第16話「父娘の再会」
──前回までのあらすじ──
天正十二年、小牧・長久手の戦いで、桃太郎は秀吉に「苦戦」を演出。完全な勝利ではなく、苦しんで掴み取った実感こそが真の天下人にすると考えたのだ。
その頃、都で弥助は一人のくノ一と遭遇する。名は「圓」——衛門が二十年以上探し続けた娘「つぶら」だった。
「生きていたのか……つぶら……」
衛門の目から、二十五年分の涙がこぼれ落ちた。
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第16話「父娘の再会」
一
天正二十年(1592年)夏。
秀吉の天下統一が現実のものとなり、京の都はかつてない活気に包まれていた。
町には笑い声が溢れ、商人たちが行き交い、平和な時代の訪れを誰もが噂していた。
戦の時代は終わった。誰もがそう信じていた。
しかし、その喧騒から離れた城の奥深く、月光だけが差し込む一室で、一人の女が秀吉の前に呼び出されていた。
名を、圓という。
彼女は秀吉の側近として、表舞台に出ることなく、影で数々の任務を遂行してきたくノ一だった。
その冷徹な任務ぶりから、知る者たちは彼女を「月影の女」と密かに呼んだ。
彼女が任務に赴く夜は、いつも月が雲に隠れていた——そんな噂もあった。
「圓よ。お前に、伝えねばならぬことがある」
秀吉の声音は、いつになく重かった。
彼の顔には、天下人としての威厳ではなく、実の妹に告白するかのような、優しい哀しみが浮かんでいた。
天下人となっても、彼の心の奥底には、幼い圓を抱きしめたあの日の温もりが今も残っている。
圓は、深く頭を下げた。
黒い装束が微かに擦れる音だけが、部屋に響く。
彼女の心臓が、普段より速く打っている——任務前の緊張とは、違う鼓動だった。
「何でございますか」
秀吉は、窓の外の月を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
月は満ちていたが、雲が時折その光を隠す——これから語られる真実を象徴するかのように。
彼の影が、月明かりに照らされて長く伸びている。
「お前の父は……生きている」
圓の体が、微かに震えた。
これまで数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼女の体が、今、初めて制御できない震えを見せた。
彼女の指が、畳の上でわずかに動く。
それは、くノ一としては致命的な隙だった。
それほどまでに、その言葉は彼女の心を揺さぶった。
「……父は、死んだと聞いておりました。幼い頃に、疫病で——」
「それは、お前を守るために、私が流した偽りの情報だ」
秀吉は、振り返り、圓の目をまっすぐ見つめた。
その目には、嘘偽りは一切なかった。
彼の目には、二十年前に泣きながら父を探していた幼い圓の姿が、今も焼き付いている。
圓もまた、父が生きている事は直観的に感じていた。
任務の合間に、ふと胸をよぎる温かい何か。
それは、幼い頃に父に抱かれた記憶の断片かもしれない。
だが、秀吉の嘘の裏にある優しさを初めて感じ取り、涙した。
彼女は自分が泣いていることに、自分自身が一番驚いていた。
「お前の父の名は、衛門という。吉備の村で、桃太郎という若者に仕えている」
圓は、その場に膝をついた。
彼女の手が、畳を握りしめる。
指の関節が白くなっていた。
二十五年——その数字が、彼女の心臓を締め付ける。
「なぜ……今になって……」
声が、震えていた。
くノ一として感情を殺すことに人生を捧げてきた彼女の声が、今、初めて震えていた。
彼女の喉の奥で、何かが詰まっている。
それは、二十五年間封印してきた何かだった。
「お前を守るために嘘をついていた。お前の父の存在が知られれば、お前の立場が危うくなる。私はそれを恐れた。そして——」
秀吉は、一度言葉を切った。
彼の目が、わずかに潤んでいるように見えた。
天下人という地位に上り詰めても、彼の心の奥底にあるものは変わらない。
「お前は多分、気付いているのであろう。お前の父もまた、娘を探し続けていた。二十年以上、ただひたすらに。お前を失ったあの日から、一度も諦めることなく。衛門という男は——二十五年間、お前の産着を胸に抱き続けた男だ」
圓の目から、涙が一筋流れ落ちた。
