8話『海の秘密』
眩しいほど燦々とした日差しがホーエン館に降りそそいでいた。屋敷を囲む木々から蝉のざわめきが響き渡り、かおりんは、室内に浸透する薄い冷気に涼みながらもなお、凡俗性根逞しき厚顔無恥なる言動を、素晴らしくもふてぶてしき態度であらわしたものだ。
「ふうー、真夏はほんと外が暑くて暑くて。ねえ、冷房薄いよ、なにやってんの!」
「何のアニメかゲームの口真似かは知らないけれど、これ以上室内を冷やす必要はないわ」
「えっ、なんで? ライヒちゃん、節電努力をするよりも友だちの体をいたわろうよ」
「夏休みに入ったばかりなのに、だらけすぎでしょ。冷房が強いのは体によくないから、香織のこともいたわっているつもりだけど」
「もうー、そんな自分の都合で解釈しちゃいけないってば。ほら、ウンたんももっと涼しくしてほしいって言ってるよ?」
調子よく吾輩のほうを顎で指すかおりんだが、生憎と吾輩は健やかなる笑いにて大河すら旱魃せしめる砂漠の獣。体温調節など造作もなきことである。さらに明かすならば、このホーエン館に室内の景観を損なう冷暖房機器など存在せぬ。吾輩が適度に温度調整を施しておるのだが、そんなことは露知らぬ主人とかおりんは、認識操作にてエアコンによるものと思い込んでおる。
「ウンブールが涼を求めている根拠は? 自分の都合で解釈してはいけないわね」
「なるほど、ライヒちゃんの言うことはごもっとも」
ここで吾輩は、少々かおりんという人間を侮っていたことを恥じねばなるまい。これなるはフェイク、会心の一手を打ち出す彼女の誘導であったればこそ!
「じゃあ、海に行こう! こんなこともあろうかと水着持ってきたんだー」
「却下」
主人の却下は一秒とはいかぬまでも、三秒とはかからぬのだ。
「うぇっ! はっ、もしかしてライヒちゃん水着持ってないの?」
「持ってないことはないけれど……不特定多数の人前で水着姿を晒すのは嫌よ」
「よしわかった! それじゃあ水着でパジャマパーティしようっ」
「パジャマパーティ?」
小首をかしげられる主人。その無自覚なる美しい娘の面目躍如にふさわしき仕草たるや、街中で披露しようものなら多くの人間どもが眼を向けるであろう。されどいまはそれについて語るよりも、吾輩も初耳であるパジャマパーティなる単語の意味を拝聴せねばなるまい。なんとなれば、小さき神々の間で流行るかもしれぬゆえに。
「いけないなあ、現役作家がそんなことも知らないなんて。パジャマパーティとは女の子同士が家にお泊まりしてパジャマ姿でうわさ話やお遊びに興じることなの。そして、せっかくだからパジャマのかわりに水着でそれをやろうってことだよ!」
「なにが〈せっかくだから〉なのか、四百字詰原稿用紙二枚に論理的理由を書いてもらおうかしら。制限時間は三十分」
麗しき紅玉と青金石の瞳でかおりんを睨めつけなさるる主人であられたが、一千一秒と続くかに見えたじっとりとした空気を破ったのは――銀鈴のチャイム。
さて、来客のもとへ向かった主人がこの部屋に戻ってくるまでのやりとりを、吾輩は超感覚と聴覚にて鮮明に語るとしよう。
「話は聞かせてもらいました! 僭越ながら私も水着を持参しましたので、三人で幻惑的なめくるめく甘い時間を過ごしましょう」
主人に比肩する美形の令嬢が玄関先でくるりと一回転してのけた。ウェーブのかかった薄灰色の髪の揺れ具合といい、あらゆる点において洗練された角度と優雅な動作である。
黒いシルクの手袋を嵌めた美しい手を引っ掴むと、主人は有無をいわさず招かれざる客を近くの部屋に連れ込まれた。
「うれしいです。まさかライヒ嬢のほうから個室に誘ってくれるなんて……でも、ここからは私が主導権を握らせていただきますよ」
「メサイア。どうしてさっきの私と香織の会話を知っているのか、答えてくれるかしら」
「……答えないといけませんか?」
「じゃあ質問を変えるわ。部屋に盗聴器を仕掛けたわね?」
直球の詰問に一拍の間をおき、メサイアは答えた。――はい、と。
「まえに来たとき、一般では手に入らない最新鋭の盗聴器を仕掛けました」
