#3 好事魔多しというけども
九月十六日――。銀行のATMの前にて、私は人目など気にせずに快哉を叫んでいた。握った拳を天井めがけて突きあげる。
日頃から憑きものの存在を勘づかれないように励んでいる私だが、辺り一帯に歓喜の声を轟かせた。目前のATMのモニタに光り輝いた数字が羅列されているからだ。
「おい、給料が振り込まれたぞっ!」
当然の出来事に喜びを感じられることは、なによりも幸せなことだと思う。
興奮した心のまま「やったぜっ!」と、となりにいる憑きものとハイタッチをかわしあう。憑きものを視認できない人からすれば、一人きりで暴れまわるといったおかしな行動にしか見えないだろう。もはや、他人の視線など気にしていなかった
「やったね! これで、しばらくはちゃんとしたご飯が食べられるじゃんっ!」
小娘憑きは晴れやかな笑顔を浮かべながら、本当に切ない喜びの声をあげる。
ここ最近は、「涼しい日には鍋、暖かい日には素麺」とプログラムが組まれている。まるで「月火木のグラウンドは野球部、水金はサッカー」といった部活動のローテーションみたいな食生活だ。いくら辛抱強い私だって野菜鍋ばかりの生活にうんざりしていたところだ。今日からしばらく、味の濃い食事が取れることに喜びを感じいる。
「ああ、今日は大盤振る舞いだっ!!」
「パーティー?」
「そうだ! パーティーだっ!」
「わぁい! パーティーだぁ!」
「せっかくだし、石岡さんも誘おうか。どうせやるなら人数は多い方がいい」
妙案だと思った。私はなにごとに至っても慎ましやかなものよりも、賑やかな方が好きだ。騒々しいくらいがちょうどいいと思っている。
ふと視線をおろせば、小娘憑きは目を伏せて押し黙っていた。
「いや……それはやめて……欲しいかも」
ほそぼそとした口調にはいつもの覇気がない。
「なんでだよ? お前、前に石岡さんのこと、いい人だって言ってたじゃないか」
「いい人、うん、まぁそれはそうなんだけどさ……。でも……だって……他の人が混じると、秋人ってば、あたしの相手をしてくれなくなるじゃん?」
いきなりなにをしんみりと語り出すのかと思えば、そんなことだったのか、私は拍子抜けした。
憑きものを認識できる人間は限られている。一般人が混ざれば当然のごとく、私が小娘憑きに話しかける頻度が著しく下がる。おしゃべりな彼女にとって、それがどうしようもなく嫌なのだろう。
東京に出てきて二年もすれば、憑きもの筋の知り合いは何人かできる。だが、ここ最近は関わり合いになっていなかった。みんながみんな憑きもの関連の仕事に就いている変わり者たちばかりで、簡単な話、憑きものの面倒ごとを極力避けたがる私とは肌があわない。彼らを誘うとなれば、それはそれで面倒だった。
「分かった分かった。それなら、俺たち二人、水入らずで楽しもうか!」
「うん! そうしよ! 水入らず!」
「白色の憑きもの」は屈託のない笑みを浮かべた。
「ところで秋人。“水入らず”ってなに? 新しい節約術?」
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
パーティーの材料そろえるべくスーパーマーケットへ向かう。今日は野菜だけではなく、肉や果物まで買おうと頭のなかで計画を練っている私は、昨日までとは比べ物にならないほど軽い足取りだ。
たどりついたスーパーにて、小娘憑きに声をかける前に携帯電話をポケットから取り出す。それを耳に当て、いつも通り「もしもし」と言っておいた。受話器越しから、返答はない。
「よぅし! なんでも好きなプディングを買っていいぞ! 今噂のティラミスだって買ってやる!」
スーパーの店内で憑きものに指示を送りながら、彼女の口から垂れたよだれをハンカチでぬぐってやった。
