同性愛者の俺が付き合っていた彼氏が実は女性だった件
序章
交際三ヶ月。会社の先輩・『羽鳥 しのぶ』と、後輩の『黒崎 実』……二人は同じ営業部に所属している。表向きは先輩後輩の関係だが、休日や仕事終わりには自然に手を繋ぎ、距離を縮めてきた。
今日は、その交際が始まってから初めて、しのぶの家にお泊まりする日だった。
「実……疲れてないか?」
しのぶの声は、いつものクールな口調ではあるが、少し柔らかさが滲んでいた。
「全然大丈夫です……むしろ先輩の家に来られると思ったら、緊張で仕事の疲れも吹き飛びました」
実は少し照れながら答える。
「そう……じゃあ、まず手を洗ってきな……荷物は俺が置いておくから」
しのぶの声に従い、実はリビング横の洗面所へと足を運ぶ。浴室の扉を閉めた瞬間、胸が高鳴る。今夜は……いよいよ、二人きりの夜。
リビングに戻ると、しのぶは少し照れたように微笑みながら座っていた。スーツ姿のままソファに腰掛け、ネクタイを少し緩めた姿が、いつもより色っぽく見える。
「……まぁ適当に座って」
しのぶの手が差し伸べられる。実は少し迷ったが、素直に手を握り、隣に腰を下ろした。
部屋の照明は柔らかく、外の街灯の光が窓越しに差し込んでいる。静かな空間に二人だけ。心臓の鼓動が自分でも驚くほど早い。
「今日は……お前とゆっくり話したかったんだ」
しのぶがゆっくりと言う。
「僕もです、先輩と一緒にいると……落ち着きます」
実は少し顔を赤らめながら答える。
しのぶは実の髪をそっと撫で、視線を合わせる。短く整えられた髪の先が手のひらに触れるたび、実は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「実……」
しのぶの声が少し震える。
実は自然に体をしのぶに近づけ、そっと唇を重ねた。軽いキス。それだけで体中に小さな電流が走ったようで、実は思わず目を閉じる。
しのぶも応えるように唇を重ねる。唇の感触、吐息の温かさ、指先が触れる感覚。短いキスの中に、これまで抑えてきた感情が溢れそうになる。
「……実、待って」
キスを解き、しのぶが真剣な表情で見つめる。その瞳には、いつもの軽やかな笑みではなく、静かで深い決意が宿っていた。
「……実、実はちょっと話があるんだ」
実は一瞬、心臓が止まりそうになる。
「え……話って、どんな……?」
思わず声が小さくなる。
しのぶは深く息を吐き、顔を少し背けた。
「……ずっと言わなきゃって思ってたけど、俺実は生物学的には女性なんだ」
実は思わず息を飲む。
「……え?」
「ごめん、今まで黙ってて……隠すつもりはなかったんだけど……怖くて言えなかった」
しのぶの声が少し震える。
「そ、そういう……こと……」
実は言葉を選びながらも、心の奥で動揺が渦巻いていた。
三ヶ月、ずっと『男の先輩』だと思って接してきたしのぶが、実は女性だということ——。
しかし、動揺と同時に、胸の奥には不思議な暖かさが広がる。
「……でも……」
「でも?」
しのぶは顔を上げ、実の目を真っ直ぐに見つめる。
「俺は、先輩のこと……好きです」
言葉が自然に口をついて出た。
しのぶの目が少し潤む。
「……いいの?女の俺でも、好きでいてくれるのか?」
小さな声で、でも真剣に問う。
「はい……先輩が男でも女でも関係なく、好きです」
実はしっかりと答える。胸の奥の熱さが一層強くなる。
しのぶはしばらく黙って、実の手をぎゅっと握る。
「……ありがとう」
その声は、照れや羞恥を含んでいながらも、心からの安堵と優しさに満ちていた。
「……これからどうなるのかな……」
実は少し不安を吐露する。
「わからない。でも、実のことが好きだから。だから、ちゃんと向き合いたい」
しのぶは優しく微笑む。
その微笑みを見た瞬間、実はすべての不安が少しだけ溶けた気がした。
「……先輩……」
二人は再び近づき、今度はお互いの温もりを確かめるように抱きしめ合った。キスは先ほどよりも長く、唇だけでなく頬や額に触れる温かさも含まれている。
第一章
実がシャワーを浴びている音が、浴室の向こうから微かに聞こえてくる。
さっきまで、俺はあいつの腕の中にいた。
今は一人、リビングのソファに腰掛けている。
天井を見上げながら、ゆっくり息を吐いた。
「……言っちまったな」
ぽつりと独り言が漏れる。
三ヶ月。
三ヶ月も付き合っておいて、ようやく打ち明けた秘密。
いや、本当はもっと早く言うつもりだった。
でも、言えなかった。
怖かったからだ。
もし実が嫌な顔をしたらどうしよう。
もし「無理です」って言われたらどうしよう。
そんなことを考えると、どうしても言葉が喉に詰まった。
けど。
今日、あいつはちゃんと受け止めてくれた。
『先輩が男でも女でも関係なく、好きです』
あの言葉を思い出すと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ほんと、変なやつだよな」
思わず苦笑する。
普通なら引く。
男だと思って付き合っていた恋人が、実は女だったなんて。
それなのにあいつは、驚きはしても、拒絶はしなかった。
むしろ——
少し嬉しそうにすら見えた。
「……なんでだよ」
俺は指先で自分の胸元を軽く押さえる。
この体。
生まれたときから、女の体。
鏡を見るたびに思う。
「……なんか違うんだよな」
子供の頃からずっとそうだった。
小学校の頃、女の子たちはスカートを履いて、可愛い髪型をして、恋の話をしていた。
でも俺は、どうしてもそこに混ざれなかった。
スカートは落ち着かない。
長い髪も邪魔くさい。
可愛いって言われると、なんだか気持ちが悪い。
だから中学に上がる頃には、髪を短くした。
制服のスカートも、できれば履きたくなかった。
先生にはよく注意された。
「羽鳥さん、もう少し女の子らしくしなさい」
その言葉を聞くたびに、胸の奥がざらついた。
女の子らしいって何だ。
俺は俺だろ。
でも、その頃からもう一つの違和感があった。
恋だ。
周りの女の子たちは、男の子の話をしていた。
「あの先輩かっこいいよね」
「彼氏ほしい〜」
そんな会話を聞いていて、ふと思った。
……あれ?
俺も、男の方が好きかもしれない。
最初は、ただの憧れだと思った。
かっこいい先輩に憧れる。
それは別に変じゃない。
でも。
ある日、体育館でバスケ部の先輩を見ていたとき、胸が妙にドキドキした。
その瞬間、理解した。
「あ、俺……男が好きなんだ」
だけど、そこでまたおかしなことに気づく。
俺は女の体だ。
女が男を好きになる。
それ自体は普通だ。
でも——
俺の感覚は、それとは違った。
男を好きになるときの気持ちが、
『女として男を好きになる』
それじゃなかった。
むしろ——
『男として男を好きになる』
そんな感じだった。
自分でもうまく言葉にできない。
でも、ずっとそうだった。
高校に入ってから、ネットでいろいろ調べた。
そこで初めて知った言葉。
トランスジェンダー。
性同一性。
色々あったけど、俺はそのどれにも完全には当てはまらなかった。
体は女。
でも心は男寄り。
でも、恋愛対象は男。
つまり。
「……ゲイ?」
自分で呟いて、苦笑する。
女の体なのに、ゲイ。
意味がわからない。
でも感覚としては、それが一番近かった。
男が好き。
男に触れられると嬉しい。
男と恋人みたいな関係になりたい。
でも、女として見られるのは違う。
だからずっと恋愛は避けてきた。
面倒だからだ。
説明するのが。
理解されないのが。
それなのに。
「……なんで実なんだよ」
あいつだけは、気づいたら好きになっていた。
最初はただの後輩だった。
少しおとなしくて、でも真面目で。
仕事も一生懸命で。
俺の話をちゃんと聞く。
ある日、飲み会の帰り道。
実がぽつりと言った。
『俺、ゲイなんです』
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
ゲイ。
つまり、男が好き。
「……運命かよ」
思わず笑ってしまう。
その日から、意識してしまった。
実のことを。
あいつの笑顔。
困った顔。
照れた顔。
全部、可愛く見えた。
そして気づいた。
俺、こいつのこと好きだ。
でも同時に思った。
……絶対、無理だろ。
俺、女だし。
でも。
なぜか実は、俺のことを男として扱ってくれた。
それが嬉しかった。
だから——
つい。
告白してしまった。
「付き合うか?」
半分冗談のつもりだったのに。
実は真っ赤になって言った。
『はい、お願いします』
あの時の顔。
今でも思い出すと胸がくすぐったい。
「……ほんと、バカだよな俺」
好きになったら、もう止められなかった。
そして今日。
全部話した。
秘密を。
体のことを。
それでも実は言った。
『好きです』
……反則だろ。
そんなこと言われたら。
俺はソファに背中を預ける。
天井の明かりが少し眩しい。
浴室のシャワーの音が止まった。
もうすぐ、実が戻ってくる。
俺は小さく息を吐いた。
「……なあ、実」
心の中で呟く。
俺は男になれない。
体は女のままだ。
でも。
それでも。
それでもいいって言ってくれた。
「……ほんと、好きだよ」
その言葉を呟いた瞬間。
浴室のドアが開く音がした。
「先輩、シャワー終わりました」
実の声。
振り返ると、少し濡れた髪のまま立っている。
相変わらず、ちょっと緊張した顔。
俺は笑った。
「次、俺な」
立ち上がりながら、実の頭を軽く撫でる。
「……待ってろ」
実は少し照れながら頷く。
「はい」
その顔を見て、胸の奥がまた温かくなる。
俺の性は、普通じゃない。
男でもない。
女でもない。
でも。
好きな人はいる。
それでいい。
たぶん、それでいいんだ。
そして俺は、浴室のドアを開けた。
・・・・・
浴室のドアが閉まる音がしてから、しばらくの間、実はリビングのソファに座ったまま動けずにいた。
さっきまでの会話が、何度も頭の中を巡る。
——俺、生物学的には女性なんだ。
その言葉。
驚かなかったわけじゃない。
むしろ、かなり驚いた。
だけど。
「……それでも好きなんだよな」
ぽつりと呟く。
不思議だった。
男だと思っていた恋人が女性だった。
普通なら戸惑うはずなのに、実の中で「嫌だ」という感情はほとんど生まれなかった。
むしろ、さっき抱きしめた時の温もりを思い出す。
しのぶの腕の感触。
肩に触れた体温。
落ち着く香り。
「……やっぱり先輩なんだよな」
そう思っていると、浴室のシャワーの音が止まった。
しばらくして、ドアが開く音。
そして——
「実」
振り向いた瞬間、実は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、バスタオルを一枚、体に巻き付けただけのしのぶだった。
濡れた短い髪。
首筋から肩にかけて、まだ水滴が残っている。
タオルは胸の上で巻かれていて、普段スーツ姿しか見たことがない実にとって、その姿はあまりにも無防備だった。
「……えっと」
実の視線が泳ぐ。
しのぶは苦笑した。
「そんな固まるなよ」
そう言いながら、ゆっくりソファの前まで歩いてくる。
距離が近づくほど、実の心臓は激しく鳴った。
「さっき言ったろ」
しのぶは腕を軽く組み、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「俺、体は女なんだって」
「……はい」
実は小さく頷く。
その表情を見て、しのぶは一度深呼吸をした。
「だから、一応……確認しとこうと思って」
そう言うと、しのぶは胸元のバスタオルを指で軽くつまむ。
