魚
日の出前。
クラウドは愛馬の手綱を手に城を見上げた。
……嫌な予感がする。
彼はまだ動き出す前の静かな城を眺めながら、そんなことを思っていた。
それは自分に対してのものなのか、それとも別の誰か―サクラに対してのものなのか、今のクラウドには分からなかった。
願わくば、自分に対してのものであってほしい。
まだ灯りの灯っていないサクラの部屋を見つめながら、心の中で呟いた。
「どうした。」
ソウマが馬上から声をかけてきた。
「……いや。」
静かに首を振ると、愛馬に跨がりまだ霧の濃い門外へ馬を進めた。
朝食をとり終えて部屋に戻ると、ソファーの上でオルタナが何やら首を捻っていた。
主不在のところに入ってきちゃうなんて。
不思議とオルタナならいいかと思ってしまう自分に、半笑いになりながらオルタナに声をかけた。
「おはよ。なに悩んでるの?」
「ん~。おはよう。」
口をへの字に曲げながら、オルタナが返事をした。
私は向かいの席に腰を下ろすと、テトがカチャカチャとお茶の準備を始めた。
「祭の時の衣装が決まらなくてねぇ。」
オルタナは頬をプカプカと動かしながら何枚かの紙を見つめていた。
変な顔……。
「何よ」
私の心の声が聞こえてしまったのか、オルタナは上目使いに睨みをきかせた。
「何でもない、何でもない」
慌てて手を振って見せると、オルタナはもう一度軽く睨んでから持っていた紙を机の上に投げ出した。
「あ~~ぁ。もうやだぁ~~」
体までもソファーに投げ出してしまった。
私はその姿にまた苦笑しながら、机の上に散らかった紙を拾い上げると、その繊細なデザイン画に驚いた。
「これ全部オルタナが描いたの?」
「当たり前でしょ~」
オルタナは背もたれに頭を打ち上げたまま脱力気味に答えた。
「どれもすごく素敵だよ。華やかでオルタナに似合うと思うけど」
「……ダメなの。どれもこれも今まで作ったことあるようなのなんだもの」
「そっかぁ。」
私はもう一度デザイン画に目を落とした。
言われてみれば、全部オルタナらしくて、全部どこか似ていた。
ん~。。
私は近くにあったスケッチブックを手にすると、その上に鉛筆を走らせた。
私が描き始めると、オルタナも顔をあげた。
丁度テトがオルタナの前に紅茶のカップを置いたので、彼はそれをすすりながら私を眺めた。
「よしっ。出来た」
私はスケッチブックを見ながら頷いた。
「何よ?なに描いたの?」
オルタナは空になったカップを置くと、体を起こして覗きこもうとしてきた。
「お祭りといえば、私のいた国ではこういうの着てたんだよ」
スケッチブックを渡しながら説明を加えた。
私が描いたのは夏祭りの時に着る浴衣だ。
シンプルな浴衣の形に、裾には大輪の牡丹の花とそれに吸い寄せられるように跳ぶ蝶を描いた。
「………」
オルタナは黙ってそれを眺めた。
「あれ?こっちにもこういう服あった?」
私は紙で隠されて表情の見えないオルタナを見つめながら、余計なことをしてしまったかと少し不安にかられた。
「……なにこれ!?すごくいいじゃない!」
突然そう叫びながらオルタナが立ち上がったので、私は持っていたカップを危うく落としそうになった。
「なにこれ!えっどうやって出来てるの?これがいいわ!これにする」
机に身を乗り出して、オルタナは私に迫った。
「ちょっ、ちょっと待ってオルタナ!わかったから落ち着いて」
その体を押し戻して、落ち着かせようと肩を押した。
「私も着たことはあるけど、作ったことなんてないの。ごめんね」
オルタナがもう一度深くソファーに腰を下ろしたのを確認しながら話を進めた。
「こんな感じのもありかなぁってくらいの軽い気持ちで描いたから、まさかそんなに食いついてくれるなんて思わなくて」
予想の遥か上を飛び越えたオルタナの反応に、私は申し訳なくなってしまった。
冷静さを取り戻したオルタナは、注がれた紅茶を一口飲むと得意気に顔をあげた。
