再会
食事会から数日経ったある日。
私はマクリナとイーヴァにこの世界の歴史について教えてもらっていた昼過ぎのことだ。
コンコンというノックでテトが扉を開けると、何やら大量の荷物が部屋に運び込まれてきた。
「うわっすごい荷物だぞ」
いち早くイーヴァがパタパタと荷物の上を飛び回る。
それに続いて、私とマクリナも荷物に近づいた。
「ルイス王からです」
テトが最後に受け取った小さな包みを私に渡した。
「ルイスから?」
渡された包みを机の上で丁寧に開ける。
包みを開いた途端、ポロポロと支えをなくした中身が床に転がり落ちた。
「あっ!」
私は慌てて落ちそうなった中身の一つを拾い上げた。それは小さな瓶だった。
沢山の小瓶の中には、様々な色の絵の具が入っていた。
あの時の事覚えててくれたんだ。
食事会で絵の話をしたから、わざわざこんなにも沢山の画材を届けてくれたのだ。
「サクラは絵を描くのかだぞ?」
落ちた小瓶を一つ拾ってイーヴァは机の上に留まった。
「うん。この前ルイスにも見せる約束したから用意してくれたんだと思う」
「すごいんだぞ!こんなに沢山用意するなんてとっても大変なことなんだぞ」
この世界では、高貴な人以外は絵は描かないらしい
。だから、画材もあまり製造されておらずこんなに用意するのには相当の手間とお金がかかるとマクリナが教えてくれた。
「王はサクラ様のことをとても大事に想っているのでしょうね」
マクリナの笑顔に少しだけプレッシャーを感じながらも、また大好きな絵を描けるのがすごく嬉しかった。
「マクリナ……あのね。」
私が何を懇願しようとしているのか分かっていたかのように、彼は何も言わなくても頷いてくれた。
「今日はとてもお天気がいいですし、外で描いたらいかがでしょうか」
私はとても嬉しくなった。
「うん!」
届けられた荷物から、スケッチブックと鉛筆を抜き取り近くにあった袋に詰めた。
「では、私は部屋に戻りますね。護衛として本来ならばクラウドを着けなくてはいけないのですが、生憎今日は出ておりまして。」
「大丈夫よ。そんなに遠くには行かないから」
「いえ、お一人では行かせることが出来ないのです。イーヴァを供に連れていってください」
マクリナの肩に留まっていたイーヴァが頷いて、パタパタと私の肩に留まった。
「頼りないとは思いますが、こう見えても私なんかよりもずっとずっと戦闘向きですので、ご安心ください」
物騒なことを言わないで欲しいものだ。
「いざとなったらイーヴァが敵に毒槍をぶっ刺してやるから安心するんだぞ」
こたらも物騒なことを言わないで欲しいものだ。
私は苦笑いをしながら、テトに部屋のことを任せて外へ出た。
外と言っても、王宮の広大な敷地の中にすぎない。
私はイーヴァと他愛もないおしゃべりをしながら、あちらこちらの景色に目を向けた。
どこに目を向けてもきちんと整備されていて、花も木々も整えられた美しさがあった。
沢山の使用人が庭の手入れをしていた。
私は彼等に軽く頭を下げると、彼等は手を休め私が見えなくなるまで頭を下げていた。
ここに来てからずっとこのように接せられている。
まるで、高貴な人に対する対応だ。
私はそれがなんだかとても違和感のあるものに思えて、つい使用人がこちらにくるのが見えると隠れてしまいたくなる衝動にかられた。
イーヴァにそのことを話しても
「イーヴァは生まれたときからそんな態度をとられていたぞ」
とまるでなんでもないかのように言うので、やはり私が順応しなくてはいけないのだなぁと気重に考えてしまう。
30分くらい歩き回ったが、なんだかどこも私の創作威力を掻き立ててはくれなかった。
全てが美しい庭は、その美しさが邪魔をしてしまっているように思えてならなかった。
「どうしたんだぞ?書かないのかだぞ?」
イーヴァが目の前に飛んできた。
「うん。なんかピンと来るとこがなくて」
「サクラはいったい何を書きたいんだぞ?」
「ん~。なんていうのかなぁ。もっとありのままな感じ」
私はぼんやりしたイメージを伝えた。
イーヴァも腕組をして一緒に考えてくれた。
ここの庭は夢のように美しいけど、もっともっとこの世界の美しい景色があるような気がどこからか沸いてきていた。
「……あっ!」
イーヴァが何か思い付いたように大きな声を出した。