「……見たい?俺の、体」
「い、いいんですか?」
戸惑いながらも問う実
「ああ、いいよ……寧ろお前にだからこそ、見てほしい」
その言葉と同時に、バスタオルが静かに緩められた。
布が滑り落ちる。
実は思わず目を見開いた。
そこにあったのは、確かに女性の体だった。
胸元には、控えめながらも柔らかな膨らみ。
大きくはない、でも確かに女性の形をしている。
しのぶは少し気まずそうに腕を下ろす。
「……な?」
どこか照れくさそうな声。
「言った通りだろ」
実は言葉を失っていた。
目の前にいるのは、間違いなく羽鳥しのぶ。
会社ではクールな先輩で、恋人で。
でも今は、女性の体をしたしのぶだった。
視線が自然と下へ落ちる。
しのぶは一瞬迷ったあと、小さく息を吐いた。
「……下も」
その声は少しだけ震えていた。
「ちゃんと女だ」
そう言って、バスタオルを完全に外す。
静かな部屋。
外から聞こえる車の音だけが遠くに響く。
しのぶの体は、華奢だった。
筋肉質というより、すらりとした体つき。
そして、その下には確かに女性の身体的特徴があった。
実は思わず視線を逸らした。
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
しのぶが苦笑する。
「むしろこっちが見せてるんだし」
そう言って、しのぶは再びタオルを拾い、軽く体に巻き直す。
そして実の隣に腰を下ろした。
ソファが少し沈む。
「……で」
しのぶは横目で実を見る。
「どう思った?」
その声には、少しだけ不安が混じっていた。
実はしばらく黙っていた。
頭の中を整理する。
男だと思っていた恋人が女性だった。
それは確かに事実。
でも——
実はゆっくりと顔を上げた。
「……先輩」
「ん?」
「やっぱり先輩ですね」
しのぶが一瞬きょとんとする。
「は?」
「なんていうか……」
実は少し照れながら頭を掻いた。
「女の体なのは分かりました」
「うん」
「でも……」
実はしのぶの手をそっと取る。
「好きなのは変わらないです」
しのぶの目が大きくなる。
「……本気で言ってる?」
「はい」
実はまっすぐ答えた。
「俺、先輩のこと好きです」
「男とか女とか……」
少し考えてから続ける。
「正直、まだよく分からないですけど」
「でも、先輩が先輩なのは変わらないです」
静かな沈黙。
しのぶはしばらく実を見つめていた。
そして——
ふっと笑う。
「……お前さ」
「はい?」
「ほんと、変なやつ」
そう言いながら、しのぶは実の肩に寄りかかった。
濡れた髪が実の頬に触れる。
「普通もうちょい悩むだろ」
「悩んでますよ」
「どこが」
「今めちゃくちゃ心臓うるさいです」
それを聞いて、しのぶは小さく笑った。
「……そっか」
少し間を置いて、静かに言う。
「ありがとな」
その声は、どこか安心したようだった。
実はしのぶの肩に手を回す。
体温が近い。
タオル越しに伝わる温もり。
さっき見た体のことが頭をよぎる。
でも、それ以上に思う。
——好きだな。
ただ、それだけだった。
しのぶが小さく呟く。
「……実」
「はい」
「もうちょいだけ」
「こうしてていいか」
実は優しく頷く。
「もちろんです」
静かな夜。
二人はソファの上で寄り添ったまま、しばらく動かなかった。
男でも女でもない。
普通の恋でもない。
それでも確かに、ここには二人の関係があった。
【翌朝】
カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
静かな部屋。
昨夜の熱気が嘘のように、穏やかな空気が漂っている。
実はゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと天井を見上げる。
見慣れない天井。
そしてふと、自分の体にかかる重みと温もりに気づいた。
横を見る。
すぐ隣に、しのぶが眠っていた。
同じベッドの上。
同じ布団の中。
そして——互いの距離はほとんどない。
「……っ」
昨夜の記憶が、一気に蘇る。
初めての夜。
お互いの体温。
触れ合った手。
しのぶの少し照れた顔。
実の頬がみるみる赤くなる。
「うわ……」
思わず顔を手で覆う。
その小さな動きに反応したのか、隣のしのぶがゆっくりと身じろぎした。
「……ん……」
低く、まだ眠そうな声。
そしてゆっくりと目が開く。
「……実?」
少し掠れた声で名前を呼ばれる。
その瞬間、二人の視線が合った。
沈黙。
ほんの数秒のことなのに、やけに長く感じる。
「……」
「……」
次の瞬間。
二人同時に、顔が真っ赤になった。
「っ!」
「……っ」
実は慌てて顔を背ける。
しのぶも思わず布団を少し引き上げる。
しばらくの間、部屋には妙な沈黙が流れた。
昨夜はあれだけ自然に触れ合っていたのに、朝になると急に気恥ずかしくなる。
実は枕をぎゅっと握りしめながら小さく呟く。
「……お、おはようございます」
少し震えた声。
それを聞いて、しのぶが小さく笑う。
「……おはよ」
声はまだ眠気を残していて、いつもの少し低いトーンだった。
少し間が空く。
実はちらっと横を見る。
しのぶも同じタイミングでこちらを見ていて、また目が合う。
「っ……!」
二人同時にまた赤面。
しのぶが思わず笑った。
「なんだよ、その反応」
「だ、だって……」
実は布団に半分顔を埋める。
「昨日……」
言いかけて、また顔が赤くなる。
しのぶは少し意地悪そうに目を細めた。
「昨日?」
「……いや……その……」
言葉が続かない。
しのぶはくすっと笑う。
「今さら恥ずかしがるなよ」
「恥ずかしいです!」
実が思わず反論する。
「先輩だって顔赤いじゃないですか!」
「……それは」
しのぶが少し視線を逸らす。
「まあ……多少はな」
その様子が、いつもの余裕ある先輩とは少し違って見えた。
実は少しだけ嬉しくなる。
しばらくして、しのぶがゆっくりと実の方へ体を向けた。
布団の中で、距離が少し近くなる。
「実」
「は、はい」
「……昨日さ」
しのぶの声は静かだった。
「後悔してない?」
その問いに、実は少し驚く。
「なんでそんなこと聞くんですか」
「いや……」
しのぶは少し困ったように笑う。
「お前、ゲイだろ」
「……はい」
「なのに俺とこうなって」
言葉を選びながら続ける。
「やっぱ違ったとか、思ってないかなって」
その表情には、ほんの少しだけ不安が見えた。
実は一瞬だけ考える。
そして——
首を横に振った。
「思ってません」
はっきりと答える。
しのぶが目を瞬かせる。
実は少し照れながら笑った。
「むしろ……」
「むしろ?」
「……幸せです」
その言葉に、しのぶの目が少し柔らかくなる。
「……ほんと変なやつ」
小さく呟く。
そして、しのぶはそっと実の頬に手を伸ばした。
指先が優しく触れる。
実の心臓がまた速くなる。
「実」
「はい」
「目、閉じろ」
言われるままに目を閉じる。
次の瞬間。
柔らかな感触が、唇に触れた。
朝の静かなキス。
昨夜のような激しさはない。
ゆっくりと、優しく、確かめるようなキス。
しばらくして、そっと唇が離れる。
実が目を開けると、すぐ近くにしのぶの顔があった。
まだ少し赤い頬。
でも、優しく微笑んでいる。
「……おはようのキス」
しのぶが照れ隠しのように言う。
実は思わず笑ってしまった。
「先輩」
「ん?」
「俺もいいですか」
「……何が」
実は少し顔を近づける。
「お返し」
しのぶが小さく息を漏らす。
「……好きにしろ」
その言葉を聞いて、実はそっとしのぶに口づけた。
短く、でも優しいキス。
離れると、二人ともまた少し赤くなる。
でもさっきより、空気はずっと柔らかかった。
朝の光が部屋を満たす。
同じベッド。
同じ布団。
そして、同じ温もり。
しのぶが小さく呟く。
「……なあ実」
「はい?」
「今日、会社休みたい」
実が笑う。
「ダメです」
「なんで」
「先輩、営業のエースじゃないですか」
しのぶが不満そうに唸る。
「こういう日はサボりたいんだよ」
「だめです」
「厳しいな」
二人は顔を見合わせる。
そしてまた、小さく笑った。
昨夜よりも、少し近くなった距離。
そんな朝だった。
・・・・・
あの夜から、月日は少しずつ進んでいた。
といっても、大きく何かが変わったわけではない。
朝になれば会社へ行き、
営業部の一員として忙しく働く。
羽鳥 しのぶは相変わらず仕事ができる先輩で、
黒崎 実はその後輩として隣で資料をまとめたり、取引先へ同行したりする。
会社では、二人の関係を知る者はいない。
だから——
「黒崎、この資料もう確認した?」
営業フロアで、いつもの少し低い声が飛んでくる。
「はい、先輩。修正したところ、メールで送ってあります」
実が振り向くと、しのぶは腕を組んでモニターを覗き込んでいた。
短い髪に、整ったスーツ姿。
少し鋭い目つき。
誰が見ても「仕事ができるクールな先輩」そのものだ。
しかし。
実はそれを見るたび、胸の奥が少しくすぐったくなる。
——この人、俺の恋人なんだよな。
そんなことを思うと、つい頬が緩みそうになる。
「……黒崎」
しのぶの声が低くなる。
「はい?」
「ニヤけてるぞ」
「えっ」
実は慌てて口元を押さえる。
「いや、そんなつもりじゃ……」
「仕事中だ」
しのぶは真顔で言う。
しかしその目は、ほんの少しだけ楽しそうだった。
「すみません」
実が小さく頭を下げる。
周りの同僚たちは、その様子を見て笑っていた。
「羽鳥先輩って黒崎に厳しいよな」
「ほんとそれ」
「でも黒崎もなんだかんだ楽しそうだけど」
そんな噂話が聞こえてくる。
実は少し苦笑した。
——厳しいのは事実だけど。
でも、それは恋人としての顔とは全然違う。
それを知っているのは、たぶん自分だけだった。
【金曜日の夜】
一週間の仕事を終え、会社を出る頃にはすっかり夜になっていた。
「お疲れ」
会社のエントランスを出たところで、しのぶが隣に並ぶ。
「お疲れ様です」
実は自然に笑顔になる。
「今日はどうする?」
しのぶが聞く。
その言葉の意味は、もう分かっている。
「先輩の家、行ってもいいですか」
しのぶは少しだけ口元を上げた。
「最初からそのつもりだろ」
「バレてました?」
「顔に書いてある」
そう言って歩き出す。
夜風が少し涼しい。
駅までの道を並んで歩く。
会社の近くでは距離を取っているが、人通りが少なくなると自然に距離が近くなる。
しのぶが小さく呟く。
「実」
「はい?」
「今週もよく頑張ったな」
その言葉は、仕事の先輩としてのものなのか、恋人としてのものなのか分からない。
でも、どちらでも嬉しかった。
「先輩こそ」
実は少し笑う。
「今週も格好よかったです」
「営業先でそれ言うなよ」
「言いませんよ」
二人は小さく笑い合った。
しのぶの家に着くと、いつもの落ち着いた空間が迎えてくれる。
初めて来たときは緊張したこの部屋も、今では少しずつ慣れてきた。
「飲む?」
冷蔵庫を開けながらしのぶが聞く。
「少しだけ」
ビールの缶を二つ持ってきて、ソファに座る。
「乾杯」
軽く缶を合わせる。
カシュッという音が静かな部屋に響いた。
一週間の疲れが、ゆっくりとほどけていく。
「……こういう時間、好きです」
実がぽつりと言う。
「ん?」
「なんか……落ち着くというか」
しのぶは少し考えてから頷いた。
「俺も」
それだけ言って、ビールを一口飲む。
しばらく二人は他愛もない話をする。
仕事のこと。
会社の同僚のこと。
最近見た映画のこと。
そんな普通の会話。
でも、それが心地いい。
やがて、しのぶがふっと実を見る。
