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6話『ロマの掠奪』


 今日の主人はすこぶる機嫌がよい。その証拠が先刻から途絶えぬ独り言に他ならぬ。

「まったく、年に数回しか実家に帰ってこないうえにろくに一人娘の相手もしようとしないくせに、どういう風の吹き回しかしらね。私が日本で一人暮らしを始めて半年も経つものだから、ご機嫌取りでもしようって魂胆が透けて見えるわ。普段は電話ひとつよこさないくせに」

 どうやら今夜、主人の両親が来日し、このホーエン館で一泊する予定のようだ。腕組みをされ、さも不愉快そうにまくしたてられる主人だが、その態度に冷めた様子は感じられず、むしろ何かと理由をつけて不満を装っておられるように見える。

「まあせっかくだから、夕食の準備はしておくけど。ふたりの好物を作ってやったら驚くでしょうね。向こうは娘の好きな食べ物なんて忘れているだろうけど、こちらは親の好物をちゃんと憶えているのよ」


 やがて空が燃え盛る焔に飲まれる頃、夕食の支度を終えられ、鼻歌交じりで手をお休めになる主人。その心境は次のようなものであろうか。

 あとはゆっくりと両親が来るのを待つだけだ。なにしろ直に顔をあわせるのは久しぶりなので、向こうには話したいことが山ほどあるに違いない。仕方ないからこちらもじっくりと付き合ってやろう。ああ早く時間が過ぎないだろうか。

「永遠では短すぎる、一秒では長すぎる――って、こういうことを言うのかしら」

 その呟きは矛盾されておる。と思ったときである、『エリーゼのために』が鳴ったのは。

 しかし、通話は一分で事足りた。我輩の聴覚によると、電話の相手はパステルツェ家当主の秘書であり、「急な仕事で無理になった。次は半年後くらいになる」という簡素きわまりない両親からの言付けであった。

 携帯を壁に叩きつけそうになる主人は、必死に自制され、この国でもっとも見慣れた番号へ繊細な指先をすべらされた。


「うわあ、おいしかった! い、いいの? こんな豪勢な夕食をご馳走してもらって」

 世界の至福は我にありといわんばかりの安っぽい陳腐な満面の笑みを浮かべ、かおりんが凡俗なる〈余は満足じゃ姿勢〉をとる。

「ちょっと作りすぎてしまってね。だから香織にも食べてもらおうと思っただけよ」

「いやー、しかしライヒちゃんこんなに料理できたんだー」

「実家にいたとき、よく暇つぶしに専属シェフに料理を教えてもらっていたから」

「すごいなー、あこがれちゃうなー、尊敬しちゃうなー」

 ブロントの語を発しつつも、かおりんは茶化そうとしなかった。主人が初めてお菓子作りを披露されたとき、食べてもらう相手もいないのにさびしいねーとからかい、しこたま逆鱗に触れてしまったことがあるからだ。苦い経験は普通の人間を戒めるものなのだ。

「ところで、今日はいつもの、どうする?」

「悪いけど気分じゃないわ。でも香織に何か話したい題目があるなら、食後のリラックスがてらに拝聴させてもらうけど」

「わかった。じゃあ、ロマの掠奪品を抱えて帰路に着いたインディアンたちに効果を発揮した呪いと末路について、あたしの考えを話すわね。こほん、まず、ロマの神官が掠奪品にこっそりまぎれこませたタイムカウント呪いの正体だけど、それは神罰砲パニッシャーなのよ。これは御神体を発射する効果があるんだけど、人間なら直撃食らっただけで普通に死ねるし、迎撃しても御神体に抗おうとする行為による神罰で死ねるという反則技」

 主人の紅蒼妖眼による睨めつけもなんのその、かおりんはにやりと笑んだ。かくも無意味に。

「また何かのアニメかゲームだと思った? 残念! スペオペ漫画でしたー!」

「なんでもいいけど、結局それで四人の掠奪者たちは死んだというのね」

「ところがちがうんだなー。彼らは呪いを打ち破ったの」

「でも、村で女たちがいくら待っても、四人の長身の男が帰ってこなかったのは確かよ」

「神罰砲に唯一対処できるのは、真実の愛! 実は、四人のインディアンは呪いが発動したそのとき、真のキリスト教徒に回心したのよ!」

「えっ」

「そして、信仰による愛が呪いを破った。だけどキリスト教に改宗した彼らはもう村には戻れない。だからそのまま隠遁して、自分たちの行為の罪を償いながら、ひっそりと修道生活を送ることになったってわけ。めでたしめでたし」