彼女は自分が泣いていることに、自分自身が一番驚いていた。
くノ一として、涙などとうの昔に枯れたと思っていたのに。
その涙は、彼女の頬を伝い、畳の上に落ちた。
音もなく、しかし確かに、二十五年分の想いが、そこにあった。
彼女は、父の顔を覚えていない。
二歳の時に生き別れた、ただの影のような記憶しかない。
温かい腕に抱かれた感触だけが、かすかに残っている。
それが父なのか母なのかさえ、わからない。それでも、胸の奥底でずっと疼いていた何かが、今、形を得ようとしていた。
それは、彼女が任務の合間にふと思う「もしも」の答えだった。
「行け!妹よ!…会いに行くのだ。これまで育てた恩義は、それで返してもらう。これは命令だ」
秀吉の声は、優しかった。
彼はゆっくりと歩み寄り、圓の肩に手を置いた。
その手は、天下人の手ではなく、幼い圓を育てた兄の手だった。荒れた戦場を知る手が、今はただ優しく彼女の肩を包む。
秀吉は、圓の肩に置いた自分の手を見つめた。節くれだった指、無数の小さな傷跡——天下を掴み取った手だ。だが、この手は、幼い圓が泣きながら父を探していた夜、彼女の小さな手を握り返すことができなかった手でもある。「……すまなかった」秀吉は、圓には聞こえぬほどの小声で呟いた。彼の手が、わずかに震えていた。
「お前は、私にとって本当の妹のような存在だ。幼い頃から、共に育ってきた。そのお前が、幸せになれる道を選ぶことを、私は望む。たとえそれが、私の側を離れることになっても——」
圓は、深々と頭を下げた。
彼女の肩が、小刻みに震えていた。彼女の目から、再び涙が溢れる。
今度は、止めどなく。
「ありがとう…ありがとうございます……お兄ちゃん」
それは、幼い頃に彼を呼んでいた、懐かしい呼び名だった。
秀吉がまだ天下人ではなく、ただの「お兄ちゃん」だった頃の、温かい記憶。彼女が父を探して泣いた夜、いつもそばにいてくれたのは、この人だった。
秀吉は何も言わず、ただ圓の頭を優しく撫でた。その手の温かさが、彼女の心に染み渡る。
二
数日後、圓は吉備の村へと向かっていた。
馬を走らせながら、彼女の脳裏には様々な思いが去来する。
彼女は、くノ一として数々の任務を遂行してきた。
敵地に潜入することも、人を斬ることも、何の躊躇もなかった。
それらは全て、任務だった。任務なら、何の迷いもなかった。
しかし、今、彼女の足は——いや、心は、重かった。
父に会う——そのことが、何よりも怖かった。
任務なら、どんな相手の前でも平気だった。敵地に潜入するのも、人を斬るのも、ただの仕事だった。
だが今は、ただの娘として、父の前に立たねばならない。
任務遂行のための仮面ではなく、素の自分で。
もし、父が自分を恨んでいたら?
自分を捨てたことを後悔しているなら?
もし、自分という存在が、父の人生をさらに苦しめるだけだったら?
もし、父が新しい家族を持っていて、自分が邪魔者だったら?
彼女の冷徹な心が、初めて激しく揺れていた。
馬の手綱を握る手が、微かに震えている。
この震えは、任務の緊張ではない。
もっと深く、もっと根源的な——二十五年間、向き合うことを避けてきたものへの震えだった。
道の脇に、親子の影が見えた。母親が、幼い子の手を引いて歩いている。子どもが転びそうになり、母親がその手を強く握る。圓は、その光景から目を逸らし、馬の腹を蹴った。風が彼女の頬を叩く。彼女は、自分の手綱を握る手を見つめた。この手は、かつて誰かに握られたことがあっただろうか——覚えていない。覚えていないことが、何よりも怖かった。
彼女は、父の顔を思い出そうとした。
しかし、浮かんでくるのは、秀吉の顔だけだった。
幼い自分を抱きしめた、父の腕の感触はある。
でも、その顔だけが、どうしても思い出せない。
二十五年の時が、父の面影を奪っていった。
三
村に着いた圓は、一人の男に出会った。
弥助——以前、都の社の前で邂逅したあの男だ。
彼は相変わらず山の者のような風貌で、にやりと笑った。
その笑顔には、敵意はなかった。
「待ってたぜ」
弥助は口元を歪めて笑った。
その目は、圓をじっと見つめていた——衛門の面影を確かめるかのように。
彼の鋭い目が、圓の顔の輪郭、目の形、口元をなぞる。
山で獣を見極めるような目つきだったが、そこにあったのは敵意ではなく、確認だった。