「どうしたの?」
「………サクラ、絶対絶対内緒にできるかだぞ」
イーヴァは声をひそめて私の間近に飛んできた。
「うん、できるよ。なに?」
それからキョロキョロと周りを見渡してから、『こっち』と手招きしながらどこかへ誘導してくれた。
イーヴァは王宮の裏手の塀の近くで止まった。
そこは正面とは違いなんとなく薄暗く、塀にも幾重にも蔓がまとわりついていた。
「サクラ、こっちだぞ」
その蔓の一束をイーヴァは指差した。
私はその一束を掴むと、そこの塀だけポカンと人一人通れるほどの穴が開いていた。
「えっ?イーヴァいいの?」
私も声をひそめて話し掛けた。
イーヴァは人差し指を立てて、シィーと息を吐くとパタパタと先にその穴をくぐった。
私も周りに誰もいないのを確認すると、そっとその穴に入っていった。
分厚い塀の穴を抜けると、そこはなんとなく見覚えのある森の入り口だった。
先に出ていたイーヴァがパタパタと私の肩に戻ってきた。
「イーヴァ、ここって」
「サクラが最初にいた場所だぞ。龍の森は城の裏に続いているのだぞ。でもでっかい塀があるから本当は城の正門からしか行けなくて、ものすごく遠くにあるみたいになってるんだぞ」
「そうだったんだ」
たしかに私が初めてお城に連れてこられたときも、すごく長い間馬に揺られていた気がする。
まさか、お城のすぐ裏だったなんて。
「ここにはイーヴァの大好きな花がたくさん咲いているのだぞ。でも、ここにはあんまり入ってはいけないことになってるからバレたら父様にいっぱい叱られるんだぞ」
イーヴァはちょっと羽をシュンとさせた。
「大丈夫。絶対内緒にするから」
「約束だぞ」
「うん」
私が頷くとイーヴァはまた元気よく飛び上がった。
「サクラ、こっちだぞ」
森は始めてきたとき同じで静かで、木々がキラキラと輝きながら揺れていた。
あの時はなにがなんだか分からなくて、この空気を感じる余裕なんてなかったけど、今日はとても穏やかな気持ちになれた。
イーヴァについていきながら、私は見たこともない草花を見付けてはこれはなにかと尋ねた。
イーヴァは草花に詳しく、名前やどんなときに役立つものかというのも教えてくれた。
さすがマクリナといつも一緒にいるだけあって、知識が豊富だ。
私はいくつスマートフォンで何枚か写真を撮った。
充電がいつ切れてもおかしくはなかったが、どうにかしてこの綺麗な風景を形に残したかった。
イーヴァは私が写真を撮るととても驚いたように近付いてきて
「この小さなものはなんなんだぞ?」
「あっという間に絵を描いたぞ!」
と騒ぎ回っていたので、なんだかすごく可笑しくなってしまった。
イーヴァのことも撮ってやると、大興奮して画面を触りまくった。
「すごいすごいだぞ!!なんでイーヴァがここにいるんだぞ?サクラの世界はおもしろいぞ!」
その純粋な姿に、私はついつい大笑いをしてしまった。
「着いたぞ」
イーヴァに続いて森を抜け開けた場所に出ると、そこはまるで
「花の絨毯みたい」
あまりにも美しい光景に、腕に鳥肌が立ってしまった。
不思議な花びらが2枚だけの花が、そこら中一面を埋め尽くすかのように咲き乱れていた。
「素敵でビックリしてるかだぞ?」
イーヴァは私の表情に得意気に笑った。
私は何度も頷くと、イーヴァに感動を伝えようと言葉を探した。
「すごいね!こんな素敵な場所。イーヴァ本当ありがとう」
イーヴァはへへっと笑って肩に留まった。
私は早速絵を描く場所を探した。
どの角度から見ても、魅力的な形に収まる。
もう全ての角度を描いてしまいたくなったが、そんな事は現実的に難しいと一人で笑った。
「ここがいいかな」
私は少しだけ森の中に戻り、比較的全体を見渡せる場所に決めた。
森の木々と花達のコントラストが一番美しく思えたからだ。
私はスケッチブックを取り出すと、思うままに鉛筆を走らせた。
高揚していた気持ちが、鉛筆の動きと供に落ち着きを取り戻してくる。
学校でも私は風景ばかりを描いていた。
周りからはもっと評価される抽象的なものも描いた方がいいと勧められたが、私はあまり乗り気にはなれながった。
頼まれれば人物画やアニメタッチのデザインも描いたが、やはり私が描きたいのは心に残しておきたい風景だった。