「はぁ……正直で結構。私の目の前で全部取り外しなさい。そうしたらあなたを交えてやってもいいわよ。イメージを崩さないよう香織には席を外してもらっておいてあげるから」
「さすがライヒ嬢はキュートなうえに慈悲深い。改めて、惚れ直しました」
「わずか十分程度のあいだに水着を用意して駆けつけたことに対する呆れた意気を汲んでやっただけよ」
悪びれもなく灰色の双眸を輝かせるメサイアに、主人はそれはそれは深い溜息を吐かれた。成程、その慈悲はわれらが暁の子に比べれば月の仄かな明かりに過ぎずとも、人間という生き物においては松明三十本分を燈しただけの輝きはあられるに違いない。
複数人で使用することはまずないと主人が思っておられたのは確実であろう、一階の室内プールにて、めいめいが水着姿で饗宴を楽しむ。鮮烈な赤のキャミソール風水着の主人がアールグレイの芳香漂うティーカップを唇に傾け、水色ドット柄セパレート水着のかおりんはチェリーをつまみながら会話に花を咲かせ、メサイアは黒のビキニ姿で高級ワインを惜しげもなく呷る始末だ。
体型に関して人間の解釈に当て嵌めると、主人は歳相応だが繊細で可憐、かおりんは期待を裏切らぬ正真正銘の並加減、メサイアは良質で均整の取れた美しさを有しておる。
プールの端で佇むだけの吾輩は、彼女等のガールズトークを殊更に伝えるつもりはない。そこは人間どもの想像に場を譲るのが筋というものであり、吾輩からは、やがて宴もたけなわに入ったことを述べるまで。
「それじゃあ、海には行けなかったから、ゴルゴンディ・ワインを飲んで逝ったシー・ファンシー号の船乗りビル・スマイルズが語らなかった海の秘密がなんなのか考えてみよう」
そら、ちょうどかおりんがこの場に及んで贅沢な無駄考察の堰を切ったところだ。
「実は漂流船たちは崇拝する大理石の乙女の前で、あたしたちのようにパジャマパーティをやっていたんだよ。よく船は男で港が女なんて例えがあるけど、ところがどっこい、この話における船はみんな花も恥らうロマンチックガール。そして大理石の乙女はいわばリリアン女学園のマリア像みたいなもの。船女だらけの秘密の海園で繰り広げられるガールズトーク……そんな真相を間近に見てしまったら、酒飲みの船乗りビル・スマイルズも口をつぐむしかないってわけよ!」
余程うずうずしておったのだろう。悠久の風が吹き渡り、引いては満ちる潮汐の如くに、大仰なポーズで水を滴らせつつ一気にまくしたてる普通娘を見よ。
「女性人格を有する漂流船たちのかぐわしい秘め事、たしかに地獄と言えるわね」
心地よい空気と水の感触を味わわれながら、主人が自らの手番に移られた。
「漂流船たちは……ツンデレというのかしら、本当は人間どものことが好きなのよ。愛する大理石の乙女に祈った美しい願いは、船が常に船乗りとともにあるように、自分たちのような漂流船が出ないようにというものなの。ところが彼らの女神は、おくびにも出さないけれど妬みの神でね、集まった祈りの力を逆の方向に昇華させて世界の海に影響を与え、自身の崇拝者たる漂流船を増やしているわけ。つまり、皮肉にも人間を想う善意が仇となって仲間を集めてしまっている悲しい真実なのよ」
「うーん、人を想う心が逆に悲劇に繋がっちゃうなんて、ほんと悲しいなあ」
しんみりとした感想を漏らすかおりんを一瞥されたところで、主人はメサイアに参加を促された。しかしメサイアは、空になったワイングラスを蠱惑的な舌でひと舐めすると、至極満悦といった妖しい笑みを浮かべた。
「私はお二人の水着姿を観賞しながらグラン・エシェゾーを味わうという甘美なひとときを堪能しましたので、地獄ではなく天国です」
「……語り手はミルクを馬鹿にしていたけれど、私にはお酒の何がいいのかさっぱりだわ」
「あー、ライヒちゃん前にお酒飲んでそれはもうひどかったもん――もがががっ」
「なんですと? ライヒ嬢がお酒を……? そこ、そこ詳しく!」
激しく興味を示すメサイアであったが、必死に漏洩を阻止せんとする主人の行動の犠牲となったかおりんから答えが返ってくることはなかった。
『じつにはっきり「それ以上いけない」とひとこと水を吐き出して、かおりんは秘密をかかえたまま、永遠に水着パジャマパーティを閉ざした』