「衛門から聞いたんだ。お前が来るってな。案内するよ。あの人、昨日からそわそわしてて、落ち着かねぇんだ。二十年以上探してた娘が来るってんだから、そりゃそうか」
弥助に導かれ、圓は山奥へと進んだ。
彼女は無意識に周囲の地形を把握していた——くノ一としての性だった。
どこに身を隠し、どこから攻めるか。
しかし、今日ばかりはその能力が空回りしていた。
木々の一本一本、道の曲がり角——それらがすべて、父の住む場所へと続いている。
清らかな沢の音が聞こえ、木々の間から小さな庵が見えてきた。
萱葺きの屋根、朽ちかけた柱。
しかし、どこか温かみのある、不思議な場所だった。
庭には小さな畑があり、季節外れの花が一輪咲いている。
誰かの手で、大事に育てられているのがわかった。
「あそこだ。衛門は、あの庵で一人で暮らしている」
弥助は、そこで立ち止まった。彼は圓の肩をポンと叩いた。
その手の温かさが、少しだけ彼女の緊張を和らげた。
「俺は、ここで待ってる。行け。大丈夫だ、あの人はお前をずっと待ってたんだから。二十年以上、ずっと——」
圓は、小さく頷いた。
彼女の喉は、緊張でからからに乾いていた。
歩き出そうとして、足が動かない。
彼女の足が、地面に縫い付けられたかのように。
四
庵の前で、圓は立ち止まった。
戸の向こうから、かすかに薪の燃える音が聞こえる。
パチパチという音が、静かな山里に響く。
煙の匂い、そして——どこか懐かしい、生活の匂い。
それは、幼い頃に感じたことのある匂いだった。
そして…父の、家の匂い。
彼女は、深呼吸を一つした。肺いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
彼女の手は、無意識に短刀の柄に触れていた——これは、任務ではない。
自分に言い聞かせるように、手を離す。
そして、戸を開けた。
中には、一人の老人がいた。
囲炉裏の火の前で、背中を丸めて座っている。彼女が入ってきたことに気づき、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間——二人の目が合った。
時が、止まったかのようだった。
囲炉裏の火だけが、パチパチと音を立てている。
それ以外の全てが、静止していた。
彼女の息も、彼の息も、その一瞬、止まった。
長い沈黙が流れた。
それは、二十五年という歳月を凝縮したかのような、重く、深い沈黙だった。
衛門は、目の前の女が自分の娘だと、瞬時に理解した。
二歳の時と変わらぬ、まん丸な目。
何度も夢に見た、あの面影が、そこにあった。
産着に刺されていた刺し子の模様と同じ、優しい光を宿した瞳。
妻が縫ったあの刺し子のように、細やかで、優しい光。
「……つぶら……か?」
衛門の声は、震えていた。二十五年ぶりに発した、娘の名前。
何度も夢の中で呼びかけた、その名前。
その声は、年老いて、かすれていたが、確かに彼の声だった。
圓は、無言で頷いた。
その目から、涙が溢れ出た。
彼女は、自分が泣いていることに、自分自身が一番驚いていた。
くノ一として、感情を殺すことに慣れていたはずなのに。
涙など、とっくに枯れ果てたと思っていたのに。任務で何度人を斬っても、何度裏切りにあっても、涙は出なかった。
なのに——。
涙は、止めどなく溢れ、彼女の頬を伝って落ちていった。
二十五年分の何かが、今、堰を切ったように溢れ出ていた。
五
「あ……」
圓の声は、涙で詰まっていた。彼女の言葉は、疑問というより、ただの感嘆の声だった。
彼女の口から、何か言葉を発しようとするが、声にならない。
ただ、涙だけが止めどなく溢れる。
衛門は、ゆっくりと立ち上がった。
二十五年の重みを背負った体は、思うように動かない。
彼の膝が、わずかに震えている。
それでも、彼は立ち上がった。
震える足で、一歩、また一歩、彼女に近づいた。
その一歩一歩に、二十五年の歳月が込められていた。
「探していた……ずっと、探していたんだ」
彼の目からも、涙が溢れ出た。
老いた頬を伝い、白い髭に吸い込まれていく。
彼の涙は、二十五年分の後悔と、希望と、そして——やっと叶えられた願いだった。
「二十五年……いや、二十五年以上だ。お前が二歳の時に生き別れてから、ずっと——。都を追われてからも、この村に来てからも、お前のことを考えない日はなかった」