「実」
「はい」
「そろそろ寝るか」
その言葉に、実の心臓が少しだけ速くなる。
週末の夜。
二人にとって、それは特別な時間だった。
「……はい」
実は少し照れながら頷く。
しのぶは立ち上がり、実の頭を軽く撫でた。
「そんな緊張すんな」
「してません」
「してる」
「……少しだけ」
それを聞いて、しのぶは笑う。
「正直だな」
そして、そっと手を取った。
「来い」
その一言だけ。
実はその手を握り返す。
あの夜から、二人の関係は少しずつ深まっていた。
平日は仕事をして、
週末にはこうして一緒に過ごす。
特別なことは何もない。
でも——
互いの温もりを確かめる夜が、確かにそこにある。
男でも女でもない関係。
普通とは少し違う恋。
それでも二人は、確かに恋人だった。
・・・・・
【月曜日の朝】
営業部のフロアは、いつものように忙しい空気に包まれていた。
電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、誰かがコピー機へ走る足音。
そんな中、黒崎実はパソコンに向かって資料をまとめていた。
「……よし、あと少し」
小さく呟きながら、グラフの数字を確認する。
今週の営業会議で使う資料だ。
先輩の羽鳥しのぶと一緒に担当している案件の進捗報告。
ミスは許されない。
そう思って集中していると——
「実」
低く落ち着いた声が、すぐ横から聞こえた。
「……はい?」
実は反射的に返事をした。
しかし、その瞬間。
営業部の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……え?」
隣の席の同僚が顔を上げる。
少し離れた席の女性社員も振り向く。
「……実?」
誰かが小さく繰り返した。
実はようやく気づく。
——あ。
ゆっくりと振り向く。
そこには、腕を組んだまま固まっているしのぶが立っていた。
そして。
しのぶ自身も、自分が何を言ったのか理解した瞬間だった。
「……」
「……」
二人の間に、数秒の沈黙。
そのあと、しのぶが小さく咳払いした。
「……黒崎」
言い直した。
しかし。
もう遅い。
営業部の数人がニヤニヤしている。
「羽鳥先輩?」
若手社員の一人が言う。
「今……」
「なんでもない」
しのぶが即座に遮る。
その声はいつもよりほんの少しだけ早口だった。
しかし、その耳がうっすら赤いのを、実は見逃さなかった。
「資料、できたか」
しのぶが淡々と続ける。
「え、あ、はい」
実も慌てて画面を見せる。
「このグラフなんですけど——」
話を続けようとした瞬間。
隣の席の同僚がニヤニヤしながら口を挟んだ。
「黒崎“実”くん?」
「っ……!」
実の顔が一瞬で赤くなる。
「いや、違うんです」
思わず弁解する。
「先輩がちょっと言い間違えただけで……」
「へえ」
別の社員が面白そうに言う。
「羽鳥先輩って、普段名字呼びしかしないですよね」
「だよな」
「珍しい」
しのぶは静かにため息をついた。
「……お前ら」
低い声。
営業部の空気が少しだけ引き締まる。
「仕事しろ」
ぴしっとした一言。
さすが営業エース。
その一言で、周囲は慌ててパソコンに戻る。
「はーい」
「すみません先輩」
そんな声が上がる。
しばらくして、フロアはまたいつもの空気に戻った。
しのぶは小さく息を吐く。
「……悪い」
実だけに聞こえる声で言った。
「え?」
「うっかりだ」
そう言って、少し視線を逸らす。
「つい家の感覚で呼んだ」
その言葉に、実の顔がまた赤くなる。
家の感覚。
つまり——
普段、二人きりのときは名前で呼ばれている。
それを思い出すだけで、少し恥ずかしい。
「……別にいいですけど」
実は小さく言う。
「ほんとに?」
「はい」
少し笑う。
「なんか……」
「なんか?」
「嬉しかったです」
その言葉に、しのぶが一瞬固まる。
「……は?」
「だって」
実は小声で続ける。
「会社で名前呼ばれるの、なんか特別な感じして」
しのぶはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「……バカ」
小声で言った。
でもその表情は、どこか柔らかかった。
「とにかく」
しのぶはいつもの調子に戻る。
「資料、あとで会議室で確認するぞ」
「はい」
実は元気よく頷いた。
そしてパソコンに向き直る。
しかし、画面を見ながらも、胸の奥が少しだけ温かい。
——実。
さっき呼ばれたその名前。
ほんのうっかりミスだったのに、妙に嬉しかった。
ふと横を見ると、しのぶは何事もなかったように書類をチェックしている。
けれど。
その耳が、まだ少し赤かった。
営業部の午後は、昼休みが終わると少しだけ静かになる。
午前中の外回りから戻った社員たちが、それぞれ席に着いて報告書を書いたり、電話をかけたりしている時間帯だ。
羽鳥しのぶはデスクに座り、ノートパソコンの画面を見つめていた。
……はずだった。
視線は画面のグラフを追っているが、意識の半分は別のところに向いている。
数メートル先。
黒崎実の席。
そしてその隣に立っている人物。
「だからさ、あの顧客の担当って結局誰になったの?」
明るい声で話しているのは、『高野 沙雪』。
営業部の女子社員で、実の同期だ。
肩までの髪を後ろでまとめた、元気な雰囲気の女性。
社内でも人当たりがよく、誰とでも気軽に話すタイプだ。
「えーっと、最終的には佐伯先輩のチームになったみたい」
実が資料を見ながら答える。
「やっぱり?あそこ大口だもんね」
「うん、俺もびっくりした」
二人は楽しそうに会話している。
ごく普通の、職場の同僚同士のやり取りだ。
……普通なら。
しのぶは視線を画面に戻す。
だが数秒後、またちらりとそちらを見る。
高野は実のデスクに軽く肘をついて、少し前かがみになっていた。
実はそれに気づいていないのか、普通に資料をめくっている。
「黒崎くんってさ」
高野が少し声を落とす。
「最近、なんか雰囲気変わったよね」
「え?」
実が顔を上げる。
「そうかな?」
「うん」
高野は少し笑う。
「なんか……余裕ある感じ?」
「余裕?」
「うん。前より楽しそう」
その言葉に、実は少し照れたように笑った。
「そうかなあ」
しのぶはその様子を横目で見ていた。
——まあ、仲はいい。
それは前から知っている。
同期だし、入社当時からよく話しているのも見てきた。
別にそれ自体は気にならない。
……気にならない、はずだった。
しかし。
最近、違和感がある。
しのぶは腕を組みながら、もう一度二人を見る。
高野の表情。
実を見るときの目。
ほんのわずかな仕草。
そして距離感。
(……あいつ)
心の中で呟く。
高野がふと笑いながら言う。
「黒崎くんってさ」
「ん?」
「彼女とかいないの?」
実が少し驚いた顔をする。
「え?」
「いや、なんとなく」
高野は軽い調子で続ける。
「最近モテそうだなーって思って」
実は苦笑する。
「いや、いないよ」
「ほんと?」
「うん」
しのぶの眉が、ほんのわずかに動いた。
(……ほう)
実はもちろん嘘をついている。
いや、嘘というか——。
会社では恋人のことを言っていないだけだ。
それは二人で決めたこと。
だからそれ自体は問題ない。
問題は——。
高野の反応だった。
「へえ」
高野は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。
ほんの一瞬。
だが。
(……やっぱりな)
しのぶの中で、何かが確信に変わる。
高野はそのまま続ける。
「じゃあさ」
「ん?」
「今度、同期で飲みに行かない?」
実が少し考える。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん」
しのぶの指が、机の上で軽く止まった。
(……ああ)
心の中で静かに呟く。
(やっぱり)
数秒、黙って二人を観察する。
高野は実と話すとき、少し体を傾ける。
笑うとき、実の目をじっと見る。
そしてさっきの質問。
——彼女いるの?
あれはただの雑談じゃない。
確認だ。
(……あいつ)
しのぶの目が少し細くなる。
(まさか……)
一瞬、そう思う。
しかしすぐに首を振る。
(いや)
そして確信する。
(間違いない)
胸の奥で、静かな警報が鳴る。
恋人としての感覚。
理屈ではなく、本能に近いもの。
(愛する者としての勘で分かる)
しのぶはゆっくりと息を吐く。
そして、もう一度高野を見る。
楽しそうに笑う顔。
実の話を聞くときの目。
距離の近さ。
(あいつは……)
心の中で静かに断言する。
(危険だ)
その瞬間。
高野がふと顔を上げ、しのぶと目が合った。
一瞬の沈黙。
高野は少し驚いたような顔をする。
しのぶは無表情のまま、軽く視線を逸らした。
だが。
その一瞬で、さらに確信した。
——ああ、やっぱりだ。
高野は、実を見ている。
ただの同期じゃない。
ただの同僚じゃない。
「……先輩?」
実の声が聞こえる。
しのぶが振り向く。
「この資料、あとで確認してもらえますか?」
「ああ」
しのぶは立ち上がる。
そして二人のデスクへ歩いていく。
「どれだ」
実がモニターを指す。
「このグラフなんですけど」
しのぶは画面を覗き込む。
その間、高野が少し横にずれる。
「羽鳥先輩、お疲れ様です」
「……ああ」
短く答える。
しのぶは資料を見ながら言う。
「ここ、数字が一つずれてる」
「あ、ほんとだ」
実が慌てて修正する。
高野はその様子を見ながら笑った。
「さすが羽鳥先輩」
しのぶはちらりと高野を見る。
その目は静かだった。
しかし心の中では、すでに決めていた。
(……気をつけないとな)
恋人として。
そして先輩として。
この状況を、少し注意して見ておく必要がある。
なぜなら——。
高野はまだ、諦めていない顔をしているからだ。
・・・・・
金曜日の夜。
一週間の仕事を終えた実は、いつものように電車を降りて、しのぶのマンションへ向かっていた。
街のネオンが少し眩しい。
夜風はまだ少し冷たく、春が近いことを感じさせる。
実はスマートフォンの画面をちらりと見る。
しのぶからのメッセージ。
『もう着くか?』
思わず少し笑う。
「いつもより早いな」
普段はもう少し淡泊なやり取りなのに、今日はやけに気にしている様子だった。
実は返信を打つ。
『あと五分くらいです』
すぐに既読がつく。
そして短い返信。
『待ってる』
その二文字だけなのに、なぜか少し胸がくすぐったくなった。
---
しのぶのマンションに着き、インターホンを押す。
「……実か」
すぐに、低い声がスピーカーから聞こえた。
「はい」
「開ける」
ロックが解除される音がして、実はエントランスへ入る。
エレベーターで上階へ向かい、いつもの部屋の前に立つ。
ドアをノックすると、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい」
そこに立っていたのは、しのぶだった。
部屋着のシャツに、ラフなパンツ。
仕事のときよりも少し柔らかい雰囲気。
実は自然に笑う。
「お邪魔します」
靴を脱いで部屋に入ると、ふわっとしのぶの香りがした。
もう何度も来ている部屋なのに、その匂いを感じると、少し安心する。
「仕事、どうだった?」
しのぶがキッチンの方へ歩きながら聞く。
「普通でした」
実はカバンをソファの横に置く。
「先輩は?」
「まあまあ」
そう答えながら、しのぶは冷蔵庫を開けた。
「飲むか?」
「少しだけ」
二人でソファに座り、軽くビールを飲む。
