君の絵
私の足は思ったよりも早く治った。
城付きの医者にも念のため診てもらったが、初期の処置が良かったおかげだと言われた。
私は彼のことを誰にも告げなかった。
クラウドには後ろめたさが残ったが、彼のことは私の中で大切な思い出としてとっておきたかった。
足が治ると私は庭に出て絵を描いた。
部屋にいる間はずっとマクリナにこちらの文字を教えてもらっていたが、私にはヘンテコな模様が並んでいるようにしか見えず、読めるようになるまではまだまだ時間がかかりそうだった。
イーゼルを立てて、庭の風景をスケッチした。
傍らではクラウドが太陽を浴びながらごろんと横になっている。
呑気な護衛だ。
私は暖かい日差しの中で絵を描くのが好きだった。
自然と優しい絵が出来上がる気がした。
今日のモデルは三段に重なった噴水だ。
丸々とした水しぶきがなんとも言えず可愛らしい。その曲線的なフォルムを何度も何度も書き出して、ようやく納得のいくところまで出来上がった。
色をつけようと絵筆を手に取ると、クラウドがムクッと起き上がった。
「どうしたの?」
私も手を止めると、クラウドの方に顔を向けた。
遠くからルイス達が近付いてくるのが微かに見える。
なんという反射神経。
私は感心しながら、絵筆を置いた。
「やぁサクラ。足はもう良くなったのかい?」
ルイスは微笑みながら近付いてきた。
「うん、もうすっかり良くなったよ」
「そうか。良かった」
ルイスに微笑む。その後ろにはいつものようにソウマが影のようにひっそりと立っていた。
そして、もう一人。
「オルタナ!」
「久しぶりねサクラ」
ソウマに並ぶようにしてオルタナが手を振った。
そういえばここ最近オルタナの姿を見ていなかった。
オルタナは今日も華やかなヘソを出した服を身にまとっていた。
「……一段と気味悪い格好だな」
クラウドが独り言のように呟いた。
「ちょっと」
またオルタナと喧嘩になると、私は慌ててクラウドの口を塞ごうと手を伸ばした。
「なんだよ」
その手を掴まれながら、私は飛んでくるはずのオルタナの怒号に備えた。
しかしその時はいっこうに訪れず、静かにオルタナの方を振り向くと相変わらずニコニコと機嫌良さげに笑っていた。
あれ?
ポカンとする私を取り残して、クラウドは手を離した。
「もうすぐ王都の祭でね。オルタナは今年の祭司に選ばれたんだよ」
「そうなのよ。遊びにいってあげられなくてごめんなさいねぇ」
「ううん。忙しかったみたいだし」
私は面食らったのを笑顔で誤魔化しながら、オルタナの様子を伺った。
クラウドの言ったこと聞こえてなかったのかな?
「素敵な絵だね」
書きかけだったキャンバスの前でルイスが言った。
「まだ色を着けてないからあれなんだけどね。不思議な形の水しぶきが上がるから描いてみたくなって」
「色がなくともこの弾ける様子がよくわかるよ。サクラにはこんな才能があったんだね」
「そんな才能だなんて大袈裟だよ。でもありがとう。ルイスが画材を用意してくれたおかげだよ」
私はようやく使い慣れてきた絵の具達を見ながら言う。
「礼ならソウマに言っておやり。これは私がソウマに頼んだ品なんだよ」
「えっ、そうだったの」
私はソウマの方を向いた。
彼は変わらずに無表情でこちらを向いている。
まさかソウマがこんなにも大量の画材を集めてくれたなんて、信じられなかった。
私は頭の中でこの大きな男が、小さな絵の具の小瓶をかき集める姿を想像した。想像の中でソウマがコロコロと小瓶をそのゴツい手からこぼれ落としてしまっている。
私は笑いを堪えながら彼に頭を下げた。
彼とは言葉を交わした記憶がない。
「ソウマ、ありがとうございます。こんなに沢山集めるのはすごく大変だって聞きました。」
私は精一杯の感謝の気持ちを込めた。
これがなかったら私は大好きな絵を描くことができなかった。
彼は
「……いえ。」
と短く返事を返しただけで、その後には何も続かなかった。
……それだけ?