衛門は、震える手を懐に入れた。
そして、取り出したのは、あのぼろぼろの産着だった。
それは、二十五年間、彼の胸の中で温められてきた証だった。
桃色だった布地は色褪せ、刺し子の模様は薄れ、ところどころ破れている。
布地は擦り切れ、端はほつれ、もう元の形も留めていない。
しかし、彼の体温と涙が染み込んだ、かけがえのないものだった。
二十五年間、この布だけが、彼と娘を繋ぐ唯一の絆だった。
「これだけが……唯一の手がかりだ。お前を失ったあの日から、ずっと……ずっと持っていた」
圓は、産着を受け取り、じっと見つめた。
それは、自分のものだったのだろうか。覚えていない。
何も覚えていない。
二歳の記憶など、残っているはずもない。
彼女の記憶の始まりは、秀吉の城だった。任務をこなし、武芸を磨き、くノ一として生きる術を学んだ日々。
父の顔も、母の顔も、思い出せない。
でも——。
「この布の感触……なぜか、なぜか懐かしい」
彼女の手が、産着を握りしめた。
その手は、短刀を握る時よりも強く、優しく、布を包み込んでいた。
彼女の指が、刺し子の模様をなぞる。
母の縫った跡。
自分を包んでいた温もり。
彼女の知らないはずの記憶が、指先から伝わってくる。
彼女の目から、再び涙が溢れた。今度は、止まらなかった。
彼女の肩が、激しく震えている。二十五年分の想いが、今、一気に溢れ出していた。
六
二人は、囲炉裏の前に並んで座った。
火がパチパチと音を立て、穏やかな時間が流れる。
その沈黙は、重くはなく、むしろ温かかった。
二十五年分の空白を埋めるように、ゆっくりと、しかし確かに、時が流れていく。
「母は……」
圓が、小声で尋ねた。
彼女の声は、もう震えていなかった。
ただ、真実を知りたいという、娘の声だった。
彼女の手には、まだ産着が握られている。
衛門は、深くうつむいた。
囲炉裏の火が、彼の苦悩に満ちた横顔を照らす。
彼の影が、壁に揺れている。
「……私が、主に裏切られた時、無実の罪を着せられて……お前の母は、私の目の前で……」
言葉が続かない。彼の喉が、詰まっている。
二十五年経っても、その記憶は鮮明に、彼を苦しめていた。
妻の最期の言葉——「すまない」。その声が、今も彼の耳の奥で響いている。
圓は、何も言わなかった。
ただ、父の震える手に、自分の手を重ねた。
彼女の手は、冷たかったが、その仕草は優しかった。
くノ一として冷徹に生きてきたその手が、今はただ、父の手を包み込んでいる。
「そう……ですか」
その言葉は、冷たくはなかった。むしろ、温かかった。
全てを受け入れ、理解しようとする、娘の優しさだった。
彼女の手が、父の手を握る。その力は、優しく、確かだった。
七
夜が更けていく。
二人は、語り合った。
二十五年分の空白を埋めるかのように。
衛門は、桃太郎との出会い、鬼ヶ島での戦い、そして、この村で過ごした日々を話した。時雨のこと、弥助のこと、喜備丸のこと——彼の新しい家族のことを。
彼の話す一つ一つに、二十五年の歳月があった。
彼の声は、時に笑い、時に涙ぐみながら、二十五年分の物語を紡いでいった。
圓は、秀吉に育てられたこと、くノ一としての任務、そして、任務の時に「すまない」と呟くようになった理由を話した。
彼女の口癖の秘密を、初めて誰かに打ち明けた。
その言葉は、母の最期の言葉だった。
自分が斬る者に向かって、なぜかいつもその言葉が口をついて出る——それが、母の声なのかもしれないと。
「母さんの最期の言葉も…すまない、だった」
衛門が、絞り出すように言った。彼の目には、深い哀しみがあった。
妻の最期の姿が、今も目に焼き付いている。
圓は、うつむいた。
脳裏に、母の最後の言葉が蘇る——「すまない」。
あの時、母は父に謝っていたのか、それとも自分に謝っていたのか。
それとも、この世の全てに——。
「あなたの活躍は伝説となって語られている。鬼を退治した桃太郎一行、家来に犬を引き連れたと」
圓は衛門の目をまっすぐ見つめた。
その目には、もう涙はなかった。
ただ、真実を確かめたいという、強い光があった。
「動物を連れて旅に出る馬鹿はいない、その犬の正体は父なのではないかと感じていた。その旅の理由は母と私を守れなかった後悔、違う?」
「……すまなかった」
衛門の声は、涙で濡れていた。
