションで謹慎しているので片桐とヤマトはマンションに乗り込む、それにクシナダは遠くかサポートの狙撃。いつものスタイルで行くことが決まった。

 学校帰りに、運び屋のバンに拾ってもらう。すでに中にはヤマトとクシナダが待っていた。それに衣服を電気屋のじみなツナギ服にしておく。

 そのとき、衣服のきつさに片桐は気がついた。

「俺、また背が高くなったぽい」

 にぃと片桐は笑う。このごろはひと月に一センチは伸びている気がする。

「お、そうなのか?」

 ヤマトが怪訝な顔をする。

「俺から見ると、ちびだけどなぁ」

 などと口にして頭を叩いてくるのに片桐が吼えた。

「お前と比べるな、山男」

 ヤマトは二十歳ですでに百八十センチもの身長がある。これ以上高くなるのかはわからないが、武術をしているので、恐ろしくがたいもいい。

 それにたいして片桐は高校一年生でようやく百七十センチにいったところだ。小柄というわけではないが、それでもまだ身長は欲しい年頃だ。

「あんたたち、暴れないの」

 クシナダがお姉さんぶって二人を睨みつける。

「けど、片桐は大きくなったのね。出会ったときは、もうすこし小さかったのに」

「あ、確かに」

「お前らなぁ」

 二人の和気藹々と言い合うのに片桐は歯を剥いて唸る。

 こうして軽口をたたくときは平和だ。それでも違和感ばずっと残ったまま存在している。


 車が止まり、目的地についたと告げられると、片桐とヤマトは視線を交わして頷く。先にクシナダが降りて、射的ポイントへと移動する。

 五分後に、片桐とヤマトは外へと出る。そして何食わぬ顔をして「電気屋です」と言って相手の部屋に上がり込む。さすがにこのご時世に殺し屋がこんな古典的な手でくるとは誰も思わないのはわりと成功する。

 マンションの五階の奥。

 呼び鈴を鳴らすが、返事はない。――静かだ。

片桐は眉を寄せる。

 ヤマトも異変を感じ取ったらしい。

「おかしくないか、ここ」

 ヤマトがドアノブに触れた、瞬間、かちり、と音が聞こえた。

「ヤマト、ドアノブから手を離せっ」

 片桐はヤマトの肩を掴んで床に倒れる。

 と、

 どんっ! ――叩きつけるような風圧と衝撃が襲ってきた。

 ヤマトが自分に被さってきた片桐の頭を両手で抱き、二人は互いに相手を守り合った。おかげで片桐は飛ばされず、ヤマトも怪我をせずに済んだ。

 耳が痛む。

 風が切り裂く。

 それらを数分我慢すると、息をするのが苦しい煙のなかでヤマトと片桐は互いに視線をあわせた。

「な、なんだ」

「小型爆弾だよ。それもかなりいいもん使ってるな。……いてて、無事かよ」

「おう、お前のおかげでなぁ。けど、ドアがぺちゃんこだなぁ」

 ヤマトは吹き飛ばされ、まだもくもくと灰色の煙を出すドアに呆れた視線を向けた。

「お前、爆弾の知識あったのか」

「うん。ヴェロがもってる。ドアノブに糸いれて、ひくと爆発するしかけにしてあったんだってさ」

「ヴェロ?」

「俺の中にいるロシア人の爆弾魔」

 それだけでヤマトはあっさりと納得した。

「けど、なんなんだ」

「罠さ。早く行こう、警察やら一般市民がくるとやっかいだ。それに……クシナダ!」

 ヤマトが片桐を抱いて走り出す。

「おい! ヤマト!」

 まるで荷物のようにされて片桐はヒステリックな声をあげるがヤマトは聞き入れてくれたりはしない。

襲撃の危険性も考え、階段に出ると、銃を持った男が待ち伏せしていた。

「やっぱり罠かよ! おい、九郎っ」

 片桐は舌打ちすると懐に隠してあった銃を取り出した。ヤマトの鼓膜を破らないように注意して腕を伸ばすと、担がれて走っているという無茶な態勢だったが撃った。相手の一人が倒れる。

 ヤマトは九郎が撃つタイミングで階段から飛び降る。敵の頭から肉片が飛び散ると、同時にその身体の上へと飛び降りると、ぐしゃりと肉と骨が潰れる音がした。

奥にいた敵にはタックルを食らわせて、アバラ骨を叩き割り、一瞬でカタをつける。

「ヤマトくん、乱暴っ」

 九郎は恐れおののいて、ヤマトにしがみつく。

「うるせぇ! まだいるぞ! おい、九郎、頼む」

 ヤマトの声に九郎は、怯えた目をしたまま――ヤマトの肩に手を置くと、しなやかな猫のように宙に飛ぶ。もう片方の懐から愛用のAK94を取り出すと、――宙に回転したまま、安定のない、さらには二丁の銃を発砲。敵の脳天を見事に打ち抜くのは驚くほどの技だが、九郎は暗い顔のまま天井に向いた足を、腰を捻って壁へと向けると強く蹴って、頭から下へと落ちる。それを走るヤマトが受け止めて再び走る。