「サクラが作ったことなくても、あたしなら作れるわ。どんな感じで着てたとかそういうのを教えてくれればいいわ。あとはあたしが勝手に想像して作るから」
「そうなの?」
それならと、私は早速ベットから一枚を手に取ると、自分の体に巻き付けた。
「ん~と。まずはねぇこんな感じで前を合わせて。」
私は襟に見立てた部分を胸の前で合わせて、それから腰元を二段に折り曲げた。手近にあった紐で腰を括り、その上に胸元の布を被せた。
何度かやり直して、私はどうにか浴衣の形を作ってみた。
最後に帯の代わりにオルタナが持っていた大きなリボンを腰に花文庫の結び方に。
頑張ってみたものの、私の姿はお世辞にも浴衣を着付けたような凛々しいものではなかったが、その不格好な姿でもオルタナは真剣に見つめていた。
「こんな感じなんだけど」
私は一応出来上がったそれを腕を広げて見せた。
「本当はもっとパリッとしたのが出来上がるんだけど。生地がドレスとかタオルとかとは全然違う固いもので出来てるの。このリボンももっと固くて結ぶのが大変だけど、出来上がった感じはすごく素敵なんだよ」
「……なるほどねぇ。」
私が描いた絵と交互に見ながら、オルタナは顎に手を置いて考えていた。
「………うん。イメージ出来たわ!」
「えっ!?本当に?」
こんなんで、私が伝えたいイメージが伝わったのだろうか。
私はデロンと弛んだそれを見下ろしながら不安になった。
「あたしを誰だと思ってるわけ?あんたのこのダルンダルンが、あたしの抜群の想像力でとっても素敵なものを作ってやるんだから」
また軽く失礼なことを言われた。
もはやオルタナからの皮肉は、私にとって挨拶のような感覚でいた。
きっと悪気があって言っているわけではないのだろう。
良く言えば、素直なだけだ。
きっと、今回も自信があるだろう。
私はオルタナの許しが出るまで、そのダルンダルンの布を体に巻き付けていた。
ようやくそれを体から剥ぐと、テトが丁寧にまとめてベットへと戻してくれた。
それからすっかり冷めてしまったお茶を淹れ直して、私の前に置いた。
「…………ねぇ、サクラ」
テトにお礼を言って、紅茶に口をつけるとオルタナが口を開いた。
「なに?」
紅茶を飲み込むと、どこか落ち着かない様子のオルタナを見た。
「?どうしたの?」
私が首を傾げると、彼も言いにくそうに私を見た。
「……こんなこと言ったら呆れられちゃうかもしれないんだけど、その……」
珍しくオルタナがモジモジとしている。
私はその様子が次第に可笑しくなってきて、笑いを堪えるのに必死だった。
「どうしたの?オルタナらしくないよ」
「……そうよね。……あたしのこの素晴らしいデザインをね、感じたままを表したいの。今すぐに」
オルタナは力強く言った。
「…えっ、うん。」
「だから、ちょっとだけあんたの側を離れてもいいかしら?」
あぁなるほど。
私はようやく何が言いたいのか理解した。
「作り始めたいってことだよね?」
「そうなの!でも、クラウドからはサクラから離れるなって言われてるし」
そして、彼は大袈裟に頭を抱えて見せた。
使命感と自分の欲求との間で葛藤しているようだった。
私はそんな彼が面白くて、しばらく眺めていたが
「大丈夫だよ。テトがいるし、オルタナも好きなことして」
「本当に!?………あぁ、でもねぇ。」
私が許しを出しても、まだ彼は百面相の続きをしている。
「大丈夫だよ。それにお祭りまでに作らないと意味ないでしょ?さすがに見たことない物作るんだから、時間かかっちゃうんじゃない?」
生地の感じや、出来上がった雰囲気は伝えたがそれを、形に起こすとなると容易いことではないように思えた。
彼はもう一度「ん~~」と唸ってから
「じゃあ、今日だけ許してちょうだいね。明日からは付きっきりで相手してあげるから」
と言って手を合わせた。
