3話「ボンバシャーナの戦利品」
如何様にして二者が外へと出ることになったにせよ、いつもの場所でなければ明日使えぬ無駄知識たゆたう時の刻みを堪能することはできぬということだ。ゆえに、つまらぬ心の贅を潤わせる談議は路傍に追いやられ、上品な砂糖菓子の如く控えめになってしまう――そのことを肝に銘じておかねば菓子の代わりに肩透かしを喰らうであろう。
うららかな日曜の朝。ホーエン館の客室では、主人とかおりんがテーブルに向かい合わせで座しておった。俗人と違い、毎日異なる衣服を着用などせぬ主人はいつもの服装であるが、かおりんはいつもの学生服にあらず、私服――白と黒を基調とした限りなく凡庸な上衣にミニスカートと黒タイツ――だ。テーブルには幾多の勉学書物が積まれ、かおりんが頭を悩ませておる。
「えーと、ローマ帝国の第四代皇帝であるネロはローマ史上最大の暴君と呼ばれたが、反乱による反乱で処刑……」
「違う。ネロは第五代皇帝よ。あと処刑じゃなくて、ローマを脱出したあとに自殺したの」
「そうなんだ……ううー、なんで十歳の女の子に勉強を教えられてるんだろ、あたし」
「昨日あれだけ啖呵切って人の申し出を断っておきながら、一晩がんばったけどやっぱり無理だったよ~って泣きついてきたのは香織でしょ」
「あーもう、嫌味ったらしい! まえにあたしの家に連れて行ったとき、お父さんとお母さんの前じゃ礼儀正しくしてたのにーっ」
「なに、香織は私に敬語で話しかけられてほしいの?」
「いやそれは勘弁。ライヒちゃんに敬語で話しかけられたら鳥肌が立ちそう」
「でしょ? じゃあ歴史はその辺にして、次は英語ね」
「ええー、あたし英語は苦手なんだけどなぁ」
「あのね……誰のために時間割いてやってると思っているのよ」
暫しかおりんの凡俗さを愉しんでおったのだが、さも辟易とした顔をなさる主人の声音に、常人には感づかれぬ程度の微々たる嬉の響きを聴き取り、吾輩は笑んで息を吐いた。
「ああー、疲れたぁ。そろそろ休憩にしよー。うん休憩。ありがとう休憩」
「まだ一時間半しか経ってないけど……その様子じゃ限界のようね。まあ、香織にしては頑張った方だし、休憩を挟むのも大事ね」
「じゃあ、せっかくだし外で何か食べようよ。最近新しいデパートができたからそこでっ」
「何がじゃあなのかは問わないとして、その提案は悪くないわね」
デパートへ行くのならと、主人は凡庸性に溢れた衣服に着替えるため部屋を出た。その間、かおりんは目ざとく吾輩に近寄りしゃがみ込むと、一部の人間どもが楽しむ二次元嗜好や電脳遊戯のことについて語り始めた。この見下げ果てた愉快な講釈が、来る日も来る日も行われるものだから、吾輩は多少なりとも俗物の極地といえる知識を得たものである。
するうちドアが開き、かおりんの背後より主人の声が降ってきた。
「香織、いつものことだけど、ウンブールにおかしなこと教えないでくれるかしら」
「だってライヒちゃん、アニメやゲームの話題にはのってくれないし。それに、ウンたんは黙って聞いてくれるし、ときたま頷いてくれるんだよ!」
「人間は動物に対して都合のいい解釈をしたがるものよね」
「世界は解釈でできているってニーチェが言ってたぞー。って、おぉ……」
振り向いたかおりんが眼をしばたたかせる。主人は、露草色のオーバーオールと膝上までのタイトスカート、ノースリーブの真白きキャミソール風ブラウスという出で立ちであられた。変わらぬのは、頭を飾る大きなコバルトブルーのリボンのみ。
「やっぱり、だいぶ印象変わるわねー。その格好のほうが歳相応に見える」
「どんな服を着ても私が十歳の少女ということに変わりはないでしょ」
