#1 となりの憑きもの
季節は匂いから変わってゆく。
季節が移ろうたびにそれを実感する。
視覚や聴覚だけでは捉えきれない気配が鼻先をただよい、器官から入り込んだ気候が全身に伝わってゆく。
感覚を研ぎすまさずとも広がってゆく変化の香りに翻弄され、意識は季節の狭間に吊るされたようなおぼろげなものとなる。
いずれ、しんみり感じることになるのだ。
さあ、秋がきた――。
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「はあ……」
九月十二日。私――唐草秋人は銀行に設置されたATMの前で溜息をついた。この日、大家という名の守銭奴に、家賃を手渡したばかりだった。月に一度味わう喪失感は、なんとも言いがたい脱力感をともなう。
ろくな仕事に就いていないためか、勤倹力行の心意気で働いているというのに、家賃を差し引いたあとに残った額は、雀の涙としか言いようのない程度の金額だった。
桁はかろうじて五桁まである。が、私の目がたしかなものならば、万の値は「1」だ。えらく逼迫していることは誰の目から見ても明らかなはずだ。
「俺、来月まで生きてられっかな……」
つぶやいてみたものの、先月も同じことをつぶやいていた気がするので、おそらくは大丈夫だろう。論理的とはいいかねる希薄な理屈だ。そういった無根拠な自信だけをかき集めて心の糧としている。不安定な生き方だ、とは自覚している。
思い悩んでいるうちに銀行内は混雑してきた。後ろに並んだ中年男性がちらりと私を見るなり舌を打った。「なにちんたらやってるんだ」と非難されているようだ。続けざまに咳払いを鳴らされた。いい加減どかなければ、今度は罵言が飛んできそうだ。不慣れな手つきで金をおろしたのちに、私は銀行をあとにした。
その足のまま、晩食の材料を買いに夕闇のおろされた街中を歩いてゆく。近くにはコンビニが一件あった。だが、一キロ先にあるスーパーマーケットまで足を運ばせることにした。コンビニに並べられた商品はあまりにも健康に悪い。値段もそこそこだ。スーパーにて安い野菜を買いだめて鍋を作った方が、健康的な上に安上がりだ。
銀行からスーパーまでの道中にあるホームセンターの前を通りかかると、道路のわき、駐輪場のスペース、そこらじゅうに学生たちの影があった。どこかせわしなく、それでいてあいあいと歓談している。
「そうか、もう学園祭の時期なのか……」
おそらくは祭りで使う材料をホームセンターまで買いにきたのだろう。彼らにとっては、学園祭こそが今もっとも優先される事柄だ。まったく高校生は気楽でいい、などと年よりじみたことを黙々と考えていた。
私の家から一番近いのは、桜下女子高等学校だ。「桜下祭」と呼ばれる壮大な祭りが開催される。そのため至るところで桜下祭の張り紙を見かけるようになった。張り紙には、再来週の土曜に開催されると記されている。
しかし、これほど大々的に告知しておきながら、祭りに参加するにはチケットが必要だった。なので私の目には、この張り紙が「参加できない者」に対しての嫌がらせにしか見えなかった。まったく、底意地の悪い真似をしてくれる。
数十分かけてようやくスーパーにたどりついた私は、野菜の陳列棚までむかい、並べられた商品が安くなっていないかを入念にチェックしてゆく。夕刻になると値引きされる品物がでてくるからだ。場合によっては半額以上割り引かれることがある。それをみすみす逃す手はあるまい。自分でいうのもなんだが、極度の貧乏性なのだった。
と、ここで私は紺青のジーパンのポケットにしまってあった携帯電話を取りだした。これは機械に詳しい友人から譲ってもらった代物だ。携帯電話などたいそうな最先端科学技術品を扱う機会は滅多にない。むろん、通話料がもったいないからだ。しかし耳に添えるだけならば、料金はかからないはずだ。
電話を耳にあて、まず初めに「もしもし……」と言っておいた。電話越しから聞こえてくる返答はない。
「なんだよ、さっきからうっせーな。聞いてるよ。はあ? プディング? まあいいよ、安いやつなら買っても」
ふと見れば、私がたずさえたカゴの中、野菜にまぎれて、すでにプディングが混入していた。手が早いにもほどがある。あごと肩に電話をはさみながら、カゴの中に入ったそれを取り出した。パッケージを見て、私は眉をひそめる。
「おい、ちょっと高えよこれ。そっちに二十円引きされてるやつがあるだろ。そっちのにしろ、そっちのに」
携帯電話に向けて会話を続ける。
「あ? 味が落ちるだあ? 上等な味覚なんて持ってねえくせに贅沢言うじゃねえよ、うちの家計のことを考えろ」
叱責口調で言ってみるが、強情な向こうは引き下がらない。私が棚に戻したプディングをすぐさまカゴの中にいれてきた。一般人の視線があるのに大胆な行動だ。
そのやりとりを何度か繰り返したすえ、私はため息をついた。こうなると、“この小娘”は引き下がらないことをよく知っていた。
「わーったよ。しゃあねえな」
実のところ、私は通話などしていなかった。片手にもった携帯電話は、周りにいる一般人から不審に思われないようとった、カムフラージュ工作だ。
そして、私のとなりにいる銀色の髪、全体的に白い格好をした――いわゆる「白色の憑きもの」は――満足げに笑った。
「にひひひ、ありがとー、秋人♪」
携帯電話に向けてわざとらしいため息をつき、視線だけを憑きものへそそぐ。
そうしてから、ひときわ大きな声量で私は言った。
「ったく、逼迫している事態にちったあ危機感を覚えろよ、この“小娘憑き”め」
次回
#2 家族ごっこ