私が頷くと、やる気を背中にゴオゴオと宿して部屋を出ていった。
嵐が去ったように、急に部屋が静かになった。
オルタナと過ごすつもりだった私は、今日をどう過ごそうか考えた。
マクリナに何か教えてもらおうか、それともイーヴァと遊ぼうか。
くるくると、考えを巡らせていると、ふいにベットの隅に隠れるように立て掛けてあるスケッチブックに目が止まった。
あっ……あの絵。
私の脳裏に昨日書き上げたあの絵が浮かんだ。
ユタと会う約束したのはいいけど、あれからクラウドの目が常に私に向けられていて外に出るときは必ず一緒についてきた。
私も無茶はしないと誓った手前、無断で勝手なことは出来なかった。
「………ねぇ、テト」
私は空気を入れ換えるために窓を開けているテトに話しかけた。
「どうしましたか?」
テトが笑顔で振り返る。
ちょっとだけ罪悪感が生まれた。
「あの、庭で絵を描いてきてもいいかな?もうすぐで描き上がるのがあるの」
「えぇいいですよ」
意外にもあっさり了承を得られたので、私はちょっと面食らった。
「えっ、いいの?」
「?お庭で描かれるのですよね?それなら構いませんよ。今はマクリナ様の結界が張られているので、変な輩は近づけません」
変な輩……
テトには似合わない言葉が出たので、一段と驚いたが彼からの了承を得られたので私は立ち上がった。
ベットの隅からスケッチブックを手に取ると、出掛ける準備をした。
「あれ?そのスケッチブックいつものと違いますね」
テトが私の手にしているスケッチブックを、指差した。
ギクッと肩が揺れてしまった。
よく私を見ていてくれるのは、すごく、頼もしいんだけど。
「う、うん。これに描きためたのを仕上げちゃいたくて。」
私は早口に言った。
どことなく不自然だったかな。と、心配になりながらテトの方を向いたが、彼はすんなりと私の言葉を信じている様子だった。
「そうだったんですね。あまり遅くならないようにしてくださいね。」
この前の様なことを心配してるのか、テトは最後にそう付け加えた。
「うん、すぐ戻るね」
私はそう言うとテトに見送られながら部屋を出た。
庭に出ると使用人がいつものように庭の手入れをしていた。
私は出来るだけ彼らの目に触れないように、そそくさと城の裏手まで足を速めた。
イーヴァが教えてくれた壁の近くに来ると、なんとなくいつもとは違う違和感のようなものを感じた。
なんだろう………。
見えない何かが目の前にあるような感覚だ。
そういえば、オルタナもテトもマクリナが結界を張ってると言っていた。
結界がどんなものなのかよくわからなかったが、私はちょっと心配になった。
私はイーヴァに教えられた場所の蔓を持ち上げた。
穴を潜ると、あっさりと外へ出ることができた。
結界を張ってるって言っていたから、私はもっと物々しいものを想像していた。
触ったらビリビリ痺れるとかビービーと警告音が鳴るとか。
そういえばオルタナがマクリナの結界はあてにしてないって言ってたっけ。
もしかしてこういうことなのかな?
私はスカートに着いた砂を払って歩き出した。
今日も森は静かにざわめいている。
木々の隙間から漏れる木漏れ日が暖かく私を包む。
私の胸は自然と高まっていた。
何故かはわからない。
でもたしかに、私の胸は微かに高鳴っていた。
私の足取りは軽かった。テトについてしまった嘘への罪悪感も今は消えてしまっている。
見覚えのある茂みの前に立つと、私は弾んでしまった息を整えた。
それから腕に抱えていたスケッチブックをソッと開く。
彼はどう思うだろうか。
期待と不安が入り交じる。
あまり期待しすぎない方がいい。
コンクールの時、私はいつも自分に言い聞かせていた。
賞を取ろうと思って描いた訳じゃない。
私は自分の世界を表したかっただけだ。
そんな言い訳をいくらしても、結果が出てしまえばいつも悔しさで胸が真っ暗になっていた。