知り合いの紹介でアニメーションの背景を描くアルバイトをしたときは思いの外楽しかった。
背景なんて視聴者にしてみればただなんとなく眺めている、印象にあまり残らないものかもしれないが、それの果たす役割はとても大きいものだと教えられた。
人々の生活に絶対にあるものなのに、邪魔することなく馴染んでいくような風景を描くのが楽しくて、私もこういう仕事につくのもいあかなぁと思っていた。
何ページか一気に描き進めたところでフゥーと一息つくと、ふいにイーヴァが空をじっと見詰めているのに気が付いた。
その顔は今までに見たことのないくらい無表情で、冷たいものだった。私はその表情に一瞬背中がゾクッとなってしまった。
「……イーヴァ?」
私が声をかけると、ハッとしたかのようにいつもの表情に戻りこちらを向いた。
「どうしたの?」
あの表情は明らかに何かあったものだ。
イーヴァは少しだけ険しい顔で、また空を見上げた。
「アシャの奴等が動き出してるんだぞ。イーヴァも戦闘にこいって呼ばれているんだぞ」
「えっ」
私は持っていた鉛筆を強く握った。
イーヴァはまた私の方を向いて安心させるように笑った。
「でも大丈夫だぞ。戦闘はここからもっともっと遠くでやっているんだぞ。この辺りは全然安全だぞ」
「そっか」
私はホッと胸を撫で下ろした。
「でも……」
「なに?」
イーヴァは私の肩から飛び降りると、パタパタと羽ばたいた。
「イーヴァもこれから戦地に行かなくてはならなくなったんだぞ。召集の笛が鳴ってるんだぞ」
私は耳を凝らしたが、何も聞こえてはこなかった。
こういうところがやはり普通の人間と獣人の違いなのだろうか。
「この笛が鳴ったら何をしていても行かなくてはならい決まりなんだぞ。でも、サクラの護衛としている今はどうしたらいいのだぞ。」
困ったようにパタパタと飛び回った。
イーヴァは前に戦地ではとても、大切な仕事を任せられていると私に誇らしげに話していた。
どうやらイーヴァはクラウドの率いる部隊の奇襲をかける指揮官をしているようだった。
こんなにも可愛らしい姿をしながら、部下も大勢いるのだ。
多分今も戦地に先に駆り出された部下のことを思っているのだろう。
「私なら大丈夫だよ」
「えっ?」
イーヴァが私の目の前で止まった。
「本当は戦地なんて危ないところ行って欲しくないけど、イーヴァのこと必要としてる人がいるんでしょ?私ならちゃんと一人で帰れるから」
「でも……」
イーヴァの小さな顔が迷っていた。
私は握り拳をつくってみせた。
「大丈夫。一本道だったし、もし迷子になってもイーヴァが戦地から戻ったら見つけてくれるでしょ?前みたいに」
私の顔を見てイーヴァが笑った。
「わかったぞ。でも絶対に暗くなる前に戻るんだぞ?イーヴァもさっさと終わらせて急いで帰るぞ」
「うん。気を付けてね」
「サクラもだぞ!絶対危ないことするなだぞ!」
私が頷くとイーヴァは空高く舞い上がり、手を振ったかと思うと一瞬にして空の彼方に消えていった。
なんて速さで飛べるんだろう。
感心しながら、今から戦地に向かうイーヴァの無事を祈りまた鉛筆を握った。
どれくらい時間がたったのだろうか。
時計なんてないから時間は分からなかったが、太陽の位地が大分来たときと変わっていた。
そろそろ帰ろうかな。
私は描き貯めたスケッチブックをしまうとお尻の砂を払って立ち上がった。
同じ姿勢でいたので、堅くなった背中をんーっと伸ばしてから元来た方へ歩き出した。
イーヴァと一緒だった行きの道よりも、一人の帰りの道は幾分森の表情が違って見えた。
キラキラと美しかった木々は、どことなく私を迷い混ませようと手招きしているようにも感じられた。
私の足も自然と歩幅が速くなった。
恐怖感ではなく、なんだかどこか別の場所に引きずり込まれてしまうような錯覚を覚えた。
突然
バサバサと大きな羽音が頭の上をかすめた。
「きゃっ!」
驚いた私は、足元の木の根に気が付かず派手にその場に倒れこんだ。
「いったぁ」
頭上を飛んでいった鳥は何事もなかったかのように、森の奥へと消えていってしまった。
あれくらいてビックリするなんて、私相当ビビってたのね。
自分の肝の小ささに呆れながら立ち上がると、ピキッと右の足首に痛みが走った。
やってしまったかな……?