そんな時間も、もうすっかり週末の習慣になっていた。
仕事の話をしたり、同僚の話をしたり。
ごく普通の会話。
しかし今日は、どこか空気が違っていた。
しのぶがやけに静かだ。
話はしているが、どこか落ち着かない様子。
実は少し気になって聞く。
「先輩?」
「ん?」
「なんか……元気ないですか?」
しのぶは一瞬だけ驚いた顔をする。
「そうか?」
「ちょっとだけ」
しのぶはビールを一口飲み、少し考えるように視線を落とした。
そしてふっと笑う。
「……いや」
「ただ」
そこで言葉を止める。
実が首をかしげる。
「ただ?」
しのぶはそのまま実の方を見た。
その目は、いつもより少しだけ真剣だった。
「実」
「はい」
「今日は……」
しのぶはゆっくりと距離を詰める。
ソファの上で、体が近づく。
「お前に会いたかった」
その声は、低く静かだった。
実の心臓が少し速くなる。
「……俺もです」
そう答えた瞬間。
しのぶの手が、実の頬に触れた。
指先が優しくなぞる。
そして、そのまま引き寄せられた。
唇が重なる。
突然のキス。
しかし、それはいつもより少しだけ強かった。
実は少し驚く。
「せ、先輩……?」
唇が離れる。
しかし、しのぶはそのまま実を見つめていた。
目が少しだけ熱を帯びている。
「……悪い」
小さく呟く。
「今日ちょっと……」
言葉を探すように息を吐く。
「なんか我慢できない」
その言葉に、実の顔が少し赤くなる。
しのぶはそのまま実を抱き寄せた。
腕の力が、いつもより少し強い。
「実」
「は、はい」
「もう少し近く来い」
その声には、普段よりも強い感情が混ざっていた。
実は少し戸惑いながらも、その胸に身を預ける。
しのぶの鼓動が、はっきりと聞こえる。
少し速い。
「先輩……?」
「……ん?」
「なんか今日」
実は小さく言う。
「いつもより……」
言葉を選ぶ。
「情熱的ですね」
その言葉に、しのぶが小さく笑う。
「そうかもな」
そして、実の髪をそっと撫でる。
その仕草は優しいのに、どこか強い感情が混ざっている。
実はふと、昼間の職場のことを思い出した。
高野のこと。
しかし、今はそれを口にする雰囲気ではない。
しのぶは実の肩に顔を埋め、小さく息を吐いた。
「……今日は」
静かな声。
「お前、俺のそばにいろ」
実は少し驚きながらも頷く。
「……はい」
その答えを聞くと、しのぶはもう一度実を抱きしめた。
腕の力は、さっきより少し強い。
まるで確かめるように。
離さないように。
実はその理由をまだ知らない。
だが一つだけ分かる。
今夜のしのぶは、いつもより少しだけ激しく、そして必死に、自分を求めている。
・・・・・
浴室には柔らかな湯気が立ちこめていた。
浴槽の湯は肩までしっかりと浸かれる温度で、体の奥までゆっくりと温めてくれる。
実としのぶは並んで湯船に浸かっていた。
さっきまでの熱い時間が嘘のように、今は静かで落ち着いた空気が流れている。
「……ふぅ」
しのぶが小さく息を吐いた。
「気持ちいいですね」
実も肩まで沈みながら言う。
「そうだな」
浴室の壁に水滴がつき、湯気で視界が少しぼやけている。
しばらく二人は黙ったまま湯に浸かっていた。
しかし、やがてしのぶがぽつりと呟く。
「……悪かったな」
「え?」
実が振り向く。
「何がですか?」
しのぶは少し視線を逸らした。
「今日」
少し間を置いて続ける。
「……ちょっと暴走したろ?」
その言い方に、実は思わず笑ってしまう。
「暴走って」
「いや、だって」
しのぶは困ったように頭を掻く。
「自分でも分かってる」
「いつもより……その」
言葉を濁す。
「……強かっただろ」
実は少しだけ顔を赤くする。
「まあ……」
「まあ?」
「……少し」
正直に答えると、しのぶが苦笑する。
「やっぱりな」
そして、しばらく湯面を見つめていた。
湯が小さく揺れる。
やがて、ぽつりと呟く。
「……嫉妬した」
「え?」
実は少し驚く。
「嫉妬?」
しのぶは観念したように息を吐く。
「職場でさ」
「ああ」
実はすぐに思い当たる。
「高野のことですか」
しのぶは小さく頷いた。
「……見てたんだ」
「何を?」
「お前らが話してるの」
実は苦笑する。
「同期ですから」
「分かってる」
しのぶはすぐに言う。
「そんなの分かってるんだよ」
しかし、その声はどこか不満そうだった。
「でも」
しのぶは少し眉を寄せる。
「なんか最近、あいつの目が気になって」
実は少し驚く。
「目?」
「……あいつ」
しのぶは静かに言う。
「お前のこと好きだろ」
実は目を瞬かせる。
「え?」
「多分な」
しのぶは湯面を見ながら続ける。
「確信はないけど」
「でも……分かる」
その声は静かだった。
「恋人の勘ってやつ」
「フフ、なんですかそれ……」
実は思わず笑ってしまう。
「そんな顔するな」
しのぶが少し不満そうに言う。
「いや」
実は慌てて手を振る。
「可笑しくて笑ったわけじゃなくて」
少し考えてから言う。
「先輩が嫉妬してるの、ちょっと嬉しくて」
しのぶがこちらを見る。
「嬉しい?」
「はい」
実は真面目な顔で頷く。
「だって」
湯船の中で、そっとしのぶの手に触れる。
「先輩、俺のことそんなに好きなんだなって」
しのぶの目が少し柔らかくなる。
「……バカ」
小さく言う。
「当たり前だろ」
少し照れたように視線を逸らす。
「お前は……」
言葉を選ぶ。
「特別なんだから」
その言葉に、実の胸がじんわりと温かくなる。
実は少しだけ姿勢を正す。
そして、真面目な声で言った。
「先輩」
「ん?」
「安心してください」
しのぶが首を傾ける。
「何を?」
実はしのぶの目をまっすぐ見て言う。
「俺がこの世で生涯愛するのは」
一度言葉を区切る。
そして、はっきりと言った。
「たった一人……しのぶ先輩だけですから」
浴室の空気が、一瞬静かになる。
湯気の向こうで、しのぶが固まっていた。
「……お前」
少しして、低く呟く。
「それ……」
「はい?」
「ずるいだろ」
顔を少し赤くしている。
実は首をかしげる。
「そうですか?」
「そうだ」
しのぶはため息をつく。
「そんなこと言われたら」
小さく笑う。
「もう怒れないじゃないか」
そして、しのぶは手を伸ばし、実の頭をくしゃっと撫でた。
「……ほんと」
優しく呟く。
「変なやつだよ、お前」
実は少し照れながら笑う。
「先輩もですよ」
「俺?」
「はい」
実は少し目を細める。
「嫉妬するくらい、俺のこと好きなんですから」
その言葉に、しのぶは一瞬だけ言葉を失う。
そして、ふっと笑った。
「……否定できないな」
湯船の中で、二人の肩が軽く触れ合う。
湯気の中、静かな夜が続いていた。
嫉妬も、不安も、全部含めて。
二人は確かに、恋人だった。
第二章
ある金曜日の夜。
会社の近くの居酒屋は、いつもより賑やかだった。
今日は営業部部長の定年退職の送別会。
長年会社を支えてきた部長の門出ということもあり、部署のメンバーはもちろん、他部署の人間まで集まり、かなりの人数になっていた。
「荻野部長!長い間お疲れさまでした!」
「いやいや、まだ元気だからな!人生まだまだこれからよ!」
グラスが何度もぶつかり合い、店内は笑い声で満ちている。
乾杯が終わり、宴会は一気に盛り上がっていた。
「実くん、こっち空いてるよ」
席を探していた実に声をかけたのは、高野だった。
「おう、ありがとう」
実は軽く会釈して、その席に座る。
すると、高野は自然な動作でその隣に座った。
「今日は結構人多いね」
「だな」
実はグラスを持ちながら答える。
高野はにこにこと笑いながら話しかけてくる。
同期ということもあり、会話は自然と弾んでいく。
「そういえばこの前の資料、助かったよ」
「いやぁ、そんな」
「実くん仕事できるよね」
「普通だよ」
そんな会話をしながら、料理を取り分けたり、グラスを空けたり。
高野は、まるで最初からそこが自分の席だったかのように、ずっと実の隣をキープしていた。
その様子を、少し離れた席から見ている人物がいた。
しのぶだ。
(高野のヤツ……ちゃっかりしてるなぁ)
心の中でそう思う。
以前の自分なら、きっと落ち着かなかっただろう。
高野が実の隣にいる。
楽しそうに笑っている。
そんな光景を見れば、胸の奥がざわついていたに違いない。
だが今日は違った。
「部長、どうぞ」
しのぶは席を立ち、部長のところへ行く。
徳利を手に取り、静かにお酌する。
「おお、羽鳥君」
部長が嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「いえ。長い間本当にお疲れさまでした」
しのぶは礼儀正しく頭を下げる。
「ははは、堅いなあ」
部長はグラスを持ちながら言う。
「もっと気楽にしていいんだぞ」
「そういうわけには」
しのぶは少し笑った。
グラスに酒を注ぎながら、ふと実の方を見る。
高野が何か話している。
実は相変わらず穏やかな顔でそれを聞いている。
――でも。
しのぶの胸は、驚くほど静かだった。
数日前のことを思い出す。
湯船の中。
真っ直ぐな目で言われた言葉。
『安心してください』
『俺がこの世で生涯愛するのはたった一人』
『しのぶ先輩だけですから』
思い出すと、少しだけ顔が熱くなる。
――ほんと、あいつは。
心の中で苦笑する。
あんなことを真顔で言われたら。
もう、疑う気にもならない。
「羽鳥君?」
部長の声で我に返る。
「はい」
「どうした、ぼーっとして」
「すみません」
しのぶは軽く頭を下げる。
「いやいや」
部長は笑う。
「若いんだから、もっと楽しめ」
「ありがとうございます」
しのぶは徳利を置き、グラスを持った。
そのまま軽く周囲と乾杯する。
笑い声が広がる。
遠くで実の笑い声も聞こえた。
しのぶはその方向をちらりと見る。
目が合う。
実が少し驚いた顔をして、それから軽く笑った。
しのぶも小さく笑い返す。
その表情には、焦りも苛立ちもない。
ただ、穏やかな余裕があった。
――まあ。
しのぶはグラスの酒を一口飲む。
――好きにさせとけ。
どうせ最後に帰る場所は。
こっちなんだから。
・・・・・
宴もたけなわとなり送別会が終わった後、二次会へ行く者と帰る者に分かれ、徐々に解散していった。
夜風が少し冷たい。
店の前には社員たちが固まり、酔いの回った声で笑いながら別れの挨拶をしている。
「じゃあ部長、またゴルフ行きましょう!」
「ははは、いいなそれ!」
賑やかな声が夜の街に響く。
その中で、実は少し離れたところに立っていた。
すると後ろから声がする。
「実くん」
振り向くと、高野だった。
「少しいい?」
その声は、いつもより少しだけ真剣だった。
「いいけど……」
実は頷く。
「どうかした?」
高野は周囲をちらりと見てから言った。
「ううん、ちょっと……歩かない?」
「え?」
「人多いし」
確かに店の前はまだ騒がしい。
実は特に疑問も持たず、頷いた。
「ああ、分かった」
二人は店から少し離れた通りへ歩いていく。
夜の道は静かだった。
居酒屋の明かりだけが遠くで賑やかに光っている。
少し歩いたところで、高野が足を止めた。
「ここでいいや」
「ん?なんかあるの?」
実がそう聞くと、高野は少し俯いた。
指をぎゅっと握っている。
明らかに緊張していた。
「……あのさ」
高野はゆっくり顔を上げる。
その目は真剣だった。
「前から言おうと思ってたんだけど」
実は少しだけ表情を引き締める。
高野は深呼吸をした。
そして、言った。
「私、実くんのこと好き」
夜の空気が一瞬止まったように感じた。
実は目を瞬かせる。
「……え」
高野は続ける。