でも今日は違う。
もし彼が興味なさそうにしたとしても、私はそれを受け入れられる気がしていた。
スゥーと息を吸い込むと、私は茂みの中に足を踏み入れた。
ガサガサと茂みを抜けると、太陽の光がまるでそこだけを暖かく照らしているかのように澄んだ泉を輝かせていた。
ザワザワと揺れる木々達の中で、泉にのみスポットライトが照らされているようだ。
私はその眩しい反射に目を細める。
次第に慣れていく目に、彼の姿が写った。
前と同じく泉の畔で、一人ポツンと俯き気味に座っている彼が。
良かった、いた。
私は胸を撫で下ろした。
約束はしていたが、いつ私が来るか何て伝えていない。伝える術すら知らない。
携帯も何もないこの世界でまた偶然にも彼に会えたことが嬉しかった。
私は彼を驚かせないように、ゆっくりと近づいた。
彼は今日も釣糸を垂らして、その先をぼんやりと眺めていた。
いや、正確には私の方からは彼の顔は見えない。
私は彼の隠されている左目の方から近付いてしまった為に、彼の顔は眼帯と髪の毛で隠されてしまっていた。
「久しいな、サクラ」
私が何て声をかけようかと伺っていると、見えない彼の口から声が発せられた。
私はビクッと動きを止める。
こちらを振り返ることなく私の名前を呼んだ彼に驚いてしまった。
後ろにも目があるようだ。
「…お久しぶりです」
驚きながらも私も返事を返して彼に近づいた。
その背中を見つめながら、彼の隣に腰を下ろした。
ようやく彼の右目を見ることができた。
「どうして私だって分かったの?」
足を折り、スカートの裾を足元に巻き込むように抱き抱えながら私はユタの顔を覗きこんだ。
こうしないと彼の表情が伺えない。
ユタは相変わらず竿の先を眺めている。
「其方の香りは独特だからな。」
「香り?」
『異様な香りがいたします。』
その時、私の脳裏に初めて城に連れていかれたときにクラウドがルイスに言った言葉が思い浮かんだので、私はそのクラウドを手でパタパタと消し去った。
思い出すだけでも眉間に力が入る。
「其方の香りが遠くから薫ってきていた。それで近付いてきたのが分かったのだ。」
「………私、何か変な臭いしますか?」
クラウドの言葉が頭から離れずに、私は不安げにユタに尋ねた。
もしかして、私の臭いはこっちの人達にはとても耐えられないほどのものなのかも。
だとしたらこんな恥ずかしいことはない。
ユタはゆっくりと竿から視線を外し、私の顔を見た。
「前にも言ったであろう。其方の香りはとても良い。」
バッと、その時の記憶を鮮明に思い出した。
クラウドなんかに言われた言葉よりも、彼に囁かれたあの言葉を。
そして、あの抱き締められた感触を。
ユタと目があったまま私の頬は途端に熱くなった。
そんな私を見ても彼は至って真顔で続ける。
「其方は不思議な香りを身に纏わせているな。どんな花よりも明るく、乳飲み子のように甘い。」
ユタは片手を地面に着き軽く体を倒すと、私の香りを嗅ぐように顔を近づける。
「……そして何より、この体の奥を撫で回す媚薬のような香りが余の鼻を擽って離さないのだ」
彼の低い声が耳元でそう囁いたので、私は背中を指でなぞられたような刺激を感じた。
「……其方は不思議な娘よのう」
私がどきまぎとする心臓と戦っていることを知ってか知らずか、ユタは何事もなかったかのように顔を離すとまた竿に視線を戻した。
私はクルリと彼に背を向けて、胸にてを当てると肺に入るだけ息を吸い込んでからそれを吐き出した。
出会って早々心臓に悪い。
でもどうやら私の香りは、嫌なものではないらしいということだけ分かったから良しとしよう。
何度か深呼吸を繰り返し、私は再び彼の方に向き直った。
何を考えているのか分からない。そんな表情を浮かべている。
あの日もこんな顔で 水底を見てたっけ。
私も同じように彼の視線の先を見つめた。