この痛みは以前も体験したことがあった。
多分、捻挫だ。
そっとスカートの裾を捲ると、なんとなくもはや腫れてきていた。
ヤバイなぁ。
歩けないほどではなかったが、ここから城まではまだ結構歩かなくてはならない。
何かで冷やしたらマシになるかな。
とは思ったものの、バックの中には絵描き道具とスマートフォンくらいしか入ってはいない。
どうしよう。
もう一度足の腫れを確かめようと裾を捲ると
ピシャッ
近くで水が弾けるような音がした。
空耳かもしれないが、何かが水に落ちたような音が耳に届いた。
とりあえず行ってみよう。
私は痛い右足を庇うように音の方へと歩き出した。
ガサゴソと茂みを避けながら歩いていくと、目の前に小さな泉が表れた。
やっぱり空耳じゃなかった。
私はホッとして、茂みを抜けると
泉の畔に人がいるのに気がつき動きを止めた。
影になっていて見えにくいが、たしかに誰かいる。
私の背中にまた嫌な寒気が走った。
前のように私を捕まえようとするアシャの獣人だったら。
この足では絶対に逃げられない。
あちらはまだ私に気が付いていないのか、畔に座り込み顔をあげる気配はない。
このまま離れた方がいいよね。
私は音をたてないよう慎重に、後ろ足を元来た道に踏みしめ体を反転させた。
いたっ!
畔の人物に気を取られてしまい、痛めた右足に体重がかかり私はその場にグシャと座り込んでしまった。
歯を食い縛り声こそ出さなかったが、今の衝撃ですぐには立ち上がれそうもなかった。
痛みに顔が歪む。
「誰かおるのか?」
その声に私は全身の毛が逆立つくらい驚いた。
一瞬にして血の気がひいて冷たくなっていくのがわかった。
見付かってしまった。
こちらに近付いてくる足音が聞こえる。
私は振り返ることができない。
もしアシャの獣人だったら。
もし私が女だとバレたら。
頭の中でその言葉がグルグルと回った。
逃げたくとも逃げられない。生殺しの蛙の気分だ。
すぐ近くで足音が止まった。
私の心臓は弾け飛んでしまうほど速かった。
「………其方、あの時の」
えっ?
聞き覚えのある声に、私は顔をあげた。
恐る恐る振り返ると、そこには黒いマントを身にまとった黒髪に眼帯の青年が立っていた。
そう、私が最初に出会った彼だ。
彼はあの時と同じように、私のことを見下ろしていた。
途端に体の力が抜けていく。
名前こそ知らなかったが、見知った姿に針積めていた緊張感が解けていった。
「どうした?このような場所で」
彼は近くまで来るとしゃがみこんだ。
「あの、足を挫いちゃって」
そう言って右足を擦った。
そこで私は自分の手が震えていることに気付いた。
慌てて手を引くと、その手をもう片方の手で隠すように握った。
「……。」
無言で私を眺めてから、彼はすくっと立ち上がった。
つられて私も彼を見上げると、突然彼は私を抱き抱えた。
「!!」
急に持ち上げられて、声も出せずに体が縮こまる。
そして、そのまま彼は歩き出した。
「あの!」
「手当てをするだけだ。心配しなくてもいい」
私の方に視線を向けずに、彼は何か探すように視線を配りながら泉の畔まで私を移動させた。
静かに私を下ろすと、茂みの中から何本か草を抜き取った。
私は大人しく彼の様子を見ていた。
あの時もあまり多く語らずに助けてくれた。
私はもう一度会ってお礼が言いたかった彼に会えたことに密かに喜んでいる自分に気付いた。
なんて能天気なのだろうと少し呆れてしまう。
彼は取ってきた草を布にくるむと、水にその布を浸して手の中で揉みこんだ。
それを固く絞ると私の方に近付いてきた。
「足を」
「は、はい」
挫いた足の裾をそっと持ち上げると、さっきよりも倍近く腫れ上がっていた。
その赤黒い自分の足首を見ると無意識に顔が歪んだ。意識がそこに集中したのか急にズキズキと痛みまで増してきた。
彼は労るようにそっと私の足首に触れた。
その手があまりにも冷たくて、体がビクッと震えた。
