9話『赤道の話』
世の学生は夏休みの真っ只中ゆえ、かおりんも私服で午後のホーエン館にやってきて、沸騰する普通が形容ふさわしき態度で熱弁を振るっているところだ。
「ライヒちゃん、あたしは思うわけよ。真夏は冷たい飲み物だけ摂取して生きていけたらどんなにいいことかってね! 生物は長い年月をかけて環境に適応するよう進化してきた。人間もここらで進化するべきだよ。真夏の間だけ食べ物を摂る必要はなく、仙人が霞を食べるごとくに飲み物だけで生きられるように」
「そんな進化を遂げるようになったら霊長類ヒト科もおしまいね」
ティーカップを淡い唇に傾けつつ淡々と突っ込まれる主人であられるが、吾輩からすれば滅びぬ文明、衰退せぬ種族などは存在せぬ。そしてかおりんは主人の突っ込みを聞く耳などは持たぬ。
「あと、飲み物はノドがかわいたらいつでもどれだけ飲んだっていいの。お腹もふくれないし尿意が近づくこともないし体に悪いこともない」
「あのね。水分を際限なく多量摂取して身体に影響を及ぼさないなんてありえなくて、水分の多量摂取の影響から身体から常に大量の汗が出続けるということになって、その場合身体の熱が汗の蒸発によって奪われるから、対策として身体は大量の脂肪を蓄えるようになり、結果として大汗かきでかつ異常に太りやすい体質になると思うけど。汗が嫌なら、膀胱が異常肥大化して、下腹部が悍ましいほど膨れ上げるか……」
主人がさらに生物学知識を用いて説明されようとなされたが、おお、もはや理解不能の千変万化を生じるかおりんの顔よ!
互いにとって不毛なる一刻であった。それを如実にあらわしたるは、主人の可憐なる吐息。楕円形の薄暗い鏡が捉える美しき横顔は、なんと絵になる憂いに満ちておられることか。
「こんなことを香織に話しても詮無いわね。とにかく、夏は暑いものよ。それをどう調節して体に負荷なく対処するかが人間の知恵というものでしょ」
「いやいや、中央アメリカや中国には常春の地域があるみたいだしー」
「そういう場所には、その土地特有の問題というものがあってね……」
「もうっ! こーんな冷房のきいてる部屋でひきこもってるライヒちゃんが、夏は暑いものだから~、なんて言ったって説得力がないわっ」
主人の言葉を遮り、かおりんが人差し指を突きつける。このようなときは白線の集中効果枠を嵌めて『強いられているんだ!』と言葉を濁すのが通であると以前かおりんが言っていたが、吾輩の視線の先では、主人が僅かに動揺の気を醸されておられた。
「私は――仕事で家にいることが多いから外出時間が少ないだけよ。夕刻はほぼ毎日やってくる香織の話し相手もしてあげているし」
かおりんが、にやりと笑んだ。
「じゃあ今から一時間か二時間くらい散歩しよう。夏の暑さと健康のために!」
山椒魚のスリッパが緋色のカーペットを踏み鳴らす音は、ケンタウロスの吹き鳴らすクラリオンさながら室内に響き渡った。
このような挑発を主人が何故に受けられたかは定かでない。アラベスク模様の旧き肘掛け椅子が小さな重圧を失ったのは確かなことである。
「わかったわ。着替えるから少し待って」
格子状の窓からオレンジの光が浸透しつつある刻限、露草色のオーバーオールと膝上までのタイトスカートをお召しになられた主人が、もっとも偉大な神を探し求めた末に疲労困憊となった旅人の如く、今にも倒れんとする小柄な体躯を、傍らの凡俗娘に肩を貸してもらうことで支えられつつ、ふらふらの足をもつれさせながら帰還めされたのだ。
肘掛け椅子にぐったりと頭と背中をもたせられたる主人に向け、かおりんが団扇で風を送る。グラスにスポーツドリンクを注ぐと、ストローを添えて慎重に手渡した。
「ライヒちゃんだいじょぶー? ごめん、やせ我慢してるの気づかなくって」
「迂闊だったわ……こんなに暑さに体が弱くなっているなんて……」
半透明の液体を一度でちゅうと空にされた主人のオッドアイは、弱々しさならではといえる魅惑的な光に揺らめいておられた。
ここでかおりん、外の自動販売機で買ってきた梨ジュースをぐいと飲んだ。頃合いを見計らい、さりげなく、来客用の椅子に手をかける。
「北半球と南半球を分断している境界線にこのホーエン館が建っていれば、夏と冬をいつでも味わえるのにね」
「つまり、『赤道の話』みたいに?」
丸テーブル上の皿に盛られたビスケットをつまむ香織の手を眺めつつ、主人は反応を返された。華麗なる無駄談議の流れへお乗りになられたのだ。
そら、かおりんが笑顔でフィンガースナップを決めてのけたぞ。
「ということで、スルタンをよろこばせた詩人が宮殿を〈地上の驚異〉と名づけた本当の理由を探ってみよう」
「理由も何も、言葉通りじゃないの」
「いやいや、エルラトドロニオンなんて中二ネームで呼ぶくらいだもん、それっぽい暗喩に違いないわ!」
「英語をカタカナ語で曲解しないでくれるかしら。香織みたいな人間のせいで、一部の日本人にドイツの単語は中二ネームの宝庫とか思われるのよ……」
「ライヒちゃんの母国語はドイツ語だったっけ。まあそれはそれとして、実は〈地上の驚異〉が建つ場所は大阪なの。北と南とは、大阪におけるキタとミナミのことだったわけよ!」
かおりんが考察を挟まずに結論のみ述べたのは、主人の体調を気遣ってのことであろう。それを感じられたか、主人の唇が薄い微笑を結ばれた。
「じゃあ宮殿を出るときにはたこ昌のたこ焼きを買うのが必須というのね」
「おっ、話がわかるじゃないのライヒちゃん。そしてグランシャトーへ、ってね」
たこ昌のたこ焼き、グランシャトー、それは西の大都市においてその名を包含する宣伝歌を知らぬ者はないとされる程の知名度を誇るもののようである。
「さて私の番かしら。そうね……詩人はスルタン抹殺を企む暗殺者だった。〈地上の驚異〉の驚異とは本当は『脅威』のことで、それは赤道に住むサンタクロースを意味しているの。赤道に宮殿を建てたら、境界線を縄張りにしているサンタクロースに蹂躙されるわ。だから詩人は宮殿を作らせるよう提言したのよ。もっとも、あまり素敵に語りすぎたせいでスルタンが話だけで満足する結果になってしまったのが最大の誤算だった」
語り終えた直後、主人は満足そうに瞼をお閉じになり、椅子の背に深く体を沈められた。夕陽に彩られる端正な顔に微かな安らぎの寝息が漏れるのを見てとると、かおりんは近くのシーツをそっと主人の体にかけ、茶器やお菓子を片付け始めた。
テーブルの上が空になると、かおりんはぐるりを見渡し、暖炉の傍へ近づいてくる。
「ねえウンたん。夏場は飲み物だけで生きていけたらいいって言ったけど、冷房のきいた部屋で食べるカレーはおいしいんだよね。それとカキ氷。だからカレーとカキ氷はよしということで」
さらに、あとはサマージャンボが当たってくれたら文句ないんだけどなあ、と呟いた。
吾輩はその俗物具合に感嘆の笑みを浮かべ、次のように締め括るとしよう。
『そしてかおりんは吾輩の御前から去り、新たな夢を見はじめた』