「あれからは何か釣れましたか?」
「……いや、針に触れさえせんな」
「……お魚いないんじゃないですか?」
「そうかもしれんな」
「じゃあ、何してるんですか?」
「さてな」
「…………」
「…………」
前にもこんな会話をした気がする。
私は諦めて辺りを見渡してみた。
回りは見渡す限り森で囲まれている。
イーヴァに連れて行ってもらった場所もそうだったように、ここも森からコロンと抜け落ちてしまったような場所だ。
この泉だけが、この空間の風景だ。
こんなにも澄んだ水が、夜になるとあんなにも鮮やかな紅い色をするなんて信じられない。
私は泉の水に片手を入れて掬うと、指の隙間を流れ落ちる冷たく澄んだ水を眺めた。
キラキラと流れ落ちるそれは、あっという間に大きな泉の一部として消えてしまった。
「今日は何も描かぬのか」
のんびりと水遊びをしている私にユタが話しかけてきた。
「えっ?」
ユタは私の顔を見た後で、無言で後ろに転がっているスケッチブックを見た。
「……あっ、そうだった。あなたに見て欲しいものがあって」
私はあんなにも彼に早く見せたいと思っていた絵の存在を今の今まで忘れていた自分に驚いた。
水で濡れた手を何度か払うと、私は後ろに置いてあったスケッチブックのページを捲った。
指先がまだ湿っていて上手くページが捲れない。
焦る気持ちと指先のもどかしさに苦戦していると
ピチャッ
「ん」
「えっ?」
私の背後で何かが水に跳ねるような音がした。
その音に振り向くと、ユタが竿に手を伸ばしていくところだった。
「えっ!お魚!?」
「……わからん」
彼は慌てる様子もなく、竿を手にするとクイっと軽くその先端を引いた。
しかし、糸の先は何かに括り付けられているかのようにピンと伸びたまま水から浮き上がろうとしない。
「………引っ掛かっちゃったのかな」
岩か何かに針が掛かってしまったのかと、それを眺めていると
バチャバチャバチャ
突然大きな音をたてて糸の先から飛沫が上がった。
私は咄嗟に手で顔にかかりそうになる飛沫を避けた。それぐらい大きな飛沫が静かだった泉を揺らす。
何かがかかったのだ。
私は必死に飛沫の中に目を凝らした。
一瞬、大きな尾鰭が宙を舞った。
「ユタ!魚!!」
私は飛沫を避けるのも忘れ、興奮気味に叫んでいた。
あんなにも大きな尾鰭を見たことがなかった。
興奮する私とは反対にユタは冷静だった。
かなり重いのか、彼はグイグイと引っ張られるままに動く竿を両手で支えていた。
だが彼の体はぶれることなく、その地に根付いているかの如くしっかりと立っていた。
縦横無尽に動く竿を私が目で追っていると、ユタはそれを力一杯引き揚げた。
「わぁー!?」
引き揚げられた大きな魚がキラキラと鱗を太陽の光に照らしながら宙を舞う。
私はその魚の影に目を奪われた。
やがて
ビチャーンッと魚は勢いよく地面にその体を打ち上げた。
私は直ぐ様それの近くまで駆け寄ると、輝く影を見せてくれた魚と対面した。
あんなに美しいフォルムと輝きは見たことがない。
どれほど美しい魚かと想像していた私は、その姿を目にして驚愕した。
「………なに、これ」
地面の上でビチビチと跳ねるその姿は、私の想像を一瞬で吹き飛ばすほど奇妙な物だった。
たしかに
たしかに、魚なのだろう。
両手に抱えてもまだ余るほど大きなその体は、全体が透き通っているかのように青く、それが反射してキラキラとしていた。
それはまぁ綺麗だった。
問題は二つあった。
まずはその顔だ。
目が飛び出し、口は下唇がグッと前に出っ張っていて上唇を覆うような形をしている。
深海魚が釣り上げられたときに、目玉が飛び出してしまうというのを前にテレビで見たことがあったが、まさにそんな感じだ。
とても不格好な顔立ちだ。
そして、私が何よりも気になったのは腹の下についているものだ。
これは……足なんだろうか?
