5話『ケンタウロスの花嫁』
「どうだ、驚いたかライヒちゃん!」
それが、留守番をしていたかおりんの第一声であった。
出版社に赴いて所用を済ませ、たったいま帰宅なされたばかりの主人は、何が何やらわからぬという顔をされるが、それは無理もないこと。吾輩は白の燕尾服を着せられ、首には真紅の蝶ネクタイが飾りつけられておるのだから。
眩暈に見舞われたかのようによろめかれ、橙色の壁に小さき身体を預けられたる主人の可憐なる動揺具合を見よ。
「いや……いや、いや、いや、ちょっと、なに。落ち着いて私……いま自分の感じている感情は、そう、呆れているのよ」
「その様子だとこの所業を予測してなかったみたいね? ふふふ、まえにあたしがフラグを立てていたというのにっ」
「え、ああ……そういえばウンブールの寸法を測っていたことがあったわね。あれ、伏線だったの」
予想外の事態、想定外の出来事には滅法弱い主人なれども、徐々に普段の冷静さと分析力を取り戻される。吾輩がおとなしくしておるのを理解なされた故に。かおりんの戯れ程度などに吾輩が抵抗しておらぬことを悟られたが故に。
そして主人は吾輩の衣装を指さされた。
「それで、この、つぎはぎだらけのタキシードは、香織の手作りと」
「いやあ、お母さんに裁縫を教えてもらったけど、あたし不器用だから苦労したわよー。でもライヒちゃんをこれだけ驚かすことができたから、その甲斐はあったわね」
暖炉のある洋室で、あっはっはっと馬鹿笑いするかおりんと、哀れなものを見下すような主人。中世にて吟遊詩人が歌い、伝記作家が書き伝え、宗教画家が後世に残す絵画に相応しき光景である。
「正直、動物に服を着せて楽しむなんて行為、私としてはありえないのだけれど……」
「あたし的にはアリなんだけどなー、シャレとして」
「そのシャレの意味合いが、冗談かお洒落かによって、少し言わせてもらうことになるわ」
「やだなあ、もちろんジョークのほうにきまってるじゃん」
「ならよかった。で、どうして着せる服にタキシードを選んだのかしら?」
素朴な問いに、かおりんが一呼吸おいて、真剣な眼差しで主人を見据える。夢水月香織という名の娘が溜めを意識する以上、くだらぬ流れにならぬはずはない。
「それは、ある、晴れた日のこと……」
「長い。答えだけ言って」
「ちょお、出だしだけで長いと断定ですかー!」
「違うの? もし違ったなら土下座して謝って全財産を香織に差し上げるけど」
「う、ぐっ。はいはいはい、確かに長くするつもりでしたよーだ」
さもありなん。ここで素直に白状するところが、彼女の普通なる魅力だ。
「街角のショーケースでウェディングドレスを見て、いいなあ、あこがれちゃうなー、って思ったわけよ。それでちょっとウンたんにタキシードを着せたら格好いいんじゃないかと、あたしのゴーストがささやいて」
「その気持ちは理解できないけれど、ケンタウロスの花嫁の気持ちは気になるところね」
「おっ、そうきたかー。じゃあ、どうしてシェパラルクはソンベレーネを攫っておきながら、彼女の僕になることになったのかを考えてみよう」
かくて二人は席につき、上等の紅茶と洋菓子を肴にいつもの談議を始める。吾輩は暖炉の傍の特等席だが、今日は礼服を着ておるゆえ、それとなく背筋など伸ばしておこう。このようなさりげなき仕草も盟友ムングの獣ならでは。
「これは実にあたし向けのお題目だわ。簡単なことよ、シェパラルクは典型的な中二病ケンタウロスだったってこと」
「中二病ケンタウロスって、なんだか色々と台無しな語感ね……」
中二病とは、主に若者特有の発想や嗜好、自意識過剰などが極端に発露した状態を揶揄する言葉で、こじらせると現実と向こう側の境界が本人の脳内であやふやになる難病を指すようだ。二次元文化に浸透している者が発症すると、邪気眼という精神疾患の一種を併発するようであるが、残念ながら吾輩はまだお目にかかったことはない。