「最初は同期としてだったけど」
「優しいし、仕事できるし」
少し笑う。
「なんか気づいたら、ずっと目で追ってた」
声が少し震えている。
「今日も隣に座ったの、わざと」
実は何も言えない。
高野は真っ直ぐ実を見て言った。
「だから」
「よかったら私と――」
そこまで言いかけたとき。
実は静かに口を開いた。
「……高野」
その声は、優しかった。
しかし、少しだけ困っていた。
「気持ちは嬉しい」
高野の目が少しだけ明るくなる。
だが、次の言葉でその光は止まった。
「でもさ」
実はゆっくり続ける。
「実は俺……」
少しだけ視線を落とす。
そして、はっきりと言った。
「前は恋人いないなんて言ったと思うけど……実はもう恋人がいてさ」
高野の顔が固まる。
「悪いけど、高野とは付き合えない」
静かな声。
「……ごめん」
その言葉が夜の空気に落ちた。
数秒の沈黙。
高野は動かなかった。
そして――
「……そっか」
小さく呟く。
笑おうとする。
しかし、うまく笑えない。
「……だよね」
声が震える。
「そんな気、してた」
目に涙が溜まる。
「でもさ」
必死に言葉を繋ぐ。
「もしかしたらって……」
声が詰まる。
そして、とうとう――
「……っ」
ぽろり、と涙が落ちた。
「高野?」
実が慌てる。
しかし次の瞬間。
高野はその場でしゃがみ込み、泣き崩れてしまった。
「……っ……」
肩が震えている。
「ごめん……ちょっと無理……」
泣きながら言う。
実は完全に動揺していた。
「え、えっと……!」
どうしていいか分からない。
手を出していいのか、声をかけるべきか。
完全におたおたする。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……」
高野は涙を拭きながら言う。
「わかってたのに……」
「実くん優しいから」
「余計に好きになっちゃった……」
実は困った顔で立っていた。
どう慰めればいいのか分からない。
「……えっと」
言葉を探す。
「高野は」
少し考えてから言う。
「いい人だから」
高野が泣きながら笑う。
「それフラれた時のテンプレじゃん……」
「……あ」
実はまた焦る。
「ごめん」
高野は涙を拭く。
まだ少し泣いている。
「でも」
深呼吸する。
「ちゃんと言ってくれてありがとう」
実を見る。
「曖昧にされるより、ずっといい」
実は少しほっとする。
「……そっか」
高野はゆっくり立ち上がる。
目は赤いが、さっきより落ち着いていた。
「今日はもう帰る」
「送る?」
実が言う。
すると高野は首を振った。
「いい」
少し笑う。
「今は一人で帰りたい」
実は少し迷ったが、頷いた。
「……分かった」
高野は一度だけ実を見た。
「実くん」
「はい」
「その人」
少しだけ寂しそうに笑う。
「大事にしなよ」
「うん」
実ははっきり頷いた。
高野は背を向け、夜の街へ歩いていった。
その背中を、実はしばらく見送っていた。
・・・・・・
送別会の店から少し離れた通り。
街灯の下で、高野の背中が夜の街へ消えていく。
実はその背中をしばらく見送っていた。
「……」
胸の奥が少しだけ重い。
振った側とはいえ、あんな風に泣かれると、やはり気持ちは穏やかではない。
「大丈夫かな……」
小さく呟く。
だが、追いかけるべきか迷った末、結局その場に立ったままだった。
高野が「一人で帰りたい」と言った以上、無理に追うのも違う気がした。
実は深く息を吐く。
そして、帰ろうとしたそのとき。
「……実」
背後から声がした。
聞き慣れた低い声。
実は振り向く。
「先輩?」
そこには、しのぶが立っていた。
街灯に照らされて、少し影が長く伸びている。
「まだいたんですね」
実が少し驚いて言う。
「二次会行ったんじゃ……」
「行ってない」
しのぶは静かに答えた。
そして、少し間を置いてから言う。
「……見てた」
実は目を瞬かせる。
「え?」
「さっきの」
しのぶは視線を少しだけ横に向ける。
「あの子の告白」
実の目が大きくなる。
「……見てたんですか?」
「全部じゃない」
しのぶは正直に言う。
「でも、大体は」
少し苦笑する。
「悪いな」
「盗み聞きするつもりはなかったんだけど」
「帰ろうとしたら、たまたま二人がどこか行こうとしたの見かけてさ」
実は少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「なんか……」
「気まずいですね」
しのぶは小さく笑う。
「まあな」
少し沈黙が流れる。
夜の風が静かに通り過ぎる。
やがて、しのぶがぽつりと言った。
「……はっきり断ったな」
実は頷く。
「はい」
「優しくするかと思った……どっちかっていうと曖昧にするタイプだろ、お前」
その言葉に実は少し考える。
「それも思ったんですけど……でも」
実はまっすぐ言う。
「それって相手に失礼じゃないですか」
しのぶは目を細める。
実は続ける。
「期待させる方が、もっと残酷だと思うんで……だからちゃんと言いました」
しのぶは静かに頷いた。
「……偉いな」
「そうですか?」
「ああ」
少し笑う。
「ちゃんと男だ」
その言葉に、実は照れくさそうに笑う。
「でも」
実は少しだけ真面目な顔になる。
「泣かれると、やっぱりきついですね」
「だろうな」
しのぶは頷く。
「それだけ好きだったんだろ、お前のことが」
実は小さく息を吐く。
「……そうですね」
そして、ふとしのぶを見る。
「先輩」
「ん?」
「怒ってないんですか?」
しのぶが少し眉を上げる。
「何を」
「その」
実は少し困ったように笑う。
「高野が俺に告白したこと」
しのぶは一瞬だけ黙る。
それから、ふっと笑った。
「怒る理由あるか?」
「え?」
「告白したのはあいつだろ」
肩をすくめる。
「お前じゃない」
「それに」
少しだけ顔を逸らす。
「断ったんだろ」
「……はい」
「だったら問題ない」
その言葉はとてもシンプルだった。
実は少し驚く。
「先輩」
「ん?」
「なんか今日」
少し笑う。
「すごく余裕ありますね」
しのぶは一瞬だけ言葉に詰まる。
そして小さくため息をついた。
「……そりゃな」
実の方を見る。
「お前がこの前」
言葉を思い出すように言う。
「俺一筋とか言うから」
実の顔が一瞬で赤くなる。
「あ……」
「思い出したか」
「……はい」
しのぶは軽く笑う。
「そんなこと言われてまだ疑ってたら、俺ただのバカだろ」
実は少しだけ照れながら笑う。
「先輩」
「ん?」
「聞いてて恥ずかしかったですか?」
しのぶは即答した。
「めちゃくちゃ恥ずかしかった」
実が吹き出す。
「ですよね」
「でも」
しのぶは少しだけ真面目な顔になる。
「……嬉しかった」
小さく言う。
「お前がちゃんと断ってくれて」
その言葉に、実の胸が温かくなる。
「当たり前ですよ」
実は真っ直ぐ言う。
「先輩いるのに」
少し笑う。
「浮気なんてしません」
しのぶはその言葉を聞いて、ふっと笑った。
「……知ってる」
そして、しのぶは軽く実の肩を叩く。
「帰るぞ」
「はい」
二人は並んで歩き出す。
夜の街をゆっくりと。
少しだけ距離は近い。
そして、どちらも分かっていた。
今夜、二人の絆はまた少しだけ強くなったことを。
・・・・・
それから数日。
会社では、いつも通りの仕事が続いていた。
「実くん、この資料確認お願い」
「分かった」
「あとこのデータも共有しておいたよ」
「ありがとう」
声をかけてきたのは、高野だった。
あの日のことが嘘のように、普通のトーンだった。
実も特に気負うことなく答える。
「ここ、数字少しズレてますね」
「あ、本当だ」
高野は画面を覗き込む。
「助かった」
軽く笑う。
以前と変わらない距離感。
もちろん、完全に何もなかったわけではない。
最初の数日は、少しだけぎこちなかった。
だが高野が大人だった。
仕事では一切引きずらない。
今では完全に――
“いち同僚”
として自然に接していた。
実は内心で少しだけ安心していた。
その日の昼休み。
しのぶが実のデスクに来る。
「実」
「先輩」
「明日から二日くらい休む」
実は目を瞬かせる。
「有給ですか?」
「ああ」
しのぶは頷く。
「従姉妹の結婚式、名古屋の実家帰る」
「へえ」
実は少し驚く。
「先輩、名古屋なんですね」
「言ってなかったか?」
「初耳です」
しのぶは肩をすくめる。
「まあ、どうでもいい情報だろ」
「そんなことないですよ」
実は笑う。
「結婚式ですか」
「そう」
しのぶは少しだけ苦笑する。
「親戚に会うの、めんどくさいけどな」
「でもお祝いですし」
「まあな」
しのぶは軽く頷く。
「じゃあ二日、仕事頼む」
「了解です」
実は軽く敬礼する仕草をした。
しのぶは小さく笑って席へ戻った。
……しのぶが地元に戻った日の夜。
実は自宅のソファでスマートフォンを見ていた。
すると、通知が鳴る。
メッセージアプリ。
送信者は――しのぶ。
『結婚式終わった』
その下に、写真が一枚送られていた。
実は何気なく開く。
そして――
「……え?」
思わず声が出た。
画面に写っていたのは、しのぶだった。
だが、普段の姿とはまったく違う。
フォーマルなドレス。
肩が出る上品なネイビーのワンピース。
髪はきれいにセットされ、軽く巻かれている。
そして――
しっかりしたメイク。
普段会社で見るナチュラルな姿とは違う、華やかな化粧。
隣には純白のウエディングドレスを着た従姉妹が笑っている。
二人で並んで写っている写真。
しかし実の視線は完全に――
しのぶに釘付けだった。
「……え、誰?」
思わず呟く。
もちろん誰かは分かっている。
だが、普段とのギャップが凄すぎた。
しばらく画面を見つめる。
そして、スマホがまた震える。
しのぶから追加メッセージ。
『親戚に撮られた』
『送れってうるさいから送る』
実は少し笑う。
そしてもう一度写真を見る。
「……綺麗すぎるだろ」
思わず呟く。
会社では落ち着いた雰囲気の先輩。
家では少し砕けた姿。
でもこの写真は――
まるで別人だった。
大人の女性。
それも、かなり綺麗な。
実は少しドキドキしながら返信を打つ。
『先輩』
すぐ既読がつく。
『ん?』
実は少し迷ってから送る。
『めちゃくちゃ綺麗です』
数秒。
返信が止まる。
そして――
『……』
『やめろ』
実は笑う。
しかし次のメッセージでさらに笑ってしまう。
『親戚にも従姉妹にも同じこと言われて』
『めちゃくちゃ恥ずかしかった』
実は写真をもう一度見た。
ネイビーのドレス。
きれいなメイク。
普段見ない女性の顔。
胸の奥が少し熱くなる。
実はゆっくりと打つ。
『でも本当です』
『惚れ直しました』
既読。
数秒。
そして――
『……バカ』
その短い返信に、実は思わず笑った。
しかしその直後。
もう一枚写真が送られてくる。
少し近い距離で撮られたしのぶの写真。
少し照れているような顔。
そしてメッセージ。
『これ以上言うと』
『次会ったとき覚悟しとけ』
実はスマホを見ながら、少し顔を赤くした。
「……望むところです」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
するとまた、しのぶからメッセージ。
実はすぐに開く。
『後さ、ウチの両親に彼氏いるって言ったら会いたいってうるさい』
「……え?」
思わず体を起こす。
メッセージは続く。
『次の連休使って紹介したいんだけど』
『どう?』
実はしばらく画面を見つめたまま固まっていた。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
