血塗られた紅
ガヤガヤと何やら外が騒がしい。
人が駆け回る音。物が床に飛び散る音。人の怒号のような声。
目覚めてすぐの感覚は、一番始めに聴覚が目を覚ますと昔どこかで聞いたことがあった。
眠っている間も聴覚は常に音をとらえていて、それを絶えず脳に送っている。
だから、私は今朝は起きる前から周りの情報を耳で捉えていたのかもしれない。
「………んっ……。」
小さな吐息が自分から漏れたものだと気付いて、私は目を覚ました。
視界がぼんやりと見える。
それに、やけに肩が重い。
私は気だるい頭を覚ますように、頭を左右にゆっくりと振った―目の前に細い金色の髪の毛が映りこんだ。
ぼんやりしていた私の頭は、その輝く髪の毛を見て飛び上がりそうになって目を覚ました。
その目に飛び込んできたのは、ルイスの綺麗な寝顔。薄く開いた唇から規則正しい寝息が聞こえる程近くにそれはあった。
私は一瞬何が起こっているのか把握できなかった。
これはまだ夢か?とさえ思ったが、その肩にのし掛かる重みが現実だと教えてくれた。
昨日の夜のことが、ぼんやりと思い出されてきた。
ルイスの話を聞いた後、私はどうやら眠りこけてしまったようだ。
きっと、ルイスもそのまま。
その証拠に、私達は今だにタオルケットのバリアに守られていた。
私はルイスの間近にある寝顔を盗み見た。
無防備なその寝顔は何処となく幼く見え、また気持ち良さそうに毛布にくるまる猫のようにも見えた。
睫毛……長いなぁ
まるで付け睫でもしているかのように隙間なく生えた睫毛を眺めていると、ルイスの瞼がピクッと動いた。
「あっ……」
つい声を出してしまい、慌てて手で自分の口を塞いだ。
ルイスは瞼をゆっくりと開くと、まだ光を宿す前の
その朧気な視線に私が映り混んでいく。
「……サクラ?」
かすれた声で私を呼ぶと、ルイスは私の頬に手を置いた。
ヒャッ!
咄嗟に私は目を瞑った。ルイスの手が想像以上に冷たくて驚いてしまった。
その私の反応を見て、ようやくルイスも目が覚めたようだ。
「ごめんよ。まだ夢を見ているのかと思ってしまった。」
「ううん、平気。寒かったのかな?ルイスの手冷たくなってるよ」
彼は触れた手をもう片方の手で擦ると、「本当だ」と笑った。
「昨日はあのまま寝てしまったようだね。夢現に頭を撫でられているのがわかったよ。サクラの隣だとよく眠れるようだ」
その綺麗な笑顔に、私は昨日自分が彼にしたことを思い出して恥ずかしくなった。
一国の王に対して、頭を撫でてあげるなんて普通に考えれば恐れ多いし、何よりもお前何様状態だ。
でも、ルイスは今の話し方からすると逆に喜んでくれたと考えていいようだ。
「よく眠れたなら良かった」
私も笑顔で答えた。昨日の彼はいつもと違っていたから。
彼はフッといつもより色っぽく口元を綻ばせると、私の耳元で
「今夜も一緒に寝てくれるかい?」
と囁いた。
えっ…。
私の頭の中でその言葉の意味はより深いものを意味しているように聞こえてしまい、途端に顔が先程の倍赤くなった。
コンコンッ
私がプチパニックに陥っていると、部屋の外から扉を叩く音がした。
「誰か来たみたいだね」
ルイスは何事もなかったかのように私から離れると、タオルケットから抜け出した。
残された私は胸にたまった空気を一気に吐き出した。
ルイスはたまに私の心臓を止めようとしている。
ルイスが扉の前まで行くと、扉の外から声がした。
王が自ら扉を開けることはないようだ。
「陛下、御休みのところ失礼いたします。」
外から響いたのはどうやら兵士の声のようだ。
「何かあったのかい?」
扉に向かって彼が問う。
そういえば、外が随分と早くから騒がしかった。
今も窓の外で慌ただしく人々が動き回る音がする。
「はっ。先程、第一、第二騎士団が城に戻ったとの報告に参りました。」
「……どういうことだ?」
ルイスの声が少し固くなった。