「すまぬ。痛むか?」
黒い瞳が間近で顔を覗きこんできた。
あまりの近さに私は赤くなる顔を無言で左右に振った。
彼は自分の手をどけると、先程の布を私の足首に巻き付けた。
その布も驚くほど冷たかったが、先程の火照りも同時に冷ますように次第にひんやりと気持ちよくなってきた。
「平気か?」
顔の歪みが消えたのを見計らったかのように、彼は話しかけてきた。
「はい。気持ちいいです」
「そうか。腫れが退く薬草を混ぜておいた。直に収まるだろう」
そういえばなんだか布がスゥスゥしてきた。湿布をはっているようだった。
「ありがとうございます。それから、前も助けてもらって」
私はずっと言いたかった言葉を口にすることができた。
彼はじっと私のことを見詰めていた。
私の胸はその瞳に見詰められ、また高鳴っていく。
その時、ふと彼の前髪に隠されている左目の眼帯がチラリと見えた。
前に会ったときに見えた彼の左目は、右目とは異なる色をしていた。
隠しているのはこの世界の病気か何かなのかな。
私の視線に気が付いたのか、彼はまた立ち上がると最初に彼がいた場所に座り込んだ。
ジロジロ見て失礼だったかな。
私はあまりにも自分がまぬけで落ち込んでしまった。
「礼を言われるほどのことはしておらぬ。」
彼は泉を眺めながら話した。
「余は其方を放っておけないようだ。」
私の方にチラッと振り向いた彼は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
その顔に私もやっと安心できて顔が緩んだ。
視界が広がって、彼の前に何か立て掛けられてることに気付いた。
竿?
地面に突き刺さった棒の先に括りついている糸は泉にポチャッと投げ込まれていた。
私は立ち上がると彼のそばに移動した。
足の痛みは少し引いていた。
彼の近くに腰を下ろすとその糸の先を見た。
「何か釣れるんですか?」
あんなにも冷たかった水に魚なんているのだろうか。いや、こちらでは普通のことなのかもしれないけど。
「釣れたことはないな」
「えっ?」
彼は振り向かずに同じように糸の先を見ていた。
「じゃあ何してるんですか」
「さてな。ただ眺めているだけだな。」
澄んだ水は水底まで覗けるほどで、見渡す限り魚なんて影も形もなかった。
それから彼は同じ姿勢のまま黙ってしまった。
私は何か聞きたかったけど、なんとなくそこに流れている空気が心地よいものに思えて口を開かなかった。
足の痛みが消えるまで、少しの間こうしていよう。
私は肩にかけていた袋からスケッチブックを取り出した。
そして簡単にその泉を描き始めた。
幾重にも重なる鉛筆の線が段々と形になっていく。
泉の澄んだ色はどうやって出そうかなと、帰ってから塗る絵の具のことを考えた。
沢山色はあったけど、あれは普通の絵の具みたいに自分で混ぜて色は作れるのかな。
ぼんやりと描いていると、私はチラッと彼を視界に入れた。
それから、その後ろ姿を泉の脇に描き足した。
シュッシュッと鉛筆が紙を撫でる音だけが、静かな空気に響く。
しばらくして、私の手は止まってしまった。
鉛筆をスケッチブックに挟むと、交互に見ていた泉をじっくりと見た。
泉の色が変わっていた。
さっきまであんなにも澄んでいた水面が、燃えるように紅く色付いてきた。
夕日を映して色づいているわけではない。水がそこの方からコポコポとその色を変えていく。
その光景は、幻想的かつ体の奥がゾクゾクするほど恐ろしいものだった。
「恐れなくていい」
恐怖とも感動とも言えない感情の中にいると、彼が隣に立っていた。
「ただの変化だ。直に夜が来る。その為の変化さ」
「そうなんですね」
私のいた世界と本当に違うんだなぁ。
私はその光景を眺めながら、自分が本当に遠い場所にいることを実感した。
ツゥーっと私の頬に薄い涙が染み込んだ。
それは気が付かないほどに、ほんのりと。
