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7話『ロンドンの話』


 優雅に颯爽と部屋に入ってきたのは、ウェーブのかかった薄灰色の髪を肩下まで伸ばした娘。齢や背丈はかおりんと同程度だが、容姿は主人と比肩する童顔めいた美形であり、灰色の瞳と気障な顔つきからは自信家然とした態度が溢れる。洒落た鉄紺のケープに山吹色の上衣、首から提げた銀の十字架のペンダントが膨らみのある胸元で揺れ、両手にはシルクの黒い手袋を嵌めておる。そして下部は黒のミニスカートとニーソックスという身なりだ。

「ああ、ライヒ嬢、ようやくお会いできましたね。やはり運命の赤い糸は私と貴女の左手の薬指で繋がっているのです」

 清々しいクイーンズ・イングリッシュでそう語りかけてきた娘に対し、主人は端正な眉根を寄せられ、淡々としたドイツ語で切りかえされた。

「メサイア、どうして私の居所がわかったの?」

「愛です。貴女との愛の絆が私を導いてくれたのです」

 マジシャンの如く取り出した一輪の白百合を構え、効果音とやらが付加されそうな仕草で瞳と白い歯をきらめかせるメサイアという名の娘。主人の不愉快な顔を見よ。

「ああライヒ嬢、怒った顔もとてもキュートです」

 背後に燦々空間を発生させ、一目散に主人へ駆け寄るメサイア。しかし、懸命なる主人はその熱い抱擁をさらりとかわし、露骨に素っ気ない態度をとられた。

「気持ち悪いから抱きつこうとしないでくれる?」

「えー、せっかく感動の再会だというのに、その言い方はあんまりです」

「もう一度聞くけど、どうして、私の居所がわかったの?」

「……答えないといけませんか?」

「あの~、できれば日本語で会話してくれないとちんぷんかんぷんなんですけどー」

 先刻から蚊帳の外で鳶色の双眸を丸くさせていたかおりんが自身の存在を示す。彼女のような人間からすれば、自我同一性の問題にも関わる由々しき事態であろう。そしてメサイアは、今まさに、初めて第三者がいることに気がついたようだ。

「ライヒ嬢、こちらのお嬢さんは?」

「夢水月香織。私の……余暇の話し相手よ」

 メサイアは興味深げにかおりんを眺めた。貴族が平民の娘を品定めする眼差しであるが、やがて、人当たりのよい微笑を向けた。及第点といったところであろう。

「初めまして、香織さん。私はメサイア。ライヒ嬢の永遠の恋人です」

「あ、えと、どーも、夢水月香織です。かおりんって呼んでください」

 気品ある妖しい美貌による気さくな笑顔と、銀月のハーモニーが奏でる日本語に、かおりんはたちまち魅了された。永遠の恋人というくだりは頭に入らなかったようだが、愛称をアピールするのを忘れずにいたのは見事だ。褒めてやらねば。

「メサイアさんって、ライヒちゃんと同じくらいきれいで日本語も上手ですねっ! それにライヒちゃんとちがって言葉づかいもすっごく上品ですし!」

「聞き捨てならないわね香織、私は相手によって口調を使い分けてるだけよ」

「またまたご冗談を。ライヒちゃんのお上品な話し方なんて聞いたことないしー」

「蹴るわよ?」

「……香織さんはライヒ嬢とずいぶん仲がよろしいようで。少し妬いてしまいます」

 主人とかおりんの日常会話は、メサイアをひどく呆気にとらせたようである。

「まあ私は足蹴にされるような受けより攻めのほうが好きですけれど。つまりライヒ嬢を愛撫で快楽の渦に呑みこんでヒィヒィよがらせ――」

「メサイア、本性が出てるわよ?」

 まさに視姦と形容するに相応しき、みだらな妄想を恍惚と語らんとする寸前であったが、主人の冷静な指摘を受け、咳払いひとつ、流れるように瞳を泳がせた。

「ところでお二人はティータイムの最中でしたか」

「いつもお茶とお菓子を楽しみながらダンセイニ作品の考察談議してるんです。よかったらメサイアさんも参加します? さっきあたしの考察が終わったところで、次はライヒちゃんの番なんですけど」

「興味深いですね。では、お誘いに応じて同席させてもらいましょう」

 主人が何か言われる前にメサイアは動き、部屋の隅に並べてある来客用の椅子を手にして戻ってくると、さも当然といわんばかりに席についた。ちょうど間をとった位置ゆえ、主人はお咎めせず、溜息ひとつ、談議に移られた。

