獣の血
「…はい、いいですよ。うん。何ともないようですね。」
医師は器具を机に置きながら頷いた。
「ありがとうございます」
私ははだけていた服のボタンをとめながら、彼に頭を下げた。
部屋に戻るとすぐに私は来てもらっていた医師に診てもらうことになった。その間だけは皆部屋の外で待ってもらっている。
マクリナも私に何か変化がないか確かめたいと申し出たが、その首をオルタナが有無を言わせずに掴み部屋から出してくれた。
マクリナからすれば、私のことをもっとよく観察したいのだろう。
私は身支度を終えると、ノートにびっしりと文字を書いている医師を見た。ノートに書いてあることは相変わらずさっぱり読めない。
「………あの」
「ん?なんですか?」
思いきって声をかけてみると、彼は手を止めて私の方を顔を向けた。
彼の顔は何処と無く人間と言うよりは狸のような造りで、そのつぶらな瞳はつい先日見たものと同じだった。
「あの、先生はあの時クラウドを診ていた先生ですよね?」
そう、あの日血塗れのクラウドを必死に助けようとしていた。あの時は医師は皆、何故か白いフードを頭からすっぽり被っていて顔はよく分からなかったが、この目と私をあの時止めてくれたこの声は覚えている。
彼はペンを置くと、体も私の方に向けて座り直した。
「そうです。あの日は本当に大変でしたね」
遠い過去の事でも話すように穏やかに彼は言った。
「やっぱり。あの時はあぁ言ってくださったのに、忠告も聞かずにすみませんでした。」
私が頭を下げると彼は慌てたように笑った。
「やめてくださいよ。巫女様にそのようなことされては、私の方こそ出過ぎたことを言ってしまったと後になってから後悔していたんですよ。結果、巫女様があの場の全ての者を救ってくださったのですから」
「えっ?」
彼の言葉に私は顔を上げた。
そういえば、クラウドも同じようなことを言っていた。
「………先生、変なことを聞いてもいいですか?」
「はい、私で答えられることでしたら」
私は言葉を探した。
自分が聞きたいことはあまりにも馬鹿げた質問で、あまりにも非現実的なことだったからだ。
だけど、その場にいた誰よりもこの人物に聞くことが正しい答えが返ってくることだろう。
「…あの、先生があの日クラウドから離れていかれたのは、その……彼がもう助からないと思ったからですか」
これ以上の表現が見つからなかった。
直接的な言い方はできるだけ避けた。その言葉はあまりにも残酷な現実を突き付けるようで。
彼は穏やかだった顔を真剣な顔につきに変えると、私の突拍子もない質問に答えてくれた。
「…巫女様、クラウド様はあの日『もう助からない』という状態ではなく、もう死んでしまっていたのです。」
「死んでしまっていた!?」
やはり、私の一番望まない答えが返ってきた。
「はい。原因は出血性ショック死。あの夥しいほどの血は、おそらく体の三分の一以上は出血していたはずです。吹き出た血が固まる暇もなく、次々と沸き上がってきておりました。私が彼の元へついた時には、もはやしてあげられることは限られておりました。」
「…でも、あの時たしかに彼は少しだけですけど、話せていましたよ。」
「…そうですね。あれには私も驚きました。しかし、傷の深さもありますが、獣の血が傷口から体内に入り込んだせいもありますね。おそらく、内部でも浸食が始まっていたものと思われます。虫の息とでも言いましょうか。私が立ち去ったのは、その生命が永遠に失われてしまった瞬間を確認したからなんです。」
また、あの時に言われた言葉だ。
『獣の血』
アシャの者が放つ気で染まった獣の血。
オルタナにもマクリナにも先生にも止められた。
私が触れてはいけないと言われた物。
「それって、何なんですか?それに、それなら何故クラウドは今も生きているんですか?」
先生は黙ってしまった。
彼にも答えられるものとそうでないものがあるのだろう。
医学的な観点からのことは伝えられても、それ以外のものは話してはいけない。そして、これ以上は深くは説明できない部分。あの日のことがあるから、彼は少し話しすぎてしまったぐらいだろう。
「……医学的な見解からすると、クラウド様はたしかにあの時死亡されました。ですが、今も生きておられます。私が見る限り傷はまだ塞ぎきっておりませんが、体には異常はございませんでした。……巫女様、申し訳ございません。私が話してさしあげられるのはこれくらいしか。」
彼は頭を下げた。
「頭を上げてください。私こそつい色々聞いてしまって」
ここから先はきっとマクリナが話してくれるだろう。隠さずに話してくれるかは、分からないが。
「…………巫女様には、私が何に見えますか?」
頭を下げたまま、唐突に彼は質問をし返してきた。
「えっ?何にっというのは」
彼は顔を上げた。その顔は先程よりも、人間ではなくなっていた。
ゾクッと背中に嫌なものが走る。
「私の顔にございます。普段は隠しておりますが、この顔どのように見えますか」
それは、もはや狸そのものだった。
人の体に狸の顔がくっつき話している。
私は、ゴクッと唾を呑み込んだ。
「………たぬきに見えます」
正直にそう伝えると、彼の表情が穏やかに歪み、元の狸のような人の顔に戻っていった。
「巫女様は正直者でいらっしゃいますね。怖いものを見せてしまって申し訳ございません。」
「いえ。でも、今のって………」
彼は器具を鞄にしまうと立ち上がり、頭を下げて去ろうとした。
そして、小さく外に聞こえないように呟いた。
「これが、獣の血に侵された者の姿にございます。」
そして、静かに部屋を出た。