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2話『スフィンクスの館』


 土曜の午後、普通なるかおりんは、いつもの時間を遅くに過ぎてホーエン館にやってきた。やんごとなき事情があったのだと彼女は言う。それが如何なる凡俗なる理由であるものか、主人は敢えて問い質そうとはされず、片手間仕事でありながらも決して無視できぬ収入源となっておる――本人はそう思っている――添削作業の手をお休めになられた。

 かおりんのまなこが、何処にでもある羨望の矢を以て、今しがた閉じられたる主人のノートパソコンや本棚の資料を射抜く。

「ライヒちゃんはいいよね、その歳で頭がよくて作家だし、学校で授業を受けなくていいんだから」

「香織は学校が嫌いなのかしら? ううん、勉強が嫌いなのね」

「学生生活は楽しいよ。でも勉強がなかったら、もっと楽しいと思う。そしてライヒちゃんとこうして会ってお話するのもすごく楽しい」

「それはどうも」

 淡々とお答えあそばれつつ紅茶とお菓子を用意なさるる主人の手が、微かにふるえられたのを、吾輩は見逃さなかった。これなるは悦びのふるえである。かおりんの無自覚な親愛力が、遙か遠く近い唄のように主人を捉えて離さぬのだ。

「今日はね、このホーエン館が、スフィンクスの館に思えるんだー」

 席について早速クッキーを手につけながら、かおりんは贅沢なる無意味談議の口火を切った。吾輩はのそのそと特等席に移動し、暖炉の温かみを感じながら耳を傾ける。

「あたしが思うに、スフィンクスの館を覆う外の森は、それ自体が広大な学校なの。そして語り手は森の生徒の一人ってわけ」

「ふうん、森全体が〈影の谷〉みたいなものということね。森が学校だとして、そこの通学生である語り手がどうして森から逃れるように館へやってきたのかしら。それにスフィンクスは何者?」

「語り手はその日おこなわれたテストで赤点を取ったから、補習を受けるのが嫌で逃げ出そうとしている最中なの」

「成程、香織は今日テストで酷い点を取って、あまつさえ補習をさぼって下校したのね」

「あ、あたしのことはどうでもいいからっ!」

 真っ赤になり激高するも、ティーカップはそっと受け皿に置くかおりん。ときに感情の勢いに任せて紅茶をこぼし、何度も主人に窘められたのが効いているようであるのは、そら、ほほえましいではないか。

「あたし、ちゃんと補習受けたよー。今日土曜なのに来るの遅かったでしょ」

「嘆かわしいやんごとなき事情ね。それで、考察の続きは?」

「えーと、どこまで話したっけ……そうそう、扉を抑えて恐怖を感じている先客三人は、赤点をとりまくって落第確定が決まったおちこぼれで、スフィンクスの館にやってこようとするのは落第宣告官なの。そしてスフィンクスだけど、彼女の名前は持田房子(42)と考えれば納得いくわ。世紀末フゥー!」

「持田房子?」

「あれ、知らない? ぐだぐだアニメの」

「私がアニメとか見ないの知っているでしょ」

「あー、そうだったね……ダメじゃん」

 おお、この神妙ならざる微妙な空気よ。

 主人は唯一なる友の態度に呆れた溜息をお漏らしになったが、それも夢水月香織という少女の味だと思い直され、御自身の手番に入られた。

「私はスフィンクスが女だということに注目するわ。つまり、実は、スフィンクスはオカマなのよ」

「えっ」

「盲点だったでしょ。そしてスフィンクスの館はノンケでも構わず食ってしまうカマ掘りバーなの。覆いがかけられているのは普通のバーだと思って入店して従業員達にカマを掘られた男性客。語り手はノンケ。扉を抑えている三人は従業員で……って、なによその顔」

 その顔――鳩が豆鉄砲をたらふく喰らうとは今のかおりんの如きをいうのであろう。凡俗なるがゆえに主人の尋常ならぬ考察に茫然とするとは、哀れなるかな。だが吾輩はそんな哀れなかおりんのことを、主人のそれとは違う意味で、いたく気に入っておるのだ。

「いやー、ライヒちゃんの口からそんな言葉が矢継ぎ早に飛び出すなんて、さすがのあたしもドン引きだわー」

「こ、考察だからいいのよ。それに現実のほうがアニメよりましでしょ!」

 これは世界の涯まで響き渡り、永久に奈落へ落ちてゆく名言である。

「とにかく、語り手は女相手の違法バーの常連だったから、警察に目を付けられるのを恐れているの。それで入った店がカマ堀りバーだったわけ。ところがこの店は警察の強行捜索を受ける寸前で、従業員達がやけになっているのは、このままじゃ逮捕されてしまうけどもう逃げ道は塞がれているから。そしてバーのママであるオカマスフィンクスは既に諦めていて、それが不機嫌な理由。これですべて説明がつくわ」

 部屋の中央に降りそそぐ格子状の色彩が、郷愁の茜色へと変わりつつある。主人は淡い唇に拳を添え、しんとした気まずい静寂の帳を、こほん、と払いのけられた。片方のまぶたがひょっこりと開き、上目遣いの紅玉がきらめく。

「香織、今から私が勉強をみてあげてもいいわよ。このままじゃあなたの学生生活に影が差すでしょ」

「ええ~、いきなりなにそれ。まあやばいのは否定しないけど……でも、あたしのプライドが傷ついちゃうなあ」

「プライドというものは時と場合によりけりよ。せっかく香織の頭に合わせて効率よく教えてあげようって言ってるんだから。それもタダで」

「うむむ。そ、そんなこといって、ほんとはあたしがいないと寂しいんでしょー」

「な――!」

 思いつきという名の伏兵が繰り出した一撃は急所を貫いた。此れほどまでに主人が動揺めされるのは稀なことで、如何に予想外であられたかは、二の句が告げぬ態度からも確定的に明らか――これなるはブロントの語――である。

「悪いけど勉強くらい一人でできるわよー。後でびっくりさせてあげる!」

 ウインク一つを残し部屋を飛び出したかおりん。夕陽差し込む廊下を駆け去っていく光景が吾輩の超感覚に流れていった。

 静まり返ったホーエン館の自室で、主人は満足を知らぬ者のように立ち尽くされ、程なくして来たる日没の沈みを顔貌にあらわし、深い深い息を吐かれた。

 吾輩はこう締め括ろう。

『誰に寂寥のことが判ろうか、それが無聊の底のものなのか』


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