彼の肩が、小刻みに震えている。
二十五年間、言えなかった言葉が、今、溢れ出していた。
「すまなかった……すまなかった……」
何度も、何度も、繰り返した。
二十五年分の「すまなかった」が、今、溢れ出していた。
彼の声は、詰まり、途切れ、それでも止まらなかった。
圓は、首を振った。
彼女の手が、父の手を強く握る。
その力は、子供が父にすがるように、強く、しかし優しかった。
「もう、謝らないで。あなたは、私を探し続けてくれた。それで、十分です」
彼女の声には、確かな温かさがあった。
復讐でも、恨みでもなく、ただの娘の想いが、そこにあった。
二十五年ぶりに見つけた父の手の温もりが、彼女の心を満たしていた。
八
その夜、圓は衛門に連れられて、桃太郎の隠れ家を訪れた。
そこには、桃太郎、時雨、弥助が待っていた。囲炉裏を囲み、彼らは圓を迎え入れた。火の明かりが、四人の顔を温かく照らしている。
「衛門の娘か」
桃太郎は、じっと圓を見つめた。
その目は、彼女の全てを見透かすかのようだった。
鬼ヶ島で頭領と対峙した時の、静かで強い眼差し。
「道理で、只者ではないと思った」
時雨が口を開いた。
彼女の目もまた、同じ闇を知る者の目だった。
二人の女の視線が、静かに交差する。
「……私と同じ匂いがする。闇で生きてきた者の匂いだ。人を斬り、人を欺き、闇に溶けて生きてきた者の匂い」
時雨は無意識に、左手首をなぞっていた。火傷の痕はもう消えている。それでも彼女の指は、そこを確かめるように往復する。闇を生きる者としての自分と、誰かのために団子を作った自分——その二つを繋ぐ記憶に触れるように。
圓は、時雨を見つめ返した。
彼女の目には、驚きと、そしてわずかな共感があった。
この女もまた、自分と同じ道を歩んできたのか。
「あんたも……くノ一か」
「いや、今はただの妻だ。でも……かつては、復讐だけを生きがいにする鬼だった。誰かのために、ではなく、自分のために人を斬っていた経験はあるわ」
時雨の言葉に、圓はわずかに目を見開いた。
その言葉は、彼女自身の心の奥底に響いた。
任務のため——そう言い聞かせてきたけれど、本当にそれだけだったのか。
「……私も、同じだ。任務のためなら、何人でも斬ってきた。それが、正しいことだと思っていた。でも——」
「でも——」
時雨は、優しく微笑んだ。その笑顔は、かつての冷徹なくノ一からは想像もできないものだった。
あの頃の自分が、今の圓の目に映っている。
「それでも、変われる。私は、ここでそれを知った。憎しみだけを糧に生きてきた私が、誰かを愛し、誰かに愛されることを知った。あなたも——いつか、きっと」
桃太郎は、二人の女を見て、穏やかな口調で言った。
「圓殿。衛門は、我々にとって欠かせない知略の師だ。そして、娘であるあなたもまた、その血を引いている。よければ……秀吉殿の側近としてではなく、一人の人間として、我々と共に歩む気はないか?表舞台には立たない。歴史に名を残すこともない。それでも、この国の安寧を、共に守っていける仲間が必要なんだ。」
圓は、父・衛門の顔を見た。
衛門は、何も言わず、ただ優しく微笑んでいた。
その目には、涙が光っていた。
自らの意志で選ぶ道を見守る、父の目だった。
二十五年ぶりに会えた娘が、どんな道を選んでも、彼は受け入れるつもりだった。
それだけで、十分だった。
「……私は、秀吉公に恩義がある。彼を裏切ることはできない」
「裏切れとは言わない。ただ、これからのこの国の行く末を、共に見守ってほしい。そして、必要とあらば、影から支えてほしい。それだけだ」
圓は、長い沈黙の後、しっかりと頷いた。その目には、迷いはなかった。
くノ一として生きてきた彼女が、初めて自分の意志で選んだ道だった。
「……了解した。私は、表では秀吉公の側近として動く。裏では、あなたたちの……いや、父の理想を支える者として」
その言葉に、衛門は涙を拭い、深く頭を下げた。
彼の肩が、安堵と感謝で震えていた。二十五年の旅路が、ようやく終わった。
「ありがとう……つぶら……」
九
それから二年後。
圓との再会を果たし、張り詰めていた気持ちも途切れたのだろう。
衛門の身体は、老いには勝てず、徐々に衰弱していった。
長い戦いの日々が、彼の体に刻んだ傷が、今になって重くのしかかっていた。