両親。
紹介。
彼氏。
つまり――
「……挨拶?」
思わず呟く。
恋人の親に会う。
それはかなり大きな意味を持つ出来事だ。
実は少し緊張しながら返信を打つ。
『えっと』
すぐ既読がつく。
『嫌ならいい』
その言葉に、実は慌てて打つ。
『嫌じゃないです』
『むしろ嬉しいです』
少し間が空く。
そして返事が来る。
『そうか』
『よかった』
その短い文章の奥に、少しだけ安心した空気があった。
実は少し考えてから、もう一つ送る。
『でも』
既読。
『緊張します』
数秒後、返信。
『俺も』
実は思わず笑ってしまう。
『先輩でも緊張するんですか』
すぐに返事。
『当たり前だろ』
『恋人紹介するの初めてなんだから』
実は少し驚く。
『初めてなんですか?』
『そう』
そして少し間を置いてから、次のメッセージが送られてくる。
『あと一応言っとくけど』
『ウチの親』
『俺のこと』
『ボーイッシュな女の子だって思ってる』
実は一瞬だけ真顔になる。
それは、つまり――
しのぶがトランスジェンダーであることを、両親は知らないということだ。
メッセージは続く。
『別に隠してるわけじゃないけど』
『言うタイミングなくてそのまま』
『だから』
少し間が空く。
『普通の彼氏として紹介することになる』
実はゆっくり息を吐いた。
そして打つ。
『分かりました』
すぐ既読がつく。
実は続けて送る。
『大丈夫です』
『俺、先輩の恋人ですから』
数秒後。
しのぶから返信。
『……』
『お前ほんと』
『そういうとこズルい』
実は少し笑う。
しかし次のメッセージで、今度は自分が固まる。
『ちなみにウチの母親』
『めちゃくちゃお喋りで色々と質問してくるだろうから』
『覚悟しとけ』
実は思わず天井を見上げた。
「……やばそう」
正直、少し怖い。
だが不思議と嫌ではなかった。
むしろ――
「先輩の家族か」
小さく呟く。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
スマホがまた震える。
『まあでも』
『実なら大丈夫だろ』
短いメッセージ。
その言葉を見て、実は少し照れながら笑った。
そして返信を打つ。
『頑張ります』
既読。
そして最後のメッセージ。
『楽しみにしてる』
その文字を見て、実の心臓が少しだけ速くなった。
・・・・・
【連休初日】
実は朝早く、新幹線に乗っていた。
窓の外を流れていく景色。
東京の街並みが、徐々に郊外へと変わっていく。
実は座席に座りながら、少しだけ落ち着かない気持ちでスマホを握っていた。
(先輩の実家か……)
恋人の両親に会う。
人生でもそう何度も経験することではない。
しかも今回は――
しのぶの家族は、しのぶのことを「ボーイッシュな女の子」だと思っている。
つまり自分は“娘の彼氏”。
「……大丈夫かな」
思わず小さく呟く。
その時、スマホが震えた。
しのぶからのメッセージ。
『今どこ』
実はすぐ返信する。
『もうすぐ名古屋です』
既読。
『改札出たところで待ってる』
その短いメッセージに、少し緊張が和らぐ。
「よし」
実は小さく気合を入れた。
新幹線が駅に到着する。
人の流れに乗ってホームへ降りる。
改札を抜けると――
「実」
すぐに声がした。
実が顔を上げる。
そこには、しのぶが立っていた。
白いブラウスにロングスカート。
髪は軽くまとめている。
普段の会社の雰囲気より、どこか柔らかい格好だった。
「先輩」
実は少し安心したように笑う。
「来ました」
「見れば分かる」
しのぶは軽く笑う。
そして少し照れたように言う。
「……来てくれてありがとな」
「当然ですよ」
実はすぐ答える。
「恋人ですから」
しのぶは少しだけ顔を逸らす。
「……そういうの、外で言うな」
「え、なんでですか」
「恥ずかしい」
実は思わず笑った。
「はいはい」
しのぶは咳払いする。
「とりあえず家行くぞ」
「はい」
二人は駅を出て、電車に乗り、住宅街へ向かった。
しのぶの実家は、落ち着いた住宅街の中にある一軒家だった。
「ここ」
しのぶが家の前で言う。
実は軽く深呼吸する。
「緊張してきました」
「俺も」
しのぶが即答する。
二人で少し笑った。
そして玄関の扉が開く。
「しのぶー?」
中から女性の声。
「おかえり」
現れたのは、優しそうな女性だった。
しのぶの母親だ。
「あ、あの」
実はすぐ頭を下げる。
「はじめまして、黒崎 実と申します」
母親の顔がぱっと明るくなる。
「あら!」
「あなたが実くん?」
「はい」
「まあまあ!」
嬉しそうに笑う。
「遠いところ来てくれてありがとうね!」
その奥から、もう一人出てくる。
「帰ったか」
落ち着いた声の男性。
しのぶの父親だった。
「この子が?」
母親が頷く。
「そう、実くん」
父親は実をじっと見てから、穏やかに言った。
「ようこそ」
「ゆっくりしていきなさい」
実は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
思っていたよりも、ずっと温かい空気だった。
玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。
その時――
リビングの方から声がした。
「おおー!」
元気な声。
「来た来た!」
実が振り向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。
明るい雰囲気の女性。
そして、実はすぐ気づく。
結婚式の写真で見た顔。
「……あ」
女性はニヤニヤしながら言う。
「うちさぁ、しーちゃんの彼氏ってどんなんか気になって……見に来てしもうたがね」
名古屋弁でニカっと笑う彼女に対し、しのぶは少し顔をしかめる。
「……伊咲」
実はすぐ理解した。
この人は――
伊咲。
先日結婚したばかりの従姉妹だ。
伊咲は実をじろじろ見てくる。
「へぇ〜優しそうな子だがね~」
そしてニヤッと笑う。
「しーちゃん、こんな可愛い彼氏捕まえとったんだ」
しのぶがすぐツッコむ。
「うるさい」
伊咲は笑う。
「まぁまぁ、そんな怖い顔せんで……」
そして実に手を振る。
「初めまして、伊咲です……しーちゃんの従姉妹」
実は少し緊張しながらも頭を下げた。
「実です」
伊咲は面白そうに言う。
「しーちゃん、この子めっちゃ真面目そうだがね」
そして小声で実に言う。
「大変じゃない?この子、昔から頑固だで」
しのぶが即座に言う。
「伊咲、聞こえてんで」
リビングに笑い声が広がる。
実は少しだけ肩の力を抜いた。
――なんだか。
「いい家族だな」
そう思いながら、しのぶの実家での時間が始まった。
早速家の中へお邪魔させてもらう、リビングのテーブルには、豪華な料理が並んでいた。
大皿いっぱいの寿司。
香ばしい香りのひつまぶし。
味噌汁に小鉢、漬物まで。
実は思わず目を丸くする。
「……すごい」
思わず声が出た。
しのぶの母親が嬉しそうに笑う。
「彼氏が来るって聞いたら、張り切っちゃってねぇ…お父さんも舞い上がって特上握りなんて頼んでまって」
「いやぁ、なんか悪いですね……」
実は申し訳なさそうに言うと、父親が頷く。
「まぁまぁ、遠くから来てくれたんだからな!腹いっぱい食べていきなさい」
「ありがとうございます」
実は深く頭を下げた。
隣でしのぶが小さく笑う。
「遠慮なく食えよ…うちの親、こういうの張り切るタイプだから」
「はい」
そして全員で席につく。
「いただきます」
食事が始まった。
実はひつまぶしを一口食べる。
「……美味しい」
思わず本音が漏れる。
母親が嬉しそうに言う。
「本当?」
「めちゃくちゃ美味しいです」
伊咲も笑う。
「でらうまいだら?」
そして寿司も食べる。
「これも美味しい」
「よかった〜」
母親が満足そうに頷く。
しかし次の瞬間――
母親の目がキラリと光った。
「実くん」
「はい?」
「年はいくつ?」
「えっと、二十八です」
「あら、じゃあしのぶの一個下ね……仕事は営業だったよね?」
「はい」
「しのぶとはいつ知り合ったの?」
「職場です」
「付き合ってどれくらい?」
「えっと……」
質問が止まらない。
「実くんの実家はどこ?」
「ご兄弟は?」
「趣味は?」
「休みの日は何してるの?」
「食べ物の好き嫌いは?」
実は一つ一つ丁寧に答えていく。
「実家は埼玉です」
「一人っ子で」
「趣味は映画で」
しかし――
質問の勢いがすごい。
まるで面接のようだった。
伊咲が笑いながら言う。
「おばちゃん始まったがね」
父親も苦笑している。
実は必死に答える。
「映画はよく観ます」
「最近だと――」
「しのぶのどこが好き?」
突然の質問。
実が固まる。
「え」
顔が赤くなる。
母親は真剣な顔。
「そこ大事でしょ」
実は完全に照れていた。
「えっと……」
隣でしのぶが小さくため息をつく。
そしてフォローに入る。
「母ちゃん」
少し呆れた声。
「そんないっぺんに聞いたら」
箸を持ちながら言う。
「答えられんにぃ」
母親が「あら」と笑う。
「そう?」
しのぶは実を見る。
「気にすんな」
「母ちゃん昔からこうなんだ」
実は少し笑った。
「大丈夫です」
そして母親を見る。
「えっと……」
少し照れながら言う。
「先輩は」
しのぶの方を見る。
「優しくて」
「面倒見よくて」
「あと」
少し考えてから笑う。
「かっこいいところです」
しのぶが一瞬固まる。
伊咲がニヤニヤする。
「おお〜、惚気だがねぇ」
母親も嬉しそうに笑う。
「まあ!」
しのぶは顔を赤くして言う。
「……実」
「はい?」
「それ」
小さく言う。
「今言う必要あったか」
実は笑った。
「本当のことですから」
その言葉に、食卓にまた笑いが広がった。
温かい空気の中。
しのぶの家族との時間は、穏やかに過ぎていった。
・・・・・
夕食も終わり、食器の片付けもひと段落した頃。
しのぶの母親が言った。
「実くん、今日は泊まっていくんでしょ?」
「はい、お言葉に甘えて」
実は少し頭を下げる。
父親も頷く。
「東京は遠いでなぁ、ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます」
その横で伊咲が笑う。
「しーちゃんの部屋、まだそのままだで」
しのぶが少し嫌そうな顔をする。
「余計なこと言うな」
母親が言う。
「実くんに案内してあげなさい」
「……はいはい」
しのぶは軽くため息をついた。
「実、こっち」
「はい」
二人は廊下を歩き、階段を上る。
二階の突き当たりの部屋の前で、しのぶが止まる。
「ここ」
ドアを開ける。
「どうぞ」
実が部屋を覗く。
「……おお」
思わず声が出た。
そこは、いかにも学生の部屋という雰囲気だった。
本棚。
机。
ベッド。
壁にはいくつかの写真。
勉強机の上には昔の文房具や小物。
しのぶが少し照れたように言う。
「ほとんど変わってない、親がそのままにしてる」
実は部屋の中をゆっくり見回す。
「先輩の部屋か」
なんだか新鮮だった。
会社では見られない一面。
その時、棚の上にあるものが目に入る。
「……あれ」
実が指をさす。
「トロフィー?」
棚の中央に、金色のトロフィーが飾られていた。
「ああ……」
しのぶが少し気まずそうに言う。
「中学のやつ」
実が近づいて見る。
プレートには文字。
中学生女子サッカー 愛知県大会 優勝
「すごいじゃないですか、県大会って」
実は素直に言う。
「先輩サッカーやってたんですね」
「まあな」
しのぶは少し肩をすくめる。
「中学のとき」
実はトロフィーの横を見る。