「…申し訳ありません。我々も状況がまだ分かりかねます。指揮をとっておられたソウマ様とクラウド様のお姿が見えず、負傷した兵が次々と城へ入ってきておりまして」
力ない兵士の声を聞くと、ルイスは扉を開けた。
外にいた彼は項垂れていた頭をピンと上げ、突然開かれた扉の内側に敬礼をした。
「ソウマはまだ帰ってきていないのかい」
「はっ。私がいた時にはまだ来ておりませんでした」
「そうか……。」
ルイスは何考えるように俯いた後、部屋の中で不安そうな顔をしていた私の方に振り向いた。
隣にいた兵士は今の今まで私の存在に気付いていなかったのか、彼の視線を追って私の姿を捉えた。そして、私に向かっても同じようにピッと手を頭にかざした。
「サクラ、私は一先ず兵達の元へ行くことにするよ。何かあったのかもしれないからね。君はどうする?」
「………私も、私も行きます」
ルイスの固くなった声と、緊迫したような兵士の表情、そして外の騒がしさからすると事態は良くないことが起こっているのがよくわかる。
私が行ったところで何もできないかもしれないけど、部屋で大人しくしていることの方が私には耐えられなかった。
「………見たくないものを見るかもしれないよ …。」
ルイスの声は暗かった。
私はソファーから立ち上がるとルイスの元へ行き、力強く頷いた。
「大丈夫」
もう、何もできないと嘆くだけは嫌だった。
せめて、今この世界で何が起きているのか。周りはそれをできるだけ見せないようにしてくれているけど、私はしっかりと自分の目で見る必要が有る気がしていた。
「……わかった。案内しておくれ」
ルイスも頷くと兵士に命じた。
「ルイス、さっき私に聞いてくれてありがとう」
歩きながら私は彼にそっと伝えた。
「……」
ルイスは足を止めることなく進みながら私を見た。
「『部屋にいろ』って言わないでくれたから。どうしたいか聞いてくれて、ありがとう」
彼は私の意思を尊重してくれている。今までもそうだったように、今回も邪魔になるだけの私を同伴させてくれた。
「……いや。」
彼は珍しく厳しい顔で私から視線を反らせた。
「…本音を言うと、君にはあまり来て欲しくはなかった。きっと……辛い思いをするから」
彼には今起こっている状況がどのようなものなのかが予想できているようだった。
きっとそれは経験したものにしか分からないものなのだろう。
私も彼の表情を見て握りしめていた拳の中にうっすらと汗をかいた。
嫌な靄が胸につかえてくる。
「此方です」
兵士が一階の扉の前まで来ると立ち止まった。
「開けておくれ。」
ルイスが命じると、彼はゆっくりと扉を開いた。
私の心臓は嫌なほど緊張していた。
ドキドキドキドキ………ドンッ
鼓動が、止まってしまったような衝撃を受けた。
開かれた扉の中は
まるで、地獄だった。
怒号と共に走り回る人々。異様に籠った湿った空気。唸り声と呻き声。血の臭い。倒れ込む人。動かない人。吐き出す人。震えが止まらない人。血だらけの包帯。薬草の香り。水が飛び散る音。鉄錆の臭い。熱。鉄が床に落ちる音。
私の五感は感じ取ったままの情報を一気に流し込んできた。
私の体は、動かなかった。
いや
動けなかった。
部屋の中には数えきれないほどの負傷した兵士が、ところ狭しと体を横たえていた。
その間を使用人が回りながら手当てをしている。城に常駐している医師は4人だった。その他に助手を勤める者が数人いたが、それだけでは手が足らず使用人達がかりだされたのだろう。軽傷者には彼らが割り振られているようだ。
誰も私達が来たことに気が付いていないようだった。
普段は姿が見えると見えなくなるまで丁寧にお辞儀をする彼らが、今は私達の前を必死の形相で通り過ぎていく。
「…………うっ。」
私は廊下の方を向き屈みこんだ。
鼻にべったりと貼り付いてくるような血の臭いに、吐きそうになる。
汗ばんだ拳を口に当てると上がってきた胃液を呑み込み震えるように息をする。
なんて、私は弱いんだ。
この光景を見ただけで吐きそうになるなんて。
