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1話『黒衣の邪な老婆』


 吾輩はウンブール。ホーエン館に住まう獣である。

 かつて砂漠に佇み、熱い息を吐いて旅人達を見送っていたとき、主人が吾輩を見つけ、連れ帰ったのだ。主人は半年前に吾輩を伴い、この日本という国にやってきてホーエン館に移り住んだ。町の片隅に位置する林の中に建つバロック様式を模した洋館で、ザルツブルクのコレギエン教会を髣髴とさせる外観だが、内装は質素な上品さに満ちておる。主人の自室には暖炉があり、その傍たる此処が吾輩の特等席だ。

 アラベスク模様の古い肘掛け椅子に腰を下ろされ、格子状の窓から夕刻間近の鮮やかな空が見渡せる書物机に向かってノートパソコンで文章を綴っておられる娘こそ、吾輩の主人にして、小間使いの一人もおらぬホーエン館で一人暮らしあそばされるライヒ・パステルツェ嬢である。

 オーストリアの名門家系の令嬢。左目は澄み渡る蒼穹、右目は血薔薇の紅玉。腰までかかるダークブラウンの髪は、鴉の濡羽色の櫛で不思議と丁寧に梳かれておる。頭は大きなコバルトブルーのリボンで彩られ、衣服はシックで品の良い紫の上衣と純白のロングスカート。齢は二桁に到達されたばかりで、背丈は人間の造った単位を用いるのであれば百三十六センチといったところ。彼女は、新人作家として御活動されておられるのだ。

「そろそろ、かしら」

 ノートパソコンを折り畳まれ、そっと呟かれた銀鈴の如き日本語は、さぞかし心地よさを感じさせられるであろう。母国の公用語たるドイツ語をはじめ、チェコ語、英語を話される主人なればこそ。

 吾輩はドアの方へ顔を傾けた。超感覚にて、来客を察知した。彼女だ。主人より賜った合鍵を用い、勝手知ったるホーエン館に入り、黄土色の山椒魚を模したスリッパで廊下を闊歩。近づいて来る。そら、部屋の前。

 ドアが開き、夕陽差し込む室内に一人の娘が足を踏み入れた。暖炉近くの壁に飾られてあるダンセイニ城の絵画が微かに揺れる。

「ライヒちゃん、こんにちはー」

 娘の名は夢水月香織。背丈百五十五センチ、こざっぱりした黒髪おかっぱ、凡俗な鳶色の瞳、無駄に明朗調子の、地味な紺色の学生服を着た十六歳の高校一年生。何処にでもおる普通の娘。おお、普通の娘よ。此方から彼方までも平々凡々なる普通の娘よ。そんな娘が、奇縁なるかな――主人の唯一たる友とは!

「毎日飽きもせず、よく私の家まで足を運ぶものね、香織」

「もうー、あたしのことは『かおりん』って呼んでって何度も言ってるのに」

「悪いわね。人をあだ名で呼ぶのは趣味じゃないの。それが本名なら話は別だけど」

「わかってないなー、通称だからこそ価値があるんだよ」

 かおりん。娘を哀れんでおる吾輩は、香織のことをかおりんと呼んでおる。ふいに彼女が偶然に吾輩をじっと見やった。無論、吾輩は声も出さず、意思が通じたわけでもない。

「ウンたんは、相も変わらずキモかわいいことで。ときにサイズは……おお、二メートル近くあるとはっ!」

「なに勝手に寸法を測ってるのよ。それにウンブールは普通に可愛いでしょ」

「いや、ライヒちゃんの美的センスは普通じゃないし」

 かおりんの発言には同意せねばならない。吾輩の容姿は、世の人間どもの多くは気持ち悪がるであろうからゆえ、かおりんのまったき普通さを肯定するものである。それはまた主人が芸術的審美眼を有していることの証明でもあるのだ。