私は顔をあげてソウマを見たが、彼は口が本当にさっき動いたのかわからないほど同じようにそこにいた。
「完成したら私にも見せておくれよ」
「もちろん。約束したしね」
ルイスが優しく笑って話しかけてきたので、私は視線を戻した。
彼は私の肩にポンっと軽く手をそえてからソウマを引き連れて城へと帰っていった。
去り際、ソウマは一瞬だけ私をチラッと横目で見た。
その瞳が、なぜかヒュンと私の心を優しく握ったような気がした。
なに。今の感覚。
どこか懐かしいような、ずっと昔に見たことがあるような。
初めて目が合ったソウマの瞳が私の胸をざわつかせた。
「……はぁー」
彼らを見送ると、オルタナは熱っぽい溜め息を豪快に吐き出した。
「ど、どしたの?」
その顔は恍惚の表情だった。
「今年の祭はね、あたしが司祭でソウマ様がその補佐をしてくださるのよ。今日もさっきまで二人で王都を歩いてきたのよぉ。あたしもう気絶するんじゃないかってくらい幸せな時間を過ごしてきちゃったわけ」
キャーっと顔を両手で覆いながら一人で盛り上がっている。
だから今日はこんなにも機嫌がいいのね。
「良かったね。じゃあお祭りまで楽しまないとね」
「……それがねぇ、そうもいかないのよ」
両手を外すと、オルタナの顔は先程とはうって変わって暗くなっていた。
「明日からソウマ様達は遠方の村まで行かなくちゃいけないらしいなよぉ。だから今日はその前にソウマ様がやっておかなくちゃいけないことを大急ぎで片付けたわけ」
「そうだったんだ」
オルタナは、なぜあんな無口なソウマのことがこんなにも好きなんだろうか。
彼の態度に一喜一憂するオルタナは、正真正銘恋する乙女だ。
「ソウマも大変だなぁ。お前みたいなのにくっつかれてよ」
横でやり取りを見ていたクラウドが嫌味を口にした。
「まっ、明日からしばらくは馬に揺られて遠く遠くまで逃げられるからあいつも楽になるなぁ」
「ちょっとクラウド。またそんな言い方して」
どうしていつもこうオルタナには意地悪な言い方をするのか。
私は彼を咎めようとしたが、オルタナは「いいのよ」と微笑んで私を止めた。
「サクラあんな奴放っておいていいわよ。どぉせこいつも明日からソウマ様と一緒に遠く遠くまでお出掛けなんだから」
「はぁ!?」
クラウドが驚いたように声をあげた。
「あんたもソウマ様と一緒に行くんだっつうの。砂漠越えして、村の視察だってさぁ」
オルタナは勝ち誇ったようにクラウドを見ながら笑った。
なるほど、この事実を知っていたから今日のオルタナは余裕たっぷりだったのか。
一方のクラウドはガクンと肩を落としていた。
「聞いてねぇよ、そんなこと……ちょっと、待て!俺もソウマもいないって、城の警護は誰がやるんだよ」
「そんなのあたしのとこがやるに決まってるじゃない。それに祭の期間までマクリナがあの変な結界を張るから大丈夫だって言ってたわよ。まぁ、そっちは、あてにしてないけどね」
パタパタと手を降りながら、マクリナの話をその手で払いのけた。
「……こいつの警護は」
クラウドは隣にいた私を指差した。
「それはあたしが直々に。クラウドなんかよりも楽しく過ごしましょうねぇ」
オルタナの楽しそうな笑顔に、私は苦笑いで答えた。そんなあからさまにクラウドの遠出を喜ぶなんて。
「……そうかよ」
クラウドはそう言うとまたごろんと草の上に体を横たえた。
「ルイス様が伝えるはずだったのに、サクラにばかり気をとられて言い忘れちゃったみたいね。明日の日の出前には出るってソウマ様が仰ってたから、ちゃんと、準備しときなさいよ」
「…わぁったよ」
目を瞑ったままクラウドはオルタナに向かって、あっちいけと言わんばかりに手を払った。
「ふんっ。それじゃあサクラ、明日からあたしが付き合うからよろしくね」
「うん、分かった」
「じゃああたしはまだやることあるから、またね」
「じゃあね」
オルタナは来たときと同じ道を軽い足取りで帰って行く。
さて、続きをやっちゃおうかな。
私も書きかけの絵に向かい合うと、絵筆に絵の具にのせた。
「おいっ」
筆を進めようとしたとき、横になったままのクラウドが声をかけてきた。
「なに?」
私は振り返らずにキャンバスに向かったまま返事を返す。
絵を描いているときは、こうして会話をしてもクラウドは特に気にしないでくれた。
後ろでガザッと音がしたので、仕方なく振り返ると彼は草の上に座り私を見ていた。
「なに?」
もう一度、今度は目を見て返事をした。
彼は真剣な顔をしていた。
「約束は守れよ。」
彼の耳でピアスがチラリと光った。