この憑きもの、人間のように食事をとる。好き嫌いをせずになんでもぱくぱく食べる。なかでも甘いものには目がない。数あるスイーツと呼ばれるもののうち、カスタードプディングが一番の好物だ。家計が逼迫しているときですら、ねだってくる。
「え、本当に?! ふひひひひ。じゃあ、これえ!」
「なんだぁ、三百五十円もするじゃないか! おいおい、天地を揺るがさんほど物騒な値段だな。だが、構わんっ! 今日だけは特別だっ!!」
このペースで使ってしまえば、のちのちしわ寄せがくることは目に見えていた。目に見えていながら、人生において細やかな起伏というものを大事にしている私は、時に豪放となる。
「やったぁあ! この生クリームがたくさん乗っているプディング、ずぅ〜っと食べてみたかったんだよねぇ! チェリー♪ チェリー♪」
となりにいる憑きものはポニーテールをはためかせながら、その場でぴょんぴょん飛び跳ね、喜びを全身で表現した。この憑きものからただよう椿の香りが甘ったるい。
「今日の俺は太っ腹だ! せっかくの給料日だ! お酒でも飲もうかな!」
「飲んじゃえ、飲んじゃえ!」
大げさに手を叩いて騒ぎ立てる。憑きものにうまいこと担ぎ上げられている気がする。今日一日くらいはそれでもいい。
買い物を終えた我々は、妙に高揚した気分で帰路をゆく。川から放散される冷気が風に乗って伝わってくるため、河川敷はいつにもまして涼しかった。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
世の中では「好事魔多し」という言葉がある。良いことがあったあとには、悪いことが起こることが多いという格言だ。油断するなという意味でもある。けれども、喜ばしいことが起これば、喜ばしいことが連続して起こるのもまた、世の摂理だ。
そして、その喜ばしいことは帰宅途中、風に乗って飛ばされてきた。ひらひらと宙に舞うそれをしばらくは、モンシロチョウが飛んでいるのだと眺めていた。それが地に落ちた時、生き物ではないことが判明した。たったひとひらの紙切れだった。
アスファルトにこすれた紙切れを拾い上げて、紙面をまじまじと観察した。可愛らしい猫のイラストが多数描かれていた。すみずみまで小綺麗な装飾が施されている。この愛愛しいデザインの薄っぺらい紙切れは……もしや……。
「うわあああああああっ!!」
私の目に狂いがなければ――間違いない――。
「なんてこった! これは、桜下祭のチケットじゃないか!!」
桜下祭――その祭りに参加するために必要となるチケット。
桜下女子高等学校にて行われる桜下祭、その賑わいたるや他の学校で開催されるものと一線を画している。
賑わう行事を好む私が平素から行きたいと願っていた祭りだ。チケットが必要なため、絶対に参加できないものだと諦めていた。そのチケットが今、私の手元にある。これほど幸運なことはない。思わず私は空を見上げ、神様の姿を探していた。
「おい、聞いてんのかよ? すげえもんを手に入れちまったぞ、おい!」
人が少ない場所では携帯電話を持つことはない。弛緩した顔つきを整えないまま、小娘憑きの方へ振り返ってそれを見せびらかす。小娘はチケットを持つ私の手をぱしんとはたいた。
「ちょっと、拾いもんを拝借するだなんて行儀わるいよ!」
先ほどまであったご機嫌な顔色を一変させて、「白色の憑きもの」は冷めた目つきをしている。
「ばかいえ、拾いもんなんかじゃない。これは運命だよ。天地神明の神様が日頃から善行を積んでいる俺にお恵みくださったんだ」
私の言葉を受けた小娘憑きは神に祈りを捧げるように、両手を組み合わせた。
「なるほどね〜。これで根拠を持って、この世に神様なんていないってことが明かされたわけだ! もしくは神様の目は節穴だってことがね!」