拳で口元を拭う。
目尻に貯まった涙も乱暴に払う。
目を反らしちゃダメだ。
これがこの世界での現実。
膝に手を置いてグッと力を入れて立ち上がる。
「サクラ、無理はしないほうがいいよ」
手が震えている。
私はルイスの方を見ずに首を振った。
こんな顔見られたらきっと部屋に戻るように言われてしまう。
「大丈夫。それより私も何かできない?」
もう一度部屋の中を見る。どう見ても人手が足りない。
その中に見知った顔がいることに気づく。
マクリナが忙しなく指示を出していた。その横でオルタナも怪我人の手当てをしている。
「オルタナ!」
私はルイスが止めようとする脇をすり抜けて彼らの所へ駆けた。
「ちょっ、何であんたがここにいんのよ」
私の姿を見てオルタナは手を動かしながら驚いたように声を上げた。
「私も何か手伝いたくて」
「いや、でもねぇ」
「なりませんよ、サクラ様」
彼等に近付くとマクリナがピシャッと言い放った。
「どうして?」
マクリナは指示を出しながら私に厳しい視線を送った。
初めて見せる顔だ。
「サクラ様はお部屋にお戻り下さい。ここにいられても邪魔になるだけです。」
「そ、そんなこと!人手が足りないんでしょ?私だって何かできることくらい―」
「違うのよ」
マクリナに食って掛かろうとする私の肩をオルタナが押さえた。
「あんた、何にも分かってないわ。この負傷兵達の血はあんたにとって毒なのよ。」
オルタナは手当てをしていた兵士をチラリと見ながら話した。兵士はぐったりとしているが、どうやらそれほど重傷ではないようだ。
「毒ってなに?」
私は眉を寄せてオルタナに訊いた。そんな説明を聞いている時間さえ惜しいはずだ。
「……こいつらの傷はね、アシャの奴等にやられたものなのよ。」
「それが?」
遠回しな言い方だ。オルタナらしくない。
「だから!アシャの気に触れたら、あんたは―」
オルタナが言いかけた時
バンッ
外に繋がっている扉が大きな音をたてて開いた。
「ソウマ様!」
その音に振り返った兵士の一人が叫んだ。
血だらけのソウマが何かを背負ってそこにいた。
「ソウマ!」
ルイスが大きな声で彼の名を呼んだ。
ソウマはその声に反応すると、背負っていたものを後ろから付いてきた兵士にゆっくりと下ろすと足早にルイスの元に膝まづいた。
「陛下。このような事態になってしまい誠に申し訳ありません。」
「よい。それよりも何があった」
ルイスは屈みこむとソウマの近くまで寄った。
ソウマは顔を上げて、ルイスに話始めた。
「結果から申し上げます。北の地はもはやアシャの手に落ちておりました。昨晩、嵐に紛れアシャの大部隊が我々の陣営に奇襲をかけ―。」
ソウマがルイスに何かを話している。
私達の所にまではその声は届かなかった。
私はルイス達の方を見ていたが、何か違和感を感じた。
ソウマが入ってきた扉の方を向く。
外にはまだ多くの兵がいるようだ。
ただ部屋の中にいるいる負傷兵よりは、皆自力で歩けるところから見ると軽傷者なのだろう。
その群れの中に、一ヶ所だけ妙にワナワナと人が群がっている場所がある。
その群れの中に一人の医者が飛び込んだ。
医者が通った場所が一瞬だけ道が出来る。
私は目を凝らした。
あの人、たしかソウマのすぐ後ろにいた。
医者が駆け寄ったのは、ソウマが何かを手渡した人物の場所だ。
医者はその人物の腕に抱き抱えている'もの'を引っくり返すようにこちらに向けた。
私は足元が抜け落ちたような衝撃を受けた。
下の方から血の気がサァーっと引いていった。
一瞬だけ映ったそれは、私の体をこの世界から引きずり出すほどの引力を持っていたのだ。
「クラウド!!」
私の叫び声が部屋中に響く。
それと同時に私の足は扉の方に駆け出した。
「サクラ様!」
「サクラ!ダメ!」
後ろからマクリナとオルタナの声が飛ぶ。
足は止まらない。
群れの中を掻き分けるように進む。
息が出来ない。
まさか、そんな。
そんなはずない!