その涙を指で拭うと、私の体は強い力で彼の胸に引き寄せられた。
その腕の中で身を固めると、真上から彼が見下ろした。
私は目を見開いて顔が真っ赤になった。
「其方は……いい香りがするな」
突然彼は頭に顔を埋めてきたので、私の体は更に固まった。
心臓の音が騒がしく耳元で聞こえてくる。
「其方、名はなんというのだ」
「……サクラです」
抵抗できないまま、私は彼の間近な胸を見ながら答えた。
「サクラか。綺麗な名だ。」
そして、私をそっと離すと右目で私を映した。
そこに映る私は、信じられないほどに間抜けな顔をしていた。
「余の名はユタだ。覚えておいてくれ」
私は黙って頷くと、ユタはピューと指笛を鳴らした。
すると、一頭の黒馬が茂みの中から顔を出した。
「今日はもう遅い。余が城まで送ろう」
竿を担ぐと彼は私に手を差し伸べてきた。
「……あれ。なんで私がお城から来たこと?」
彼は何も言わずに口元を微笑ませた。
私がその手を取ると、フワリと馬に乗せその後ろに彼が乗った。
黒馬は静かに歩き出し、私はその揺れに身を任せた。
背中から彼の体温が伝わってくる。
私はそろそろとしてしまい、何か言葉を探しながら口を開いた。
「ユタさんもお城の近くに住んでるんですか?」
「そのように畏まらなくてもよい。」
すぐ頭の上から声がした。
「余はこの辺りには住んではいない。本来は城に近付くこともできぬ身だ」
「えっ?」
私は振り返ろうとしたが、ユタの体がピッタリと後ろに合ったために首を少し横に向けるだけの形になった。
「余は以前に罪を犯してな。それで城へは近づけぬようになったのだ」
「…そう、なんですか」
意外な答えが返ってきてしまった。
私はてっきりユタも城の住人かと思っていたからだ。
着ている服も上等そうだし、物腰も柔らかく、それはルイスに少し似ていた。それになにより、私のことを女だと分かっても驚かなかった。
初めて会ったときも、今日も普通に接してくれる。
城の者以外では私のことは知らされていないはずだ。
「サクラは余が怖いか?」
唐突な質問だった。
怖い?罪人だからってこと?
私は勢いよく頭を振った。
「全然怖くないです。」
「何故じゃ?」
「なぜって…あなたはいつも私を助けてくれるから。」
「……それだけか?」
「んー。あとは、私の直感です。あなたのこと全然知らないけど私あなたのこと怖いだなんてこれっぽっちも感じなかったし。あなたよりも怖いと思った人と何人かであったし」
あなたの中にクラウドとオルタナが意地悪そうにこちらを向いた。
「そうか」
彼はどことなく明るい声で答えて、片方の手で私の頭を撫でた。
さっきまで上手にしゃべっていた私の口は、再びモゴモゴと閉じてしまった。
城の裏手の例の穴の近くで馬を止めてもらった。
「ここでよいのか?」
ユタは私を下ろしてくれると、馬に跨がった。
「はい。ここで大丈夫です」
穴のことは言わないでおこうと笑顔で答えた。
頼むからなんでここでいいのかツッコマないでくれよと祈りながら。
「そうか。其方がいうのであればそうしよう。」
「あの、ユタありがとうございました」
私は深々頭を下げた。
「其方は礼を言ってばかりだな」
「言い足りないくらいです。本当に…」
私が心細いときに側にいてくれた。
私を二度も助けてくれた。
私が顔をあげるとユタはまた少しだけ笑っていた。
「では、礼を貰おうかの」
「お礼?」
私には何もあげるものなど持っていなかった。
どうしようかと迷っていると、ユタは
「余はあの泉によく来ている。サクラ、もう一度其方も来てくれ。それを其方からの礼として受け取ろう。それ以外は何もいらん」
「……そんなことでいいんですか?」
「あぁ。それがよい」
「…わかりました」
肩透かしのような気分だったが、彼がそれを望むなら。
私は承諾した。
「そうか。では、いずれまた会おう」
そう言い残すと彼は黒馬を蹴り、再び森の奥へと消えていった。