 息のあったコンビネーションで、そのまま一階まで降りる。

「敵はいないな」

「……待って」

 焦るヤマトを九郎が制すると、先に飛び出して敵がいないかを確認。そして、迷いもなくバンへと走って中を確認すると息を飲んだ。

「おい、どうし……くそ!」

 運び屋は正面から――改造車で、ガラスは対銃撃戦用にしてあったが、それを撃ち抜かれて頭から血肉を飛ばして絶命している。

「クシナダは」

「待て、すぐに携帯、いや、無線で」

 ヤマトは車の中に乱暴に乗り込むと、運転席の死体を押しのけて、無線をかける。どれだけ待ってもザァアアと激しい雨がアスファルトを打ち付けるようなノイズしかはいらない。

 ――やられた。



 片桐とヤマトはすぐに本部に連絡をいれて、戻った。

二人がマンションから外へと出た直後に警察のサイレンの音すらしてきた。――敵はそこまで手をまわしていたようで、ここで捕まるわけにもいかないのでヤマトの運転で逃亡したのだ。まるで負け犬が尻尾を巻くかのように。

 完全に負けた。

 おめおめと戻るのは片桐もヤマトも屈辱で震えるほどの怒りを覚えたが、緊急事態を報告する義務があった。

 すぐに二階にある会議室に二人は呼ばれた。

 長い机と、ホワイトボードだけがある必要なものしかない部屋でツクヨミが神妙な面持ちで待っていた。二人の灰と血まみれの姿を見ると目がよりいっそう険しくなった。

「相手は、お前たちにいわれて、すぐに依頼者を捕まえた。いま、取り調べ中だ」

「ツクヨミ様、クシナダが捕まったんだ。助けたい」

 ヤマトが勢いこんでいう。もし、クシナダが生きて無事だったら彼女ならば一人でもここへと逃げてくるはずだ。それがないということは捕まったということだ。

「ヤマト、それは無理だ」

 ツクヨミは冷酷に言い捨てる。

「なんでだよ」

「……スナイパーは捕虜にならない」

 ツクヨミは言いづらそうに告げたのにヤマトははじかれた顔をした。

「クシナダが捕まったとしたら、彼女は確実に殺されただろう。問題はこちらの組織のことが流れることだ」

「おい、なんだよ、それ」

 ヤマトが噛みつく。

「戦闘で興奮しているのはわかるが、冷静になれ。今日のことを見てわかっただろうが、相手はなんだってするやつらだ」

 それは暗にクシナダは生きてないといいたいかのようだ。

 ヤマトが口ごもるのに片桐が前へと出た。

「つまりは、クシナダを見捨てるっていうんですか?」

「私は組織の長だ。一人の者よりも、組織を守る義務がある」

 卑怯な言いまわしだ。

ツクヨミと片桐は昏い深淵をたたえた瞳で睨みあった。

「相手がわかればすぐに潰す」

「……わかればいいんですね」

 片桐は冷静に確認するとツクヨミの片眉が持ち上がった。

「俺たちにバカな依頼をしたやつのところにいってもいいですか? 拷問は今、誰が」

「真田と和樹の二人だ」

 この二人は後方支援の者で、武器の密売などをしている。かなりのベテランたが、拷問する者としては手ぬるい。

「他の幹部は?」

「今回のことがあって、出払っている」

「なら、俺は暇です。拷問させてください」

 片桐の言葉にツクヨミは目を眇める。

「お前には他の現場にいってほしいんだが」

「必ず三十分で必要な情報をすべて聞き出します」

「……いいだろう、いけ」

 ため息とともにツクヨミが手をふると片桐は背を向けて外へと出た。そのあとをヤマトがついてくる。

「できるのか?」

「できるんじゃない。するんだよ。こうしている間にも、クシナダは死ぬかしれないんだぞ!」

怒鳴りあげて、片桐はエレベーターに乗り込むと地下の訓練場の横にある捕虜を囲う部屋に赴いた。

高度な防音で、叫ぼうが、泣こうが誰にもわかることはない。

 ドアを開けると、若い優男の真田と子供のような童顔の和樹が椅子にくくられた男の太ももに真っ赤に焼けた杭を打ち込んでいた。

 それを見て片桐は笑った。

「交代だ。手ぬるいことしてる暇であれば自分らの仕事しな」

「手ぬるいってなんだよ」

 二人が片桐の態度にむっとした顔をする。

「連絡きてるだろう、さっさと退け。オロチが直接、こいつの相手をするといってるんだ」

 凛と、怒気をはらんで片桐が声を放つと、真田と和樹がひるむ。

「けど、こいつ、いくらやっても吐かないんだよ」

「訓練しているわけじゃなさそうだが」

「だからお前らのは手ぬるいんだよ」

「なんだとぉ」

即発の雰囲気に、はじめに動いたのはヤマトだ。獣のように唸りあげて、二人にとびかかると首根っこを掴んで、片桐のために道を開けさせる。

おかげで片桐は優雅な足取りで、その依頼主へと行くことができた。

「よぉ、バカ男」

 片桐は震える男を見つめた。

 いくつも殴られたあと、火傷、ひっかいたあと――爪も剥がされ、片方の太ももには杭が打たれているのに、涙をなじませてぶるぶると震えたまま口を噤む男の姿を見ると、片桐は愉快でたまらないといいたげに笑った。

