黒き光との出逢い
頭を今までにないくらい使った。
時間にすればほんの数秒だったのだろうけど、サクラはそのまま気絶してしまうのではないかという程頭を使った。
しかし、いくらフル回転させて考えても、出てくる答えは一つだけだった。
『逃げなきゃ』
頭はそうサクラに命令していたが、肝心の体は今だにピクリとも動かない。
冷えた汗がサクラを氷付けにしてしまっているようだった。
5秒数えたら……全速力
心の中でサクラは自分に言い聞かせた。
1、2、3
ゆっくりと息をしながら数えた。
4………5
最後の数を数えると体の呪縛が解けた。
勢い余って前のめりにスッ転びそうになるのをどうにか堪えて、サクラは全力で走り出した。
「わっ!おっおい逃げたぞ!」
「追え!」
サクラの後ろから3人の男が姿を現した。
その声に振り向きそうになったが、グッと自分を奮い立たせて前を向いた。
ヤバい。どこに行けばいいわけ。
全力で駆けながらサクラは前方を素早く見た。
足に自信はあまりなかった。長距離を宛もなく走り回ることなんて到底無理だ。
「おいっ待て!」
後ろから男達の怒号が聞こえてきて、更に背中が痛んだ。
怖い。怖い。
目を瞑りそうになりながら必死に走った。
耳には風がビュッビュッときれる音と自分の必死な足音が響いた。
心臓が破裂しそうになった。
足を縺れさせながら転がるように走ると、森の出口が見えてきた。その先は川のようだった。
もう………だめ。
ハァハァと肩で息をしながら、膝に手をつき立ち止まった。
男達の駆ける音が聞こえて後ろを振り向こうとした、次の瞬間
ガシッ
「ヒャッ!!」
サクラはもぎ取られるかのように力いっぱい腕を引かれた。
ダンッと何かに体がぶつかり、サクラは身を丸くした。
悲鳴を上げようと開いた口に大きな手が覆い被さった。
「静かに。」
耳元で低く囁かれ、サクラの体はまた金縛りにあったかのように固まった。
な、なに!
サクラは誰かに抱き抱えられるような形で木の陰に体を押し込まれた。
顔を上げようとした瞬間、近くで話し声が聞こえてきてサクラの心臓はまた大きく跳ねた。
「……逃げられたか。」
「あれが、龍の巫女だったらあの方に高く評価してもらえるんだぞ。探せ!」
息の音さえも漏らさないように唇を自然と噛んでいたが、耳だけはやけによく聞こえた。
サクラに覆い被さるようにしていた者が、更に強くサクラを抱き締めた。
その時、サクラは自分の体が小刻みに震えていることに気が付いた。
早く……いなくなって。
祈るように目を瞑って時が経つのを待った。
長い長いその一瞬は、男達の段々と遠ざかる足音と共に過ぎていった。
……いなくなった、のかな。
固く瞑っていた目を開くと同時に、覆われていた大きな手がどかされた。
「……はぁ!」
忘れてしまっていた息を思いっきり吐き出した。
体が言うことをきかず、その場にヘタリこんでしまった。
息を吸い込むと、目の前に黒い靴が目に入ってきた。
そうだ。助けてくれた……んだよね?
サクラは先程まで自分を匿ってくれていた人物の正体を確認しようと、ゆっくりと顔を上げた。
「………」
見上げたサクラの視野は強く射し込んだ太陽の光で遮られた。
眉を潜め、もう一度その人物の顔を見た。
最初に目に入ってきたのは、吸い込まれそうな黒い瞳だった。真っ直ぐにサクラを見詰めていた。
黒く肩まで伸びる髪が、太陽の光でキラキラと揺れている。
綺麗……
先程までの震えはいつの間にか止まっていた。
固まってしまったサクラに彼は片手を差し出した。
「……あっ、ありがとうございます」
我に返り、急いでその手を握るとゆっくりと立ち上がった。
「……あの、ありがとうございます。」
立ち上がると彼に頭を下げた。
「……ケガ、ない?」
「あっ、はい。多分大丈夫です」
「…そう。良かった。」
彼が軽く微笑んだような気がしてサクラはその綺麗な顔にドキリとした。
「……あ、あのここは」
さっきとは違う心臓の痛みを誤魔化すように早口で話し出そうと口を開くと、彼はふいにどこか視線を上げた。
さっきの男達がまた戻ってきたのかと思い、サクラもそちらの方に視線を向けたが、そこにはただ木々がサワサワと揺れているだけだった。
「……大丈夫。」
彼の声に振り返ると、彼はまた少しだけ笑った。
「……もうすぐそなたの迎えが来る。ここにいればいい。」
そう言うと彼はクルリと背を向けた。
「あ、あの!」
一人にしないで!
また心細さと不安を支配しようとして、それを振り払うかのように彼に手を伸ばした。
彼が振り返ると長い前髪が揺れ、隠れていた左目がチラリと見えた。
あっ。
その瞳を見てサクラの伸ばした手は彼に届くことなく止まってしまった。
吸い込まれそうな黒い右目と
燃えるような紅い左目。
彼はサクラの様子を見て、左目に眼帯を着けた。
そして、安心させるようにサクラの頭に手を置いた。
「ここにいればいい。」
呪文のようにサクラの体から力が抜けていった。
それだけ言うと彼は深い森の中に消えてしまった。
誰だったんだろう。今の。
ストンとその場に腰を下ろすと、いなくなってしまった美しい彼の後ろ姿をいつまでも目でおってしまった。