「ところで香織、紅茶とお菓子を用意してあるから、さっさと席について」

「おおっ、さすがライヒちゃん。ご馳走になります」

 部屋の中央にしつらえてある古風な丸テーブルに、主人がお淹れになられたアールグレイと、手作りの洋菓子が皿に盛られてある。テーブルを挟んで席に着いた二人は、夕焼けのティータイムを愉しみながら、ダンセイニ卿の作品に対するいつもの贅沢なるナンセンス談議を交わし始めた。

「それでね、牛肉屋の通りを駆け抜けていった黒衣の邪な老婆なんだけど、あたしが思うに、学校に遅刻しそうになったからあわてていたんじゃないかなって」

「学生の香織らしい着眼点ね。それで、どうして老婆が学校に?」

「実はホグワーツ魔法魔術学校の非常勤講師なの。本当に特別なときにしか呼び出されないから、めったに家を出ない。で、あわてて町の入口を駆け去って右へ曲がって家々の視界から隠れたところで、食パンを口にくわえた男子生徒と衝突。ラブコメに発展して、それが町に新しい惨事を引き起こすことになるってわけ」

「相変わらず超展開な考察だけど、あなたのそういう発想は嫌いじゃないわ」

 無意識の優美な仕草でティーカップを口に傾けられる主人。その友愛に満ちたる微笑を見よ! 主人はライヒ・パステルツェ嬢であらせられる。

「そうね、私の見解だと……老婆は、本当はとても善人で、極度の恥ずかしがりやさんなのよ。だから普段は館に引きこもって人目を避けているんだわ」

「シャイってレベルじゃないと思うけど。じゃあ過去に老婆が家を出るたびに起きた惨事はどうなるの? 偶然って言葉じゃ説明がつかないよ」

「黒衣に身を隠しているけど、善なる白い魔法使いで、未曾有の危機が迫ったときは人知れずそれを防ぎに奔走しているのよ。けれど、町を覆う災厄があまりにも大きすぎて、解消するときにどうしても余波が生じてしまう。それが惨事となって現れるの。ああ、羊毛刈り職人の通りで起きた地震は単なる偶然だわ。俗に言う地盤沈下というやつね」

「ライヒちゃんも人のこと超展開とか言えないじゃないー」

「いきなり老婆と男子学生のラブコメディ展開突入で理屈もなしに惨事の理由に帰結させるあなたと一緒にされたくないわ。それより私は、家々の人々がそれぞれ持ち出してきた神像の種類や由来が気になるわね」

「あたしは、牛肉屋で売られている肉の種類と値段が気になるなー」

 かおりんが彼女の全存在に相応しい俗物の精神を発露せしめたところで、吾輩がかつて佇んでいた地に匹敵するであろう不毛の談議に終止符を打つべく、格子状の夕陽が蒼茫と暮れなずんだ。

 席を立たれた主人がそっと室内のランプに火を燈された。かおりんの放課後ティータイムは終わったのである。

「今日もお茶とお菓子、ご馳走様でした。ところでライヒちゃん」

「なにかしら」

「大したことじゃないんだけど、今日の下着は何色?」

 天候を訊くかの如き調子の問いに、主人は後天性のオッドアイをぱちくりさせるや、たちまちのうちに顔を朱に染めてしまわれた。

「いや、ライヒちゃんって見た目は上品なのに下着は派手な色が多いから。濃い紫や真っ赤なショーツとか。このまえうっかり着替え見ちゃったときだって……」

「エス・イスト・エケルハフト」

 主人はドイツ語で、いやらしい、と言われた。

「エケルハフト、ヴィルクリヒ・エケルハフト!」

 主人はドイツ語で、いやらしい、いやらしいったらありゃしない、と言われた。

「な、なに言ってるのかさっぱりわからないけど、ライヒちゃんが怒ってるのはわかった」

「わかったのなら、今日はもう帰ってくれるかしら?」

「うん。それじゃあ、また今度ねー」

「ええ、また」

 お怒りになられようと再会の約束をなさる主人に、しかし、慈悲がおありかどうか。唯一なりし友を失いたくはないという御心が誰にわかりえよう?

 ただ、皆に知らしめることができる光景を吾輩から伝えよう。

『凡俗な十六歳の女子高生が、苦笑しながらホーエン館の廊下を駆け抜けていった』


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