「ハシッシュ吸引者が語ったロンドンのことだけど、あれは鏡の屈折なのよ。ハシッシュの効果によりその魂は人工衛星の反射を通して歪んだロンドンを見ている。不細工な人や太った人が特殊な鏡に映ると綺麗になったり痩せて見えたりするやつがあるでしょ。黙示録の大バビロンがエデンの園に錯覚して見えるわけ。だけど角度によっては本当の姿が映ってしまうから、うっかりそれを口にしてスルタンの機嫌を悪くしてしまうの」

 そして、少し悪びれた風にメサイアを見られ、こういわれた。

「ごめんなさい。ロンドン生まれのあなたの前で大バビロン形容してしまったわね」

 好ましくない相手に対しても、謝意を表する心をお持ちの主人であられる。

「いえいえ、おおいに結構です。なぜなら大バビロンは人類の栄華の証にして、大いなる誘惑者ですから。そして――人を誘惑できないような者は、人を救うこともできません」

 メサイアのこの表情。邪笑と受け取る人間もいるであろうが、なかなかどうして愉快ではないか。人間どものいう悪人面に終始せぬところが面白い。

「ライヒちゃんは時々あたしのこと誘惑してくるんですよー」

「そこ詳しく」

 真顔で身を乗り出すメサイアであったが、主人がかおりんをにらみつけて黙らせた。メサイアは残念そうに菓子皿のマカロンをつまんだ。

「それでは私の考察とまいりましょう。ハシッシュ吸引者が語ったロンドンの美しさは虚構ではないのですよ。いいえ、彼の見た時のロンドンこそが確実に美しいのです。なぜなら女性は見られるのを意識することで最大限に自分を美しく磨くからです」

「都市が意思を持っていて、かつ女だというのね」

「吸引者が見たとき、ロンドンは自身をこのうえなく輝かせていました。あまりにも烈しい美の煌めきのため、急速に朽ちてゆくのを維持するのは必死で……これ以上の言葉は必要ないでしょう、失われるものはすべて美しいのですから」

「うわあ、なんかロマンチックっていうか、うっとりするような儚さがありますね」

 目を輝かせて感心するかおりんに、メサイアはご満悦の笑みを浮かべる。格子状の窓の向こうでは夕焼けと浮雲が挨拶を交わしていた。

「ご拝聴ありがとうございました。ちなみに、『生きろ、そなたは美しい』の対義語は、『死ね、ブス』なんですよ。内面が醜くても外見が綺麗ならどうとでも染め甲斐がありますが、いくら内面が綺麗でも外見が醜いものはどうしようもないのです」

「気が済んだらさっさと帰ってくれるかしら?」

 いくら内面が~、のところで、気が済んだら~、が重なり、かおりんはメサイアの言葉の終わりを聞かずじまいであった。主人が双方に気を遣われたのだ。

「つれないですねえ……そこがライヒ嬢の魅力でもあるのですけど」

 メサイアはやれやれと首を振り、そして――その灰色の瞳が吾輩を捉えた。彼女が吾輩の存在を知覚し、認識し、怪訝と眉を寄せる。

「なんですか、この爬虫類じみた不思議な生物は。こんなの、さっきまでいなかったはずですけど」

「日本に来る前に海外で見つけた私のペットで、名前はウンブール。さっきからずっと暖炉の傍にいるわよ? まったく、相変わらず女性以外は眼中にないんだから」

 主人の言葉を聞いても納得がいかぬ様子で、メサイアは困惑の眼差しを吾輩に注いだ。そこで、地神の叛乱に対処したときの如く吾輩が笑ってやると、彼女はぎょっとして腰を引いた。うむ、いい顔をしておる。

 自らの沽券に関わると思ったか、メサイアはすぐさま自信と気品と傲慢さを取り戻して主人とかおりんの方を向くと、白百合を唇に添えて笑んだ。

「ふふ、今日のところは愛に満ちた麗しき再会と素敵な時間を過ごせたことで満足しておきましょう。それでは、ライヒ嬢、香織さん、ごきげんよう」

 退室せんと歩を進めるメサイアであったが、暖炉の傍を過ぎるとき、僅かに早足となったのを吾輩は見逃さなかった。

 やがて室内が夕暮れの静寂に覆われ、かおりんがいった。

「きれいで上品なうえにノリもいいすてきな人だったね~。ライヒちゃんの友達?」

「誰が。ただの知り合いよ。彼女の父親はイギリスの中央官僚で、私の両親と交友があったから、それを通して知り合ってしまったの」

「そっかあ……また会えるといいなあ」

「言っておくけど、外面に騙されるとろくなことにならないわよ」

 主人の複雑そうな心情をどう汲み取ればよいのかはわからぬが、状況をあらわすのは簡単である。

『ホーエン館のいつもの部屋の、凡俗なるかおりんには、ロンドンに住まう救世主の名を持つ誘惑者に対する羨望の気持ちが残った』



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