「いやいやいや、ライヒちゃん綺麗だもん。マジで美少女だし」
然り! 主人は無自覚なれども、その容貌は類人猿の美的感覚に照らし合わせるならば、紛れもなく美形の範疇に入るのだ。
「よくわからないけど……私、外見にはあまりこだわらないから」
「あのー、それ、あたしだからいいけど、相手によってはブチギレされるわよー」
じっとりとした眼差しで呆れるかおりんをよそに、主人は吾輩を愛玩動物用の籠へ促さられた。吾輩が大人しく従うのを眺めていたかおりんが、今更という他なき疑問を発する。
「ところで、ウンたんが何の動物なのかは、ライヒちゃんもわからないんだったっけ。それでよく日本に来るとき税関にひっかからなかったね」
「親が手をまわしてくれてね……法律には触れてないわ」
両親のことを口になさるとき、主人は大概気を損なわれる。それをわかっておるから、かおりんは理由を聞かず、沈黙を由とする。普通で平凡なる娘だからこそ、踏み込まぬのだ。
なお、かおりんの言うとおり、主人も吾輩を世の人間どもの動物学に当て嵌めることはできぬ。そもそも主人は何処の砂漠で吾輩と邂逅されたか、憶えてはおられぬのだから。
ふたりの娘が商業建築物に赴き散々に気を晴らした光景など詮無いこと。矢の様に時は過ぎた。午後の飲食店でくつろぐ主人とかおりんを見るがよい、すっかりと昼餉を満喫し、いまやデザートに手をつけておるのがわかるだろう。
人間は自らの愉しみと利便を追及する生物といわれておるが、人間の知恵の結晶は料理であると吾輩は考える。彼らが自信満々に謳歌する機械や科学などは、文明の燦然たる光輝において料理の足下にも及ばぬ。
「こうしてデパートで戦利品を獲得したわけだけど、ここで、シャード船長が獲たボンバシャーナの〈南の女王〉がなんで終始むっつりして不機嫌なのか考えてみよう」
「いいけど、長々と話をしても店に迷惑だし、私がアイスを食べ終わるまでに述べてね」
「うぇーい。一見してホームシックが原因のように思えるけど、ところがどっこい、実は女王は海賊と軍のどっちが勝つかでゲームをしていて、軍が勝つほうに賭けてたの。だから海賊が島の上で安泰になって、それからもやりたい放題やって負け知らずだから、ずっと不機嫌ってワケ」
「ふうん、相変わらず無茶があるけど、それでも香織にしてはまっとうな考察ね」
「急かすからでしょーが。それでライヒちゃんはどうなの。あたしがジュースを飲みおわるまでにどーぞ」
すると主人はこう言われた。
「シャード船長がインポテンツにかかって女王を喜ばすことができないから」
かおりんが蜜柑色の液体を口から噴出させたのは見物だ。
「ジュースを吹き出さないでくれる? 最低限のマナーはわきまえて」
「いやー、あのー、ライヒちゃん……昨日に続いて下ネタとかちょっと」
「勃起障害は立派な病気よ。女王が妙齢の美しい女だということを考えると、不機嫌になるのは理にかなってると思うけど」
主人は真顔である。かおりんに二の句は継げず、これ以上何を語ることがあろう?
帰り道、穏やかな風にそよぐダークブラウンの髪に繊手を添え、櫛で梳くのも限界だからそろそろ理髪店で整えたいと主人が漏らされるや、かおりんがドヤ顔――なんと天晴な俗語であることか――で言った。
「あたし、いい床屋を知ってるわよ」
「できれば美容院を利用したいところね」
「床屋を馬鹿にするなーっ」
「香織はおかっぱだからいいだろうけど……」
「おかっぱを馬鹿にするなーっ」
二度も理不尽に怒られた主人の困惑あそばされる様子は、次の如き不満げな心境を想起させるに十分なものであった。
『香織の性質をもっと知っていたらよかったのだけど』