大きな魚の丁度腹のあたりでバタバタと忙しなく動いているそれは、どこかのキャラクターを髣髴とさせるような丸っこい足だった。
それから地面を蹴りあげようとワタワタ動いているので、見れば見るほど奇妙な生き物だった。
私はしゃがみこみその生き物をジィーっ観察した。
なんてヘンテコな生き物なんだろう。
魚がユタの影で輝きを失った。
彼は私の向かい側から無言でそれを眺めると、同じようにしゃがみこみジッと見つめた。
その間も魚は無様なくらいジタバタと動いている。
二人でそいつを眺めた。
「………フッ」
突然、ユタの口から吐息が漏れたので顔を上げると
「フッ、ハハハッ」
ユタが堪え切れなくなったかのように顔中豪快に笑った。
私はそんな彼の姿に我が目を疑った。
微かに微笑むことはあっても、彼がこんなにも感情を表に出すことなど一度もなかったからだ。
彼は両手を地面に着き、天を仰ぐように背を反らして笑っている。
驚いていた私もそんな彼の姿を見ているうちに、この奇妙な生き物がとても不気味で可愛らしい物に思えてきた。
そのワタワタとする姿も愛らしいとさえ思えてきた。
「……なんと、奇妙なものが釣れてしまったな」
ユタはまだ微かに笑いながらそれを見た。
初めて釣れたのがこんな不細工な魚だなんて、そりゃあ笑ってしまう。
「でも見れば見るほど可愛く見えてきちゃった。」
私はそいつを指で軽くつついた。
固い鱗が、体を守っている。
「こやつも其方の香りに誘われてきたのやもしれんな」
「えっ、私の?」
手を引っ込めると、頷きながらユタが続けた。
「先程泉に手を入れていたであろう」
「あっ、」
たしかにしていたが、そんなことで今まで引っ掛かりもしなかった魚が釣れるものなのだろうか。
私が不思議そうにしていると、ユタはスクっと立ち上がり、今だに蠢いているその奇妙な魚を両手で優しく持ち上げた。
それから静かにそいつを泉の中に放してあげる。
「えっ、せっかく釣ったのに逃がしちゃうの?」
「余はただの暇潰しをしていたにすぎぬ。奴にはそれを付き合わせただけのことだ。」
彼は両手を振り水滴を落とす。
その表情は微笑んでいるようだった。
「またいずれ会うやもしれんがな」
私に振り返りそう言うと、今度こそ優しく笑った。
初めて見るその表情に、私の胸はトクンッと音を立てた。
掴みかかられたような衝撃と、じんわりと温かいものが自分の中を流れていく。
彼は私に近付くと、飛沫に濡れた私の髪をマントで撫でた。
抱き抱えられているようなその格好と、胸の高鳴りで私は顔を赤らめて俯くことしか出来なかった。
「其方は本当に不思議な娘だ。」
最後に濡れた前髪を指先で掬い上げながら、彼が目の前で囁いた。
その黒い右目には、前にはなかった優しい色が灯っている。
「あのように必死に竿に握ったのも、大笑いしたのも、生まれて初めてのことだ。」
「………私も」
何か、言わなきゃ。
私はその眼差しの前に何か言葉を探した。
「…私も、あんな面白いお魚初めて見た」
私の口からぎこちなく言葉がこぼれ落ちると、それを聞いたユタはまた可笑しそうに目を細めた。
「余もあのような魚は初めてだ。あれは恐らくこの地にしかいない珍魚だろうな。」
もう一度さっきの魚のジタバタと跳ねる姿を思い出し、二人で笑った。
子供に戻ったように。
ある程度私の体が乾いた頃、ユタは立ち上がり空を見上げた。
私もつられて顔をあげる。
ぽっかりと開いたそこからは、澄みきった雲一つない青空が見える。
見上げていると吸い込まれてしまいそうな、錯覚を感じる。
「……綺麗だね」
私は誰に宛てた訳でもなく呟いた。
「……今宵は嵐になるな」
「えっ?こんなにいいお天気なのに?」
ユタは投げ出されたままの竿を拾い上げると、ピューと指笛を鳴らした。
何時かのように黒馬が姿を現す。
ユタはその子の顔を優しく撫で背に跨がると、私に手を差し伸べた。
「早く戻った方が良いな。其方の世話役達に見つかる前にな」
私はその言葉にハッとした。
「見付かったら私もう出てこれなくなっちゃう!」
今日もまた何かあったらクラウドに軟禁されるかもしれない。それくらいのこと彼なら平気でするだろう。
私が慌ててその手を取ると、彼は力強く体を引き上げてくれた。
「其方と会えなくなるのは困るな」
背後で囁かれた声に肩を揺らすと、ゆっくりと馬が歩き出した。
何気なく彼が呟いたその言葉は、私の頬を赤く染めた。
「サクラ」
「はい?」
真上からする声に、私は顔を上げられずに正面を向いたまま答える。