「わかってる。無茶はしない。大人しくしてます」
私は右手をピンと挙げて、誓いのポーズをしてみせた。
すると、彼はプッと吹き出して笑った。
「なんだその格好。」
「えっ?誓いのポーズの一つなんだけど。」
私の選手宣誓のようなポーズが可笑しかったのか、クラウドはケラケラと笑った。
そんな風に笑う姿を始めてみた。
「お前。本当に変な奴だな」
「ひっどい!私は至って普通です。クラウドの方がよっぽど変な奴ですよぉ」
「はぁ?俺はお前ほど変じゃねぇよ」
「変だよぉ。それに乱暴者だし」
「それは関係ねぇだろうが」
いつの間にか私たちはしょうもない言い争いをむきになりながらしてじゃれていた。
夕日が沈む頃、クラウドは画材を運んで私を部屋まで送ってくれた。
「俺は2、3日留守にする。何かあればテトに言えば俺への伝言が飛ぶから伝えろ」
絵の具の袋を受け取りながら、私は頷いた。
「うん、気を付けて行ってきてね」
「大丈夫だろ。今回はただの視察だ。怪我するようなことはねぇよ」
彼は呑気に伸び上がりながら答えてくれた。
きっと私を安心させるためだろう。
それがわかったから、私も笑顔で頷いた。
「それじゃあオルタナがうっせぇから、俺は明日の支度を済ませちまうわ。お前も早く休めよ」
「わかった。それじゃあね」
クラウドは片手を挙げてそっと部屋から出ていった。
一人になると画材を机の上に並べながら、胸に支える違和感を押さえきれずにいた。
オルタナもクラウドもただの視察と言っていたが、本当にそうなのだろうか。
いつもならこんな風に勘ぐったりはしない。
クラウドが城にいないことは稀にあったし、テトに今日はこんなことをしてるみたいだと聞けば、そういう仕事をしているんだなぁ程度に流していた。
なのに、今日はなんだか違っている。
視察に行くのに、わざわざ騎士団長二人が一緒に行く必要があるのだろうか。
それもルイス直々にその命を下すほど。
嫌な予感がしてならなかった。
けれど、それをクラウドに伝えたところで彼を困らせてしまうだけだとも分かっていた。
私は知らなくていいことだから伝えられなかっただけ。
私を疎外しているわけじゃない。下手に私に心配をかけないようにしてくれてるんだ。
それなら、私は彼の言葉を信じるしかない。
私は胸につっかえる不安をグッと圧し殺すと、ベットの横に隠すように立て掛けておいたスケッチブックを開いた。
その中には、イーヴァに連れて行ってもらった龍の森の絵が並んでいた。
イーヴァとの秘密にするという約束があったので、私はその絵を誰にも見せることなく密かに閉まっていたのだ。
それに、もう一つ。
私は最後のページを広げた。
そこにはあの美しい泉と、その傍らに佇む黒い後ろ姿が描かれていた。
この絵を見れば、きっとクラウドあたりがこの人物について問いただしてくるだろう。
私は何故かそれを誰かに伝えることを心の底で拒絶している。
私は机にあげた絵筆を持ち、その絵に色をつけ始めた。
本当はその場所で見たままの色を出したいのだが、そうもいかない。
私は記憶の中に鮮明に残っている、あの泉の透き通る色を作り出そうと絵の具を混ぜ合わせた。
それからふいと絵筆を止めた。
何か、違う気がする。
私は少し離れた場所からその絵を眺める。
その絵の印象は、あの澄みきった透明感を思わせる穏やかな絵だ。
だが、視線を泉から黒い後ろ姿に移すとその印象はまるで違うものになってしまう。
自分で描いた物なのに、真逆の印象を持たせてしまう。
もっと、こう。
燃えるような……。
薄暗い。
私は筆先に先程作った色ではなく、新たに作った紅い色を着けた。
そしてそのまま、腕が赴くままに感性をぶつけた。
書き上げたときには、既にすっかり日が落ちていた。
私は部屋薄暗い部屋の中で、一心不乱に描いたその絵を眺めた。
燃えるような紅い泉が、消え入る夕日の中で揺れている。辺りは静かに夜の色を濃くして行き、一層に泉の艶かしい色を浮かび上がらせた。
そして、その絵の主はひっそりと闇に溶けるように佇んでいる。
そう。本当に闇に溶けるように。
何故、こんな風に出来上がったのか自分自身でも分からなかった。
思ったままをぶつけたら、このように仕上がったとしか言いようがなかったのだ。
多分、私があの泉で何気なく鉛筆を動かしていたときは、こんな風に描くつもりは微塵もなかったはずだ。
「……ユタ」
気付くと私は絵の中の彼の名を呼んでいた。
『もう一度来てくれ』
別れ際の彼の言葉が頭の中で呪文のように響いている。
私はその絵を眺めながら、心の中で葛藤していた。
彼にもう一度
会いたい。