と言いながら、私の脇腹を肘でついてきた。この憑きものとの付き合いが短いものから見れば、たんにふざけているようにも見える。だが違う。彼女は怒っている。
「白色の憑きもの」は我が強く意地っ張りだ。分かりやすく言うならば、へそ曲がりである。嫌なことがあったときはそれを表面に出さずに、へらへらすることで平常心を演じる。落ち込んだ顔は見せようとしない。背筋をきっと伸ばして、動揺しないようにと虚勢を張りたがるのだ。
ただし、簡単に見分けがついた。怒っているとき、彼女の口の端はやや上がり、まぶたはぴくりと痙攣する。ちなみに悲しいときはまなじりが下がり、嘘をついたときは耳がほのかに朱色に染まる。二年もそばにいると、そのような癖はおのずと分かってくるものだ。
「お前、なに怒ってんだよ?」
「べっつにー。どうせまた、女子高生を前にして気持ちわるーく鼻を伸ばすんだろうなーって、主をちょっと失望してるだけだよ」
毒づく小娘憑きを無視して、私の視線はすでに前方へ向けられていた。我々よりも五十メートルほど道先に、二人の女子生徒が歩いている。
白いシャツにチェック柄のプリーツスカート。間違いない、あれは桜下女子高等学校の制服だ。河川敷、我々の前方を歩く桜下女子の少女たち。突然、私のもとに舞い落ちた桜下祭のチケット。ただいま、やや強めの南風が吹いている。少女らは我々から見て、南方にいる。
不吉な想像が頭を横切った。この位置関係、もしかして――。
「いや、もしかしなくても、それ、あの人間たちの落としものでしょ。ほら、さっさとしてきなよ」
「ち、うっせーな、わーってるよ」
せっかく手に入れたチケットを手放すのは口惜しいが仕方がない。ここでチケットを手に入れれば、二週間後の桜花祭に参加できる。ただ冷静になって考えてみると今ここでチケットを諦めさえすれば、今すぐに女子高生とおしゃべりができる。
どちらが得なのか、比べるまでもなかった。私は、はるか先にある幸せよりも手近な幸せを掴みにいくタイプの人間だ。なにせ二週間後も無事でいられるとは限らないのだから――。
未来だ? 大切なのは「現在」だろう?
彼女らの背後にひっそりと近づいて、「こほん」と咳払いをしたのちに話しかける。
「これ、拾ったんだけど、きみたちの落し物かな?」
私の姿に驚いたのか、振り返った彼女らはこちらに焦点をあてたまま目を見開いている。首を七十度だけねじった姿勢のまま固まっていた。
それはそうだ。着古したよれよれのTシャツに色落ちしたジーパンを履いた、みすぼらしい身なりの男から話しかけられたのでは、恐怖心を覚えても仕方がないことだろう。悲鳴をあげられなかった分だけ得したと思うべきだ。
「は、はい!」
数秒間続いた硬直のあと、私から向かって右側の女子生徒、パーマがかった前髪をした少女が慌てて返事をして、チケットを受け取った。「わざわざありがとうございます」と頭を下げる。礼儀をわきまえた子どもだ。
私は用心されてしまわぬよう、崩れた口調を意識する。
「あのさ……悪いんだけど……そのチケットを……」
「え、これを……?」
小首を傾げてこちらのようすをうかがう二人に向かって、全力で頭を下げた。
「一万円で売ってくださいっっ!!」
私は、はるか先にある幸せよりも手近な幸せを掴みにいくタイプの人間だ。しかし、これは択一問題ではない。幸せの両方ともを取得できる可能性が少しでもあれば、手段を問わないのも私の信条だった。
『ちょ! 秋人! あんたには大人としてのプライドはないの!?』
となりにいる小娘憑きが声を張りあげたが、そんな非難は気にしない。大人としてのプライドや流儀など生きてゆく上では、邪魔な感情でしかない。私は己に正直だ。できることならば、チケットを手に入れたい。
行きたい。夢の桜下祭。