そこには写真立て。
集合写真だった。
ユニフォーム姿の女子中学生たち。
その中央に――
ショートカットで、少し日焼けした少女。
笑顔でトロフィーを持っている。
実は目を瞬かせる。
「……これ、先輩?」
しのぶが覗き込む。
「ああ」
実は思わず笑った。
「かわいい」
しのぶが一瞬固まる。
「……は?」
「いや」
実は写真を見ながら言う。
「めちゃくちゃ元気そう」
「今と雰囲気違いますね」
しのぶは腕を組む。
「ガキだからな」
実は写真をもう一度見る。
仲間たちと肩を組んで笑う姿。
とても楽しそうだった。
「キャプテンだったんですか?」
「そう」
「へぇ」
実は少し感心した。
「意外です」
「意外?」
「なんか」
実は笑う。
「先輩、クールなイメージなんで」
しのぶが少し呆れる。
「昔は普通にガキだった」
実は写真を見ながら言う。
「でも、いいですね」
「何が」
「こういう思い出」
しのぶは少し黙る。
そして小さく言う。
「……まあな」
実はふと、別の写真にも気づく。
部活の写真。
友達との写真。
文化祭っぽい写真。
その一つ一つが、しのぶの過去を物語っていた。
実は少し優しく言う。
「先輩のこと」
しのぶが見る。
「ん?」
「もっと知れた気がします」
しのぶは少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……大げさ」
実は笑う。
そしてもう一度、女子サッカーの優勝写真を見る。
「でも」
しのぶを見る。
「やっぱり」
にやっと笑う。
「この頃からかっこいいですね」
しのぶがため息をつく。
「……お前」
「はい?」
「今日はやけに褒めるな」
実は少しだけ照れて笑った。
「恋人ですから」
その言葉に、しのぶは一瞬だけ黙る。
そして、小さく笑った。
「……バカ」
夜も深まり、羽鳥家はすっかり静かになっていた。
一階から聞こえていたテレビの音も消え、家全体が落ち着いた空気に包まれている。
しのぶの部屋。
部屋の明かりは消され、窓からの街灯の光だけがうっすらと差し込んでいた。
ベッドの上。
実としのぶは並んで横になっている。
同じベッド。
実は少しだけ緊張していた。
「……なんか」
小さく呟く。
「不思議ですね」
隣から声が返る。
「何が」
「先輩の実家で」
実は天井を見ながら言う。
「こうして一緒に寝てるの」
しのぶが小さく笑う。
「確かにな」
少し間が空く。
そして、しのぶがぼそっと言った。
「……あのさ、今日はシないからな」
実が一瞬固まる。
「え」
しのぶは少し顔を背けながら言う。
「母ちゃん達に聞こえたら」
小さく言う。
「ハズイ」
実は思わず吹き出しそうになる。
「先輩」
「笑うな」
「いや」
実は肩を震わせる。
「可愛いなと思って」
「……お前」
しのぶが少し睨む。
「ここ実家だからな」
「分かってます」
実は笑いながら言う。
「さすがに俺も空気読みます」
「ならいい」
しのぶは軽くため息をつく。
部屋の中は静かだった。
外から遠くの車の音が聞こえるくらい。
しばらく沈黙が続く。
そして実がぽつりと呟く。
「先輩」
「ん?」
「今日」
少し笑う。
「いい一日でした」
しのぶは少し意外そうに言う。
「そうか?」
「はい」
実はゆっくり答える。
「先輩の家族、みんな優しくて」
昼間のことを思い出す。
母親の質問攻め。
父親の穏やかな声。
伊咲のからかい。
「なんか」
実は少し照れながら言う。
「家族っていいなって思いました」
しのぶは少し黙る。
そして静かに言う。
「……そうだな」
少し間を置いてから続ける。
「母ちゃんも父ちゃんも、それと伊咲も実のこと気に入ってたと思う」
実は驚く。
「本当ですか?」
「ああ」
少し笑う。
「母ちゃんがさ、台所洗い物してたらお前のこといい子だねって言ってた」
実の顔が少し赤くなる。
「それは……嬉しいです」
しのぶは横になったまま、実の方を見る。
暗い部屋でも、表情はなんとなく分かる。
「実」
「はい」
「今日は来てくれてありがとな」
その声はとても優しかった。
実は少し驚く。
「先輩」
「ん?」
「俺の方こそ」
少し笑う。
「先輩のこと、もっと好きになりました」
しのぶが一瞬黙る。
そして、小さく呟く。
「……バカ」
しかしその声は、どこか嬉しそうだった。
少しして、しのぶが手を伸ばす。
暗い中で、そっと実の手に触れる。
軽く握る。
「……おやすみ」
「はい」
実も静かに答える。
「おやすみなさい」
二人は手を繋いだまま、ゆっくりと目を閉じた。
静かな夜が、羽鳥家に流れていた。
・・・・・
【翌朝】
羽鳥家のリビングには、朝の柔らかな光が差し込んでいた。
「実くん、朝ごはんできてるよ」
キッチンからしのぶの母親の声がする。
テーブルには、和食の朝食が並んでいた。
ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物。
「いただきます」
全員で手を合わせる。
朝の食卓は、昨夜よりも少し落ち着いた雰囲気だった。
父親は新聞を読みながら味噌汁をすすり、母親は「もっと食べなさい」と実の皿におかずを勧める。
伊咲は相変わらずニヤニヤしている。
「実くん、帰っちゃうの寂しいがね……また来てくれんといかんよ」
「はい、ぜひ」
実は笑って答えた。
朝食を終え、荷物をまとめる。
そして――
玄関。
「じゃあ、行ってきます」
しのぶが言う。
母親が頷く。
「気をつけてね」
父親も言う。
「実くん、また遊びに来なさい」
「ありがとうございます」
実は深く頭を下げた。
その時。
「実くん」
母親が声をかけた。
「はい?」
実が振り向く。
母親が一歩近づいてくる。
そして――
実の手を、そっと握った。
少し驚く実。
母親は静かな声で言った。
「あの子のこと」
一瞬言葉を選ぶ。
そして、まっすぐ目を見て言う。
「くれぐれもお願いね……」
その声は優しかった。
だが、どこか真剣だった。
実はその視線を受け止める。
まっすぐで、強い目。
その瞬間。
実の胸にふと浮かんだ感覚があった。
――この目。
どこかで見たことがある。
すぐに思い出す。
しのぶだ。
時々、自分を見つめるときの目。
強くて、真剣で、まっすぐな視線。
実は小さく頷いた。
「はい」
はっきり答える。
「任せてください」
母親は少し驚いたように瞬きをする。
そして、ふっと笑った。
「……ありがとう」
手が離れる。
しのぶが少し怪訝そうに言う。
「母ちゃん?何話してた」
母親はいつもの笑顔に戻る。
「秘密」
「は?」
伊咲が横から笑う。
「しーちゃん、野暮なこと聞くんじゃないて」
しのぶは少し不満そうに眉をひそめる。
「……なんだよ」
実は少しだけ笑った。
「内緒です」
「お前もか」
「はい」
しのぶはため息をつく。
「意味わからん」
玄関の外へ出る。
朝の空気は少し冷たいが、よく晴れていた。
「行くぞ」
「はい」
二人は駅へ向かって歩き出す。
しばらく歩いた後、しのぶが言う。
「実」
「ん?」
「母ちゃん変なこと言ってなかったか」
実は少し考える。
そして笑った。
「いえ」
「ただ」
しのぶを見る。
「先輩のこと、大事にしてほしいって」
しのぶは少し黙る。
そして小さく言った。
「……そうか」
実は歩きながら思う。
あの母親の視線。
優しさの中にある、強い意志。
――やっぱり。
「似てるな」
実が小さく呟く。
「ん?」
「先輩」
しのぶは首をかしげる。
「何が」
実は笑った。
「なんでもないです」
二人は並んで歩く。
東京へ戻る新幹線へ向かって。
第三章
季節は秋。
会社の恒例行事……年に一度の慰安旅行の季節がやってきた。
今年の行き先は岐阜の温泉旅館。
貸し切りバスに揺られながら、社員たちはすでに上機嫌だった。
「いやー温泉楽しみだな!」
「飛騨牛食べ放題らしいぞ!」
「マジか!」
車内はすっかり旅行気分だ。
そんな中、通路側の席に座っている実がパンフレットを眺めている。
隣にはしのぶ。
今回の慰安旅行の幹事はこの二人だった。
「先輩」
実が小声で言う。
「なんだ?」
「部屋割り、ちゃんと確認しました?」
「したぞ」
しのぶはスマホのメモを見せる。
「部長と課長が同室、営業チームが三人部屋……」
そこで少し眉をひそめる。
「あれ?」
実がニヤニヤしている。
「どうしました?」
「いや」
しのぶは画面をもう一度見る。
「俺とお前」
「二人部屋になってる」
実は満面の笑みで頷く。
「はい」
しのぶがゆっくり振り向く。
「……お前」
実は胸を張る。
「幹事の特権です」
小声で続ける。
「これで心置きなくイチャイチャできますね!」
しのぶの顔が一瞬で赤くなる。
「ば、バカ!」
慌てて実の腕を軽く叩く。
「バスの中で何言ってんだ!」
実は楽しそうに笑う。
「だって嬉しいじゃないですか」
「嬉しいって……」
しのぶは周囲をちらっと見る。
幸い、みんな酒や会話に夢中で聞いていない。
小さく息をつく。
そして、少しだけ照れた顔で言う。
「……もう、エッチだなぁ」
その声は呆れているようで、どこか嬉しそうだった。
実はさらに笑顔になる。
「先輩だって楽しみでしょ?」
「……うるさい」
しのぶは窓の外を見る。
だが耳まで赤い。
バスは山道へ入っていく。
窓の外には紅葉が広がっていた。
やがて旅館に到着。
大きな和風の建物に社員たちが歓声を上げる。
「うおー!いい旅館じゃん!」
「温泉温泉!」
受付でチェックインを済ませる二人。
仲居が部屋へ案内する。
廊下を歩きながら実が小声で言う。
「先輩」
「なんだ」
「夜が楽しみですね」
しのぶがじろっと睨む。
「仕事忘れてるだろ」
「幹事の仕事はもう終わりです」
実はにこにこしている。
部屋の襖が開く。
畳の香り。
広い和室。
窓の外には山の景色。
「おお……」
実が感動する。
「いい部屋ですね」
しのぶは荷物を置きながら言う。
「幹事だからちょっといい部屋にした」
実が振り向く。
「やっぱり先輩も幹事の特権使ってるじゃないですか」
しのぶは少し照れる。
「……悪いか」
実は笑う。
「最高です」
しのぶは少し頬を掻く。
そして小さく言う。
「……まあ」
実を見る。
「たまには」
少しだけ優しく笑う。
「ゆっくりできるのもいいだろ」
実は嬉しそうに頷いた。
慰安旅行の夜は、まだ始まったばかりだった。
宿へ着くや否や、みんな部屋に荷物を置いて浴衣へ着替える。
「温泉行くぞ温泉!」
それぞれが大浴場へ向かっていく。
そんな中、しのぶと実は廊下の端で小声で話していた。
「先輩」
実がスマホを見せる。
「実は……貸し切り風呂、予約しておきました」
しのぶが少し驚く。
「いつの間に……」
「幹事の仕事の一環です」
実は得意げに笑う。
「……絶対違うだろ」
しのぶが呆れる。
実が肩をすくめる。
「でも必要でしょう?もし先輩が普通に女湯入ったら……」
少し周囲を見て小声になる。
「女性社員みんなびっくりしますよ」
しのぶはハッする。
「……あっ」
普段の会社ではスーツ姿で、口調も態度も完全に男。
多分社内でしのぶの秘密を知るのは実ただ一人。
それがいきなり女湯に現れたら、確かに騒ぎになる。
「配慮も兼ねてです」
実はにこっと笑う。
「なるほどな」
しのぶは少しだけ照れたように言う。
「ありがと」
実は一瞬きょとんとする。
「今、先輩」
「ありがとうって言いました?」
「言った」
「珍しい」
「うるさい」
二人は廊下を歩き、貸し切り風呂のある離れへ向かう。
小さな木の札が掛かった扉。
『貸切中』
実が札を裏返す。
「どうぞ」