「ふん、よく、まぁ我慢してるな」

 片桐は優しく、そっと男の頬を撫でると、怪我した足にわざと体重をかけてのしかかる。男が歯から息を吐き出して呻く。

「けど、時間がないんだよ。俺らには」

 クシナダにも。

 片桐は躊躇いなどなかった。男の足にある杭を抜くと、その片目に突き刺した。

 悲鳴があがるが、そんなことはかまわない。男の自由を奪い取っている紐をほどくと、手早く、無駄のない動きで足を縛り、天井に逆さ吊りにした。

「俺は死なない拷問方法をさんざん教えられてきた」

 男が唸る。

「三十分だ。それ以上はかけない」

 片桐は微笑んだ。



「うげぇ」

「ごほ、ごほ」

 悲鳴を漏らして真田と和樹は口を手で押さえて部屋を出ていった。そのあとにヤマトと片桐が続く。

 二人が廊下でぜぇぜぇと吐きだし、泣き出している姿に片桐は冷たい一瞥を向けた。

「その汚いもの片付けておけよ。あとこの死体も。いくぞ、ヤマト」

「おう」ヤマトの声も若干震えていたが片桐は気にしなかった。あの程度で情けない。

「……お前、えぐいな」

 先を歩く片桐にヤマトが声を漏らす。

「怖いか?」

 前だけみて片桐は言い返す。

「いや。……お前がいてくれて助かった」

「そうか」

 その言葉に片桐は笑った。

 三十分といったが、五分で男は落ちた。その情報を持って片桐はツクヨミの元へといく。

 会議室ですでに連絡はまわっていたツクヨミは二人を待っていた。それに片桐は男から受け取った情報を余すことなく告げた。

 敵は、今潰れてかけている麻薬組織。――もう壊滅状態であるのに最後の最期で叫びをあげ、反抗してきた。

 潰されるくらいならば、相手も巻き込もうと。

「あいつらは俺らを潰すつもりです」

 拷問した男は、子供かを人質にとられていると口にした。その子供はすでに死んでいるだろう。それくらいわかればいいものを――片桐は冷たく思う。だがそれと同じ業況に今自分はいるのだ。だから、情報を聞き出したら、あっさりと殺してやった。それくらいの慈悲は片桐にはある。

「反撃の命令をください」

 片桐の言葉にツクヨミは何も言わない。

「ツクヨミ?」

「……頭に血が上っているお前たちをいかせろと? まだあいつらのアジトはわかっていないのに」

「ツクヨミ!」

 ヤマトが吠える。

「冷静になれ、このバカ者ども。お前たち二人がいなくなったら、ここは手薄になる。相手は必ずクシナダからここを聞き出して襲ってくるぞ」

「だから、待てと?」

 クシナダが死ぬのを、ただただ。馬鹿みたいに。お預けをくらわされた犬のように?

「そうだ。他の者たちにも連絡して、いま、組織を探させている」

「あんたは、保身に走りすぎる」

 片桐は怒気を孕んで吐き捨てた。

「アマテラスなら、俺を野に放つ」

 それは今まで言わなかった本音だ。

 片桐はなにかとツクヨミとアマテラスを心のなかで比べていた。アマテラスならこんなことは起きなかっただろうとも思っていた。

「……お前たちを放して、どうする。場所もわからない、さらには頭に血が上っているお前たちを」

 ツクヨミの鋭い噛みつきは少しだけ片桐を楽しませ、冷静にさせてくれた。

「あんたと俺は合わない。それだけさ」

 片桐はさっさと背を向けて会議室を出た。その背後でツクヨミが天を見上げて、嘆息する声が――聞こえてきた。


「どうするんだよ」

 廊下を歩いているとヤマトが苛立った声をあげた。

 自分たちのできるのは、バカな男を締め上げて、情報を聞きだし、それで終わりだというのか。それだけであとはここの守りに徹し、クシナダがひどい目にあっていてなにもできないというのか。そんなの気が狂ってしまいそうだ。

「ヤマト」

片桐は足を止める。

「俺、いまからすげールール違反するけど見逃す?」

「なにするんだよ」

「クシナダを助ける」

 背後にいるヤマトの苛立った気配が、ぴんっと張り詰めたのを片桐は感じた。

「止める?」

 問いだす声に弱弱しさが宿る。

 自分がいますからするのは命令違反だ。ばれればそれ相当の懲罰が下されるだろう。ヤマトを巻き込むつもりはない。

「行く」

「ヤマト」

 片桐は驚いて振り返る。真剣な顔でヤマトは自分を見つめてくる。

「いいのか?」

 ヤマトは言葉として答えないかわりに、片桐の横に来ると、肩を抱いてくれ進みだした。俺も行くと示してくれた。だから片桐は迷わない、進む道を選んだ。


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