『うっせえな。時にはどんな手口を使っても、手に入れなきゃならねえものだってあんだよ』
一般人がいる手前、憑きものと声に出して会話するわけにもいかず、やむを得なく“思い”で返答する。
『でも、相手は女子高生だよ!』
『だからなんだ。女子高生だってお金が欲しいはずだろ』
『そういう問題?』
『そういう問題なんだ。いいか、欲しいものを交換し合うのは別段おろかしいことじゃない。やましいことがあるわけじゃあるまいし、利害は一致している。だから、それでオーケーなんだよ』
それだけの会話を瞬時に取り終えた。“思い”での意思伝達は声にするよりもはるかに迅速だ。私は頭をあげる。パーマ髪の女子高生が大げさに首をふっていた。
「そ、そんなのダメです、ダメです!」
「そうですよ。こんなことできません!」
となりにいたおかっぱ頭の子も同調した。
『ほら見たことか』
小娘憑きが悪態をついた。
それもそうか……。金に目が眩むほど、邪気溢れた瞳をしていない。
女子高生二人はお互い、目を配らせあっている。「この気まずい空気をどうやって打開するべきか?」と思案しているようだった。
「そ、そうだよな。変なこと言って悪かったよ。それじゃ、もう落とさないように気をつけてね。もし今度また拾った時は、返さないかもしれないからな」
二人がもじもじと何か言いたそうな顔をしていたので、両手をかざしながら「警察に通報するのだけはやめてくれ」と続けようとした。そんなところで、パーマ髪の少女が両手を前に突き出してきた。なにごとかと見やれば、その手に先ほど返したばかりのチケットが握られていた。
「……これ、さしあげます。私が正式にあなたを招待します。私、二棟の三階で喫茶店やってるんで、よかったら来てくださいね」
「……え?」
唐突の招待に私は驚いた。パーマ髮の少女は恥ずかしさの混じった微笑みを浮かべつつ、私にチケットをくれると言い出したのだ。
その行いに張り合うように、おかっぱ髪の少女がぐいと前に押しよった。
「ちょっと、抜け駆けなんてずるいわ、亜希子! これ、わ、わたしのチケットをもらってください!」
「いや、一枚で十分なんだけど……本当にいいのかい?」
「いいんです、いいんです。どうせ誘う人なんていませんでしたし」
パーマ髪の子がもじもじしながら、「えへへ」と笑った。
それにしても、なぜこの娘は私を招待する気になったのだろうか。
正直言うと、この年頃の娘たちの考えることは昔からよく分からなかった。世間慣れしていない少年少女らは、大人たちと相対したとき、笑っている顔か神妙な顔しか見せたがらないものだ。そのため、表情から真意を読み取ることができない。もっとも、そこが私が好んで女子高生と接したがる理由である。
「ありがとう、すごく嬉しいよ」
とりあえず受け取っておくことにした。可愛らしい女子高生たちは真っ白な歯をこぼした。
「それじゃ、本当にありがとう!」
数分立ち話をしたすえに彼女らと別れた。会話の内容は克明と思い出せない。「好きなテレビ番組はなんですか?」とか「休日はなにして過ごしているんですか?」とか他愛のない内容だったと思う。ただとても楽しい時間だったことはたしかだ。
結果的に二つの幸せを同時に手にすることができ、私はしごくご満悦だ。比べて、そばにいる小娘憑きの機嫌はよろしくなさそうだった。まぶたをぴくぴく痙攣させている。
「秋人、色仕掛けはやめときなって……」
深刻そうな顔した小娘憑きから、意味の分からない忠言を受けた。私は振り返ってわざとらしく眉をひそめてみせた。
「色仕掛けって? なんのことだ?」
「そういうの、天然でやるのやめてよ。一緒にいるあたしが恥ずかしいんだからさ」
またくだらないことで癇癪を起こしているのだろう。無視して歩き出した。
次回
「#4 試しにキスしよ」
序幕(B)最終話