ある冬の日、衛門は桃太郎と圓を枕元に呼び寄せた。
外は雪が静かに降り積もっていた。
庵の中では、囲炉裏の火が小さく燃えている。
火の温かさが、部屋の中を包み込んでいた。
「桃太郎……長い間、世話になった。お前のような主に出会えて、私は幸せだった」
衛門の声は、弱々しかったが、その目はしっかりと桃太郎を見つめていた。
老いてなお、その目には知将の輝きが残っている。
桃太郎は、衛門の手を握りしめた。
その手は、かつて剣を握っていたとは思えないほど、細く、弱々しかった。
それでも、桃太郎はその手を離さなかった。
「衛門……いや、師匠と呼ばせてくれ。あなたから学んだことは、一生忘れない。剣の振り方だけじゃない。人としてどう生きるか、何を守るべきか——それを教えてくれたのは、あなたです」
衛門は、弱々しく笑った。
その笑顔は、満足げだった。
教え子が、立派に成長した。
それだけで、自分の人生に意味があった。
「圓よ……お前に、最期に言いたいことがある」
圓は、涙をこらえながら、父の顔を見つめた。
彼女の手が、父の手を包み込む。
その手は、もう震えていなかった。
「お前は、わたしの誇りだ」
それが、最期の言葉だった。
衛門は、安らかな表情で息を引き取った。
その顔には、苦しみの跡はなく、ただ穏やかな満足感だけがあった。
二十五年の空白を埋めた娘の顔が、彼の最後の瞳に映っていた。
十
衛門の葬儀は、村人たちによって質素に行われた。
雪が静かに降り積もる中、彼の遺体は荼毘に付された。
白い雪の中、煙が静かに昇っていく。
圓は、父の棺に、あのぼろぼろの産着を入れてやった。
それは、父が二十五年間、肌身離さず持っていた、唯一の手がかり。
彼の胸の温もりを感じ続けてきた布。それを、今度は父の旅立ちの支えとして。
「これで……ずっと一緒にいられるね、父上」
彼女の声は、静かだった。
涙は、もう枯れていた。
ただ、深い安堵だけが、彼女の心を満たしていた。
二十五年の旅路の果てに、ようやくたどり着いた場所。
火が放たれ、煙が立ち上る。彼女は、その煙の匂いを嗅いだ。焦げる布の匂い——それは、二十五年間父の胸で温められてきた布が、最後に放つ匂いだった。煙は空へ昇り、やがて雪に紛れて見えなくなった。彼女は、その煙を目で追いながら、自分の手のひらを見つめた。産着の感触が、まだ指先に残っていた。
桃太郎は、圓の肩に手を置いた。
その手は、温かかった。衛門が彼の肩に置いたように、今度は彼が圓の肩に手を置く。
「これからも、共に歩んでくれるか?」
圓は、涙を拭い、力強く頷いた。
その目には、強い決意の光が宿っていた。
父が託したものを、決して無駄にしないと、心に誓った。
「はい。父の遺志を継ぎ、あなたたちの……いや、この国の安堵のために、私は闇で生き続けます。表には立たない。歴史に名を残さない。それでいい——それが、私の選んだ道です」
その後、圓は表向きは秀吉の側近として、裏では桃太郎たちの「見えない手」として、歴史を動かし続けた。
十一
月明かりの下、圓は一人、衛門の墓の前に立っていた。
雪が、静かに降り積もる。
彼女の黒い装束に、白い雪が舞い落ちる。
白と黒が、月明かりの下で鮮やかに映える。
「父上……私は、あなたの娘であることを誇りに思う」
彼女の声は、風に乗って闇に消えた。
風が吹き抜ける。
その風は、遠い日に生き別れた父娘の涙を、優しく拭うかのようだった。
そして、新たな雪が、その涙を優しく包み込んでいた。
二十五年の歳月が、ようやく一つに重なった。
彼女は、父の墓前に一礼し、闇の中へと歩き出した。
その後ろ姿は、かつての復讐者を思わせる冷たさはなく、父の教えと愛を胸に、新たな道を歩む者の、確かな足取りだった。
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【次回予告】
父との再会、そして別れ。
圓は、秀吉の側近として、再び闇へと戻っていく。
しかし、その胸には、確かに父の言葉が刻まれていた。
「お前は、私の誇りだ」
そして時は流れ、秀吉の天下統一は完成する。
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次回、第二部・終章
第17話「安堵の光、そして影の伝説」
---
【第16話・完結】