「其方が今日ここに訪れたのは、余への礼のつもりか」
あの日の約束思い出す。
二度も助けられた彼からの申し出を無下にするわけにはいかなかった。
でも、本当にそれだけの気持ちで今日私はここに来たのだろうか。
「……約束…してたから」
呟きながら私は抱えたスケッチブックにキュッと力を入れた。
結局見せることが出来なかった。
「そうか」
「でも」
ユタが何かを言う前に、私は焦るように付け加えた。
「今日は私もすごく楽しかったの。だから、その……また今度お礼をしに…会いに来てもいい、ですか?」
私の声は尻窄みになってしまった。
言っていて自分でも意味が分からないと思った。でも言ってしまったからには仕方がない。
彼はそんな私を変に思っただろうか。
ユタからの返事を待つ。
馬の歩く音が、やけに響いているように感じた。
その時が訪れるのを固唾を飲んで待つ。
「……いらぬ。」
「えっ」
彼のその言葉に私は言葉を失った。
勇気を出して言ったのに、彼に簡単に拒絶されてしまった。
変なこと言うんじゃなかった。
もっと素直に会いに来たいとなぜ言えなかったのか。
私が自分の言った言葉に後悔をし始めると、彼は前と同じように優しく私の髪を撫でた。
大きな手が私の頭を覆う。
撫でられる感触がくすぐったい。
私はその感触に目を瞑ると、彼の優しい声が頭の上で響く。
「礼などと申すな。其方が来たいと思うときに来ると良い。」
「……来てもいいんですか?」
私は体を捩るようにして彼の方に顔を向けた。
彼の揺れる肩が見える。
「あぁ、其方といると不思議と心が安らぐ」
「…でも自分から言っておいてあれなんですけど、いつこれるかは分からないんです。外は危ないからって」
もしここでまた約束をしても、いつ会えるかは私には保証できない。
もしかしたら、もう会えないかもしれない。
クラウドとの約束もある。私にはこれ以上の勝手な行動は許されない。
自分の気持ちが分からない。
私は気持ちと共に頭が下がっていく。
会いに来たいのに、はっきりと伝えられないことに胸の辺りがモヤモヤとしてきた。
「サクラ。余は今日までの間どのような気持ちでおったかわかるか?」
下がった視線に、手綱を持つ大きな手が見える。
私は彼の言葉の意味を考えた。
いつくるのかも分からない私を待つ彼のことを。
「………分かりません」
私はその手を見つめながら答えた。
私の頭の中で出た答えは、私が決して聞きたくないような答えばかり浮かんできてしまったからだ。
彼は穏やかな声で言った。
「其方を待つ間、その時間さえも愛しく思えた。もうそこまで来てるやもしれない、明日会えるやもしれないと思うと、何故か温かな気持ちになれたのだ。このような気持ち―初めて感じることができた。だから」
彼は手綱を握っていた手で私の手を包んだ。
大きくて温かい手だ。
「其方は何も気に病むな。余は其方を待つ時間さえも愛しく、それ以上に会えた時の悦びを知ってしまった。其方が来ると申すなら、余はいつまでも其方のことを思いながらあの場所にいられる。」
彼がこんなにも多くの言葉を掛けてくれるのも初めてのことだった。そして、その言葉達が私の中に温かく流れ込んでいく。
「…ありがとうございます。」
私は彼の手に空いている方の手を重ねた。
自分の手はこんなにも小さく頼りないものなのだと、その時思った。
「ここまでしか今日は送ってやれぬようだな。」
ユタは森の出口で馬を止めると、何かを探るように見つめていた。
私にはその意味がわからなかったが、ここまでだと言われたのだからそれ以上は彼をひき止めようとは思わなかった。
ゆっくりと馬から降りると、馬上のユタを見上げた。
彼は塀を見ながら口元だけに笑みを浮かべた。
「良い結界を張っているようじゃな。」
「結界…あぁ」
マクリナの結界のことだ。
「でも、その結界ってあんまり意味がないって言われてましたよ。私も、すんなり出れちゃったし」
森へ抜けるためにヒヤヒヤしながら穴を通ったが、結局何も起こらなかった。
「其方だからであろう。他の者ではそうはいかぬ」
「私だから…ですか?」
「あぁ。」
そんなものなのかなぁ。
でも、だとしたらユタのように城に近付けない人には反応してしまうのだろう。
ユタは馬の方向を変えるとゆっくりと私の頭を撫でた。
「また会おう」
「はい。また」
それから馬を蹴り上げると風のように静かに消えていってしまった。
私は撫でられた感触を確かめるように頭を触ると、火照った頬を冷ましながら塀の穴へと滑りこんでいった。