「まったく、いつもながら貴方の考察ときたら……」

 主人の苦笑は、どこかある種の心地よさを湛えていた。思うに、かおりんは主人の機嫌の微妙な加減を敏感に感じ取り、わざと愉快な論理にもっていったのではなかろうか。

 主人は両親のために用意しておいた極上のワインに眼を向けられた。

「キリスト教徒つながりで、葡萄酒があるけれど、一緒に飲む?」

「おっ、なんか高そうなワイン。もちろん、いいよいいよー!」

「まず私が献酌官として味見するから、少し待って」

「えー、アンシャントロマンの買い物キャンセル時の口調でケチって言っちゃうぞー」

「よくわからないけど、とても心外だわ」

 献酌官とは古代エジプトにおいて、王に供する葡萄酒の選択や毒見、護衛や政策相談をする有能な高官のことである。毒見を伴う役職ゆえ、政情不安定の時期などは在職期間が極端に縮まる命がけの責務である。

 つまり、主人はかおりんに敬意を払われたのだが、その理解を夢水月香織という人間に求めるのは酷というものであろう。

「ところで私はお酒を飲むのは生まれて初めてだけれど、ちょうどいい機会ね」

 主人はグラスに菖蒲色の液体を注がれると、優雅に口へ傾けられた。惨劇は起こるべくして起こる。

「ふぅ……頭がくらくらして、おいしいー」

「……うげ、ライヒちゃん顔まっかっかだけど……だいじょぶ?」

「まかせて! 私は生命のパンである?」

 ぐでんぐでんと形容する俗語に相応しいほどに泥酔され、支離滅裂なることをのたまわれる始末であった。

「クレタの女は嘘つきだって、クレタから来たあの娘がそう言うのよ? わかるかな? 数論の無矛盾な公理系は必ず決定不能な命題を含むのだ。これが自己言及のうらめしさというやつで……こら、かおりん、聞いているかね?」

「聞いてるけど……うう、こんな状態でかおりんと呼ばれてもうれしくなーい」

「よろしい! そう、人は誰でも自分が物語なのであって、自分の話の主役は自分であるから、世界は自分を中心に回っているという考え方は実は正しいのである」

 千鳥足をこじらせた主人は、ソファにごろりと横になられた。夢見心地でまだ何か囀りつづけておられたが、その声はだんだん遠く、か細いフルートのごとく低くなってゆき、すやすやという寝息が訪れたのである。

 気のいいかおりんは、近くのシーツを主人の体にかけてやった。携帯を取り出すと、家族に友達の家で一泊することを告げ、それから……彼女らしい行動に移った。


 雀の鳴き声が響き渡る。そっと眼を覚まされた主人は、きょとんとソファから上体を起こされた。

「あれ……なんで私こんなところで……あっ、痛っ、いだだだ! えっ、なに、なにこれ?」

 未経験の頭痛に襲われ、涙目で困惑されているところへ、かおりんが「太陽sunとおはよう!」と挨拶して部屋に入ってきた。昨夜は客室のベッドでぐっすり眠ったのであろう。

「ライヒちゃん、それたぶん二日酔いなんじゃないかなー」

「ふつかよい……? なんで、どうして私が」

「ライヒちゃんは昨日、ぶどう酒を一口して酔っ払ったの。それはもう、こう酔っ払っちゃ、神様もへったくれもありゃしない、こうなりゃどうしようもないってくらいの有様だったよ」

「え、ええぇぇ~」

 かおりんの言葉を聞いていくうち、彼女の前でみっともない醜態をさらしたということの恥ずかしさと、ずきずきする頭の痛みに、主人は今にも泣きそうであった。

「あっ、ライヒちゃんのかわいくて妖しい寝姿は携帯で写真にとっておいたから」

「なんですって……あっ、いた、頭痛がいたたっ」

 かおりんを糾弾することを諦めた主人は、頭痛薬代わりに濃い目のコーヒーを飲まれ、昼まで寝直す羽目になった。吾輩の知るところ、こういう次第なのだ。

『彼女が知らなかった自らの下戸が招いた二日酔いが、ホーエン館の一夜から明けたもの寂しい室内で効力を発したからである』



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