理由なんてものを僕は持ちあわせていない。
別に目を閉じていたわけではない、いや、もしかしたら閉じていたかもしれないが、僕には何かを見ていたという記憶がなかった。だからふと気付いたときには、窓の外は街灯やビルの明かりが太陽の代わりを果たす世界に移っていた。特に理由もなく、僕はただ、この電車に乗り続けていた。あるいは理由といったものを探す気力がなかったのかもしれない。
小気味よく、一定の間隔で揺れる箱の中には、僕を含め極めて少数の乗客しかいなかった。
線路の繋ぎ目を渡るたびに、車輪が心地よい音をたてた。その一定の間隔はある種の静寂を作りだしている。
突然、遠くの席で携帯電話の着信音が鳴り響いた。ほとんど白髪になった中年のサラリーマンが、特に迷惑そうにするわけでもなく、批判するわけでもなく、音の出どころに目を向けた。大きな楽器ケースを背負った茶色いマフラーの学生が、慌てて紺色のパーカーのポケットを探った。彼は携帯電話を取り出すと「ごめん、いま電車なんだ。後でかけ直すから」と短く言ってからこっちに軽く頭を下げた。僕はなんとなく頷いてみたが、別に彼が何をしたところで、僕にとってはどうでもいいことだった。サラリーマンは腕を組み、目をとじた。
やがて電車が駅に着くと、学生はポケットから携帯電話を取り出しながら足早にホームへと消えていった。学生の楽器ケースはひどく重そうに見えた。電車の扉が閉まる。学生は出ていったきり戻って来なかった。
電車がまた新しい駅へと向けてその巨体を動かし始めた。サラリーマンは完全に眠っている。どことなく統一されきった声色の車内アナウンスは、次の駅が終電であることを告げた。若い女は延々と携帯電話を操作し続けている。僕は彼女がしている行為を永遠に理解できないだろう。
僕はその光景を見るでもなく見ていた。聞くでもなく聞いたアナウンスがもういちど駅名を言い、それが終点であることを告げた。今度も当り障りのない声色だった。巨体が動きを止め、大あくびをし、冷たい空気を吸い込んだ。女は開いたドアをせかせかと通過し、ホームへと去っていった。その間も女は携帯電話を触り続けていた。それは自らの腕を掃除するカマキリのように見えた。携帯電話は彼女の体の一部なのだ。
電車が止まっても僕は動こうとしなかった。動く気になれなかったと言ったほうが正しい。社内に残っているのは僕とサラリーマンだけになった。やがて車掌がやってきて、形式的な一礼をした。それは眼前の空間に挨拶をしているようにしか見えなかった。車掌は僕達の前を過ぎ、もういちど物質的な一礼をし、隣の車両へ進んだ。
僕はサラリーマンの方を確かめた。よほど疲れているのだろう、彼はまだ深い眠りに落ちている。僕が声をかければ、男は正しい駅で降りることができる。胸の前で組まれた腕はどこなくしんなりとしていて、毛の生えた薬指には指輪が光っている。僕が声をかければ、おそらくはもう眠ってしまっているが、とにかく、妻のいる家へと帰ることができるのだ。僕はそこまで考え、彼の家庭について自分なりの想像をしてみた。悪くない。彼自身、早く妻の寝顔を確認し、小さな幸せをまた明日への蓄えにしたいはずだ。
それでも僕は彼に声をかけようとしなかった。できなかったのではない。ただ漠然とそうしなかっただけなのだ。電車は元来た道を引き返し、眠りに付く。サラリーマンは少なくとも家に帰る一つの方法を失う。そこまで考えても、僕は彼を救おうとしなかった。理由なんてものを僕は持ちあわせていない。