「考えてもみて。かつて神々との戦で神々を追い詰めたケンタウロスたち。シェパラルクは、その際に嚠喨と響き渡ったという名高い銀の角笛を持つ一族の子。そして家を飛び出して叫んだセリフが『おれはいまこそ一人前のケンタウロスとなるのだ!』とくれば、もうどこからどう見ても中二病全開でしょ。そりゃあ母親も溜息をつきたくなるってもんよ」
「ところで香織、嚠喨って単語の意味をわかってる?」
「えっ? えーっと……言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい、ってことでしょ。文脈からして」
「ああ、私が悪かったわ。どうぞ続けて」
「うぐぐ! いいわよもう、続けるから、豆腐の頭をかっぽじってよく聞きなさい」
嚠喨とは、楽器や音が澄んでよく響くさまをあらわす言葉であるが、もしかおりんが豆腐の頭をほじくるという比喩を当て嵌めているのだとしたら――いや、彼女の凡俗さを損ねるような愉快ならぬ思考は伏せ、続きを拝聴するとしよう。
「中二病の若い男は無駄に面食いだから、魅力的な女をゲットしたいと思ってる。だけど実際にゲットしても、付き合い方や扱い方なんてわからない。とりあえず女が自分のものになったという満足感さえ維持できれば、それ以外のことは相手のなすがままのほうが楽。だからシェパラルクはそれからの長い歳月をソンベレーネの僕として過ごすことにしたわけよ」
「ふむ。なかなか言い得て妙ではあるわね」
「ふふん。それじゃ、ライヒちゃん、どーぞ」
「人よりもなお伝説に近いケンタウロス……それは、地球意識の投影なのよ。神々もまた太古の地球自身の投影。だからこそ、人の都の人間たちは、ケンタウロスが通りかかるのを見て、ひとり残らずふるえあがるの」
「日本語でおk」
「日本語で喋っているわよ。続けるから、豆腐の角に奥歯を突っ込んでよく聞きなさい。ケンタウロスが通りかかるのを見た人々が、戦の予感におびえて人の行く末を案じるのは、自分たちが自然を離れて地球意識に見放される未来を漠然と感じとっているからなの。そして、ケンタウロスのシェパラルクと、ケンタウロスと神の血を半々受け継ぐソンベレーネが結ばれることは、地球の内奥〈原初世界〉からの放射によって人間たちの心を大自然に回帰させようとする地球自身の意思だったというわけ」
「うーん、よくわからないけど、つまり、『地球「それも私だ」』って感じ?」
「私にはそのたとえのほうがよくわからないけれど」
そのとき、格子状の窓から落日の挨拶が漏れ、見る間に部屋を茜色に染めあげた。どちらからともなく席を立った二者の影法師が、古風な絨毯の上を鮮やかに伸びる。
暫し主人の横顔を眺めた後、かおりんは、ぽんと手を打った。
「今日はイタズラ心でウンたんに着せ替えごっこしちゃってごめんね。今度はライヒちゃんで着せ替えしたいかも」
「さわやかな顔でろくでもないこと言わないでくれるかしら」
「だってライヒちゃん、きれいだし。あたしが男だったら、このホーエン館に乗り込んで、ライヒちゃんをかっさらって自分のものにしたいと思うってば!」
両手をわきわきと動かし、にじり寄るかおりん。反射的に数歩後退する主人。だが、自らの威信に関わることであるのに気づかれたのか、お澄まし顔で淡々といわれた。
「じゃあ、私の髪をつかんで引っ張っていけるとでも?」
ミステリアスなオッドアイを際立たせる美しい顔立ちをした十歳の少女の、嫣然ともいえる挑発的な微笑である。妙な興奮状態に駆られたかおりんは、主人のなめらかなダークブラウンの長い髪を掴むと、その綺麗さに惑わされたまま引き寄せた。
「いたっ、いたたっ! ちょ、なにするのよ!? こ、この……ケールト・オイヒ、トロットル!」
無自覚な魅了が招いた結果とは露知らず、またも動揺めされた主人は、ドイツ語で「向こうを向け、バカ!」といわれ……かおりんの膝を蹴った。
「あいたーっ!」
吾輩は、芸術的な感動すらおぼえるこの光景を、次のように締め括ろう。
『主人は髪をつかまれながら、親代の昔よりパステルツェ家に伝わる愛蔵の靴で、かおりんの膝を三度蹴った。それが友愛の鐘だった』