心の名中で誰かが叫ぶ。
見間違いだ。
群れの中の兵士達が私を見上げている。
彼等は道を開けてくれた。
たどり着いた私が見たものは
血で覆われたクラウドと、それに懸命に蘇生をはかる医者の姿だった。
「………クラ、ウド」
発した声が震えている。
彼の顔は青く、それを引き立てるように夥しい程の深紅の血が体に貼り付いている。
彼の銀色の髪は砂と血で煤けた茶色にも見えた。
震えが止まらない。
「巫女様いけません」
傍らにいた兵士が私を制止する。
彼が触れる肩もガクガクと震えていた。
「……いや…クラウド。」
その人の手を振りほどくと、私はゆっくり彼に近付いた。
血が止まっていない。止めどなく彼の服を鮮やかに染めていく。
震える手で彼の頬に触れる。
冷たい。
「……巫女様、触れてはいけません」
蘇生をしながら医者が私を見ずに言う。手元に全神経を集中させているようだ。
「クラウド様の血に触れてはなりません。巫女様が触れてしまえば、アシャの者が放った気によってその身を毒されます。これは獣の血。触れればその箇所から獣へと蝕まれていきます………生きておればですが……。」
力なく彼は言った。
最善の手は尽くしているが、もうこれ以上は無理だと語っているようだった。
押さえている箇所からもボコボコと血が吹き出している。
「サクラ」
いつの間に近付いたのか、ルイスが私の肩に触れる。
「…クラウドは最後まで全ての兵を逃がそうと最前線で戦っておりました。私が戻った時には地面に転がるように……」
ソウマが淡々と続ける。
私の耳にはその声が途切れ途切れに聞こえてきた。
血が……。
サクラの脳裏に、『あの日』の記憶が鮮明に浮かび上がる。
燃えたぎる炎。生き物の焼ける臭い。怖い。崩れる音。犬の鳴き声。私が叫ぶ。怖い。涙の味。
怖い
「サクラ?」
サクラの体はガクガクと震えていた。その肩に置いていたルイスの手までも共鳴したように震えている。
彼はその手をにグッと力を込めた。
「誰か、サクラを部屋へ」
ルイスの声にオルタナが近付いてきた。
ダランと垂れ下がっているサクラの手をそっととる。
力が入らない。
足も動かない。
オルタナはそんなサクラを立ち上がらせようと、手に引く。
その時
「………サ、クラ……」
「あっ」
「クラウド!」
医者が小さく声を上げて、ルイスは彼の名を叫んだ。
サクラの目に生気が灯る。
「クラウド!」
オルタナの手を振り払うと、私はクラウドの前に膝をついた。スカートに彼の血が染み込んでいく。
構わずに彼の手を握る。冷たく固い。
「クラウド!」
もう一度彼の名を呼ぶと、微かに目が開いた。
その朧気な瞳に私を映す。いや、もうそれは見えてすらいないのかもしれない。
焦点の合わない暗い目がこちらを見ていた。
「………サ、クラ……」
彼がもう一度私の名を呼んだ。
口から震えたか細い息を吐く。
「なに?クラウド。嫌だよ。初めてちゃんと名前呼んでくれたんだから、もっとちゃんと話してよ!……やだ。」
私の目に涙が浮かぶ。
止めどなく溢れてくる涙が邪魔だ。
ぼやける視界の中でクラウドが何かを囁いた。
「……えっ?なに?」
私が彼の口元に耳を寄せる。
ガクンッ
彼の首が、糸の切れてしまった人形のように静かに、折れた。
サクラの顔に彼の煤けた髪がかかる。
初めて出会ったときのあの眩いほどの銀髪ではなく、汚れてしまった煤けた髪が。
サクラの涙が止まった。
震えも止まった。
全てが止まってしまった。
医者はクラウドから手を離した。
もうここで彼がしてあげられることはなかった。
早く次に向かわなくてはならない。
彼の仕事は命を助けることだ。
これ以上、クラウドに付き合っている暇はない。
彼は立ち上がると、無言で部屋の中に駆けていった。
その場にいた誰一人として、動くことができなかった。
部屋の中では変わらず戦争状態が続いているのに、その場だけはシンッと静まり返っていた。
ルイスもオルタナもソウマも。黙ったまま、もう動かなくなったクラウドとそれに寄り添うサクラを見詰めることしかできなかった。
あれほど怪我人に触れてはいけないと厳しく言ったマクリナでさえ、部屋の中からそちらを見つめていることしかできなかった。
サクラは自分の頭をクラウドの胸にのせていた。そうでもしていないと、その場に倒れてしまいそうだった。
その眼下に、血の池が見える。
今では彼女のスカートはその色で紅く染まっていた。
私、前にもこれを見たことがある………。
頭の中で誰かがそう呟いた。
ついさっきまで動いていたのに、もう二度と動かない。
命は、なんて脆いものなのだろう。
失ってしまっては、もう二度と元に戻すことは出来ない。
脆く、儚く……今はもう冷たい。
「…………………いや、だ………」
サクラが何かを呟いた。
その声に気付いたのは、一番近くにいたオルタナだった。
彼は項垂れるサクラの手をとろうと、彼女に手を伸ばした。
「……………いやぁ!!」
サクラの手に触れようとした瞬間、凄まじい光が彼女から放たれた。
「あつっ!」
オルタナは手を引く。
引かなければ自分の手が溶け落ちてしまうような感覚を受けたのだ。
その光は一瞬にして、その場にいた全てのものを覆った。
後から考えれば一瞬の出来事だった。
しかし、その一瞬を全て把握できた者は一人もいなかった。