「……なんか」
しのぶが苦笑する。
「妙に緊張するな」
実が襖を開ける。
中には小さな脱衣所と、石造りの露天風呂。
外には夜の山の空気。
湯気が静かに立ち上っている。
「おお……」
実が感動する。
「いいですね」
しのぶも頷く。
「確かに」
「これは当たりだな」
二人は脱衣所へ入る。
しばらくして、湯船に入る。
温かい湯気に包まれる。
「はぁ……」
しのぶが大きく息を吐く。
「気持ちいい……」
実も肩まで浸かる。
「ですね」
夜空が少し見える。
遠くで虫の声。
静かな温泉の時間。
しばらく黙って浸かっていたが、実がふっと笑う。
「先輩」
「ん?」
「旅行で温泉入るのに」
「二人きりって」
しのぶがちらっと見る。
「不満か?」
「いえ」
実は優しく笑う。
「むしろ」
少し近づく。
「最高です」
しのぶが頬を少し赤くする。
「……お前」
湯気の中で小さく呟く。
「ほんとエッチだな」
実は笑った。
夜の温泉には、二人だけの静かな時間が流れていた。
貸し切り風呂から戻ったあと。
しのぶと実は宴会場へ向かった。
大広間にはすでに社員たちが集まり、長いテーブルの上には豪華な料理が並んでいる。
「お、幹事きたぞ!」
「遅いぞー!」
「温泉満喫してたんじゃないの?」
からかう声に、しのぶが軽く手を振る。
「うるさい、ちゃんと仕事してただけだ」
実は横で笑っている。
宴会が始まる。
乾杯の音頭。
「かんぱーい!」
グラスの音が一斉に鳴る。
飛騨牛のすき焼き、刺身、天ぷら。
豪華な料理にみんな大喜びだ。
「うまっ!」
「これ会社の金で食っていいの?」
「最高!」
酒も進み、宴会はどんどん盛り上がる。
そして――
「それではレクリエーション始めまーす!」
実が前に立つ。
「まずはビンゴ大会!」
会場から歓声が上がる。
「やったー!」
「景品なんだ?」
番号が読み上げられていく。
「Bの12!」
「ねぇー!」
「来い来い来い……!」
リーチの声があちこちから上がる。
「ビンゴ!」
最初に上がったのは他部署の先輩だった。
「温泉まんじゅう一年分です!」
「地味っ!」
「まんじゅう一年分もいらんてー」
会場は爆笑。
その後もビンゴは続き、次はカラオケ大会。
上司が昭和の名曲を熱唱し、若手が盛り上げる。
「横田部長うまいっ!」
「アンコール!」
しのぶも途中でマイクを渡される。
「え、俺?」
「幹事歌え!」
渋々前に出る。
少し低めの声で歌うと、意外にも上手い。
「おお!」
「しのぶ先輩うまい!」
実が拍手している。
しのぶは少し照れくさそうに席へ戻った。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。
「それじゃ今日はここまで!」
「お疲れ様でしたー!」
拍手とともに宴会は終了。
社員たちはそれぞれ部屋へ戻っていく。
廊下を歩きながら実が言う。
「楽しかったですね」
しのぶが頷く。
「久しぶりに騒いだな」
部屋に戻る。
襖を閉めると、急に静かになる。
畳の部屋。
窓の外には夜の山。
二人きり。
実がふっと笑う。
「やっと二人ですね」
しのぶが少し呆れた顔をする。
「さっきも風呂で二人だっただろ」
「でも」
実が近づく。
「部屋で二人きりはまた別です」
しのぶが少し赤くなる。
「……お前」
実は軽く抱き寄せる。
「今日はいっぱい飲みました?」
「まあな」
「じゃあ」
実が優しく言う。
「ゆっくりしましょう」
しのぶは少し照れながらも、抵抗はしない。
「……旅行先でこういうの」
小さく呟く。
「なんか変な感じだ」
実が笑う。
「いい意味で?」
しのぶは少し考えてから言う。
「……まあ」
小さく頷く。
「悪くない」
二人は布団の上に座り、肩を寄せ合う。
静かな温泉旅館の夜。
遠くで虫の声が聞こえていた。
・・・・・
【翌朝】
まだ朝日が昇りきる前の、静かな時間。
実はふと目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと天井を見る。
畳の匂い、旅館の静かな空気。
そうか、慰安旅行だ。
横を見る。
隣にはしのぶが寝ている。
規則正しい寝息。
髪が少し乱れて、普段よりずっと無防備な顔。
実は少し微笑む。
「先輩……」
そこでふと気づいた。
浴衣の襟元が少しはだけている。
少し乳房が見えてしまっていた。
実は一瞬固まる。
「……」
心の中で、声が聞こえる。
【実の中の悪魔】
(チャンスだ)
(こんな無防備な先輩、めったに見れないぞ)
(ちょっとくらい……)
しかしもう一つの声。
【実の中の天使】
(ダメです)
(寝込みを襲うなんて卑怯者ですよ)
(先輩を大事にするって決めたでしょ)
悪魔が反論する。
(でも恋人だぞ?)
(しかもこんな状況……)
天使はきっぱり言う。
(それでもダメ)
(起きてからにしなさい)
実はしばらく葛藤した。
「……」
そして小さく息を吐く。
「……ですよね」
そっと手を伸ばす。
乱れていた浴衣の襟元を、優しく直す。
そっと。
本当に起こさないように。
綺麗に整えてから、手を引っ込めた。
「……よし」
小さく呟く。
その瞬間。
「……ん」
しのぶが少し動く。
実は一瞬ビクッとする。
「先輩?」
しのぶがゆっくり目を開ける。
まだ寝ぼけた顔。
「……実?」
「おはようございます」
実が小さく笑う。
「早いな……」
しのぶは体を少し起こす。
その時。
ふと自分の浴衣を見る。
「……?」
首をかしげる。
襟元が妙にきっちり整っている。
さっきまで寝ていたはずなのに。
「……」
しのぶはちらっと実を見る。
実は何もなかった顔で座っている。
その様子を見て、しのぶはなんとなく察した。
(ああ……)
心の中で小さく笑う。
(……フッ)
そして思う。
(エッチなだけじゃなくて)
少し優しい目で実を見る。
(ちゃんと優しいんだよなぁ、ウチの彼氏くんは……)
しのぶは軽く伸びをする。
「実」
「はい?」
「朝風呂行くか」
実は笑う。
「いいですね」
二人は布団から出る。
温泉まで向かう道中、ふと実が……
「ていうか今思えば……」
しのぶを見る。
「昨日、先輩浴衣姿だったのによくみんなにバレませんでしたよね」
そう言われてしのぶは少し笑う。
「まぁ」
肩をすくめる。
「俺、元々貧乳だからな」
さらっと言う。
「自分で言うのもあれだけど」
実は思わず吹き出す。
「先輩そんなこと自分で言います?」
しのぶは苦笑する。
「いや事実だろ……実際今、浴衣着てもそんな目立ってないだろう?」
「ああ、でも……」
少し間を空けて小声で実が言う
「俺、先輩の胸好きですよ……」
するとしのぶは、顔を真っ赤に染めて
「ば、馬鹿っ!お前…そういうこと、こんなとこで言うもんじゃない!」
「ダメでした?」
「う、うるさい馬鹿!変態!エッチ!」
照れを隠すかのように、実を置いてささっと行こうとするしのぶ
「あ、先輩!待ってくださいってば〜!」
・・・・・
慰安旅行から数日後。
いつものように出社したしのぶは、オフィスの空気が妙にざわついていることに気づいた。
「……?」
パソコンを立ち上げながら周囲を見る。
営業の後輩たちがスマホを見ながらひそひそ話している。
「え、マジで?」
「これヤバくない?」
「でも本人たちだよね……?」
しのぶが眉をひそめる。
(なんだ……?)
そこへ実がコーヒーを持ってやってくる。
「先輩、おはようございます」
「おう」
しのぶは小声で聞く。
「なんか今日、みんな変じゃないか?」
実も周囲を見て首をかしげる。
「言われてみれば……」
その時。
同僚の一人がしのぶたちの席にやってきた。
「あのさ……」
少し言いにくそうな顔。
「これ、見た?」
スマホを差し出す。
画面を見る。
しのぶは一瞬固まった。
「……は?」
そこに写っていたのは――
温泉旅館の貸し切り風呂へ入る二人の後ろ姿。
しかも、かなりそれっぽい雰囲気。
「なっ……」
次の写真。
観光地の通りを、二人で手を繋いで歩いている。
さらに。
しのぶと実が軽くキスしている瞬間。
「……」
しのぶの思考が止まる。
実も固まる。
「え……」
スマホを持ってきた同僚が言う。
「これ今、社内のグループチャットで回ってる」
「誰かが撮ったっぽい」
周囲がざわつく。
「おい、これ……コラ画像ってわけじゃなさそうだな」
「てことは、マジ!?」
しのぶの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ちょっ……!」
実も慌てる。
「ま、待ってください!」
しかし周囲の盛り上がりは止まらない。
「隠してたのかよー!」
「ラブラブじゃん!」
「写真ガチすぎて笑う」
しのぶは頭を抱える。
「……誰だ」
低い声で呟く。
「こんなの撮ったやつ……」
実が苦笑する。
「先輩」
「ん?」
実は少し肩をすくめる。
「でも」
スマホの写真を見る。
「結構いい写真ですよ」
しのぶが勢いよく振り向く。
「よくねぇ!」
実は少し笑う。
「俺は気に入ってますけど」
しのぶは真っ赤な顔で言う。
「俺は気にする!」
周囲から声が飛ぶ。
「で、結局付き合ってるの?」
「どうなの?」
「認めちゃえよー!」
しのぶは数秒黙る。
そして。
ため息をつく。
「……あーもう」
頭を掻く。
「そうだよ」
オフィスが一瞬静まり返る。
「付き合ってる」
その瞬間――
「うおおおおお!」
「やっぱり!」
「公式きた!」
拍手まで起きる。
しのぶは顔を覆う。
「……うるさい」
実は隣で笑っている。
「これで隠す必要なくなりましたね」
しのぶが小声で言う。
「……お気楽だなお前」
慰安旅行の写真が社内のみんなに渡り、二人の関係も明らかになった。
オフィスでは相変わらずその話題でもちきりだった。
「しのぶ先輩と実、普通に付き合ってたんだな」
「意外だったけど、なんか納得」
「むしろお似合いじゃない?今の時代、多様性ってヤツ?」
からかい半分、祝福半分。
そんな空気の中――
一人だけ、明らかに違う表情をしている人物がいた。
高野だった。
昼休み。
実が給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から声がした。
「……実くん」
振り返る。
高野が立っていた。
いつもの明るい雰囲気ではない。
少し強張った表情。
「高野……」
しばらく沈黙が流れる。
そして高野が口を開いた。
「……あの写真」
実は一瞬だけ目を伏せる。
「見た?」
「……ああ」
高野の声が少し震える。
「実くんって」
ゆっくり言う。
「男の人が好きだったの?」
その言葉に、実は静かに答える。
「……まぁ、そうだよ」
高野は少し驚いた顔をする。
そして、次の瞬間――
「……気持ち悪い」
その一言が落ちた。
空気が一瞬で凍る。
実は固まる。
高野は続ける。
「だってさ!普通じゃないじゃん!男同士って!」
取り乱したかのように実を罵倒する
「なんか無理……あり得ない!」
その言葉を聞いた瞬間。
実の頭の奥で、何かが弾けた。
――笑い声。
――教室。
――クラスメイトの声。
「おい、実って男好きなんだってよ」
「マジかよ!」
「キモっ!」
「近寄んなよ!」
中学時代。
あの日の記憶。
笑われた教室。
机を叩いて笑うクラスメイト。
視線。
嘲笑。
孤立。
「気持ち悪い」
「ゲイとか無理」
「こいつヤバくね?」
胸が締め付けられる。
――その後。
転校。
誰とも関わらない日々。
一人で過ごした昼休み。
誰とも話さない学校生活。
暗く、長い時間。
その記憶が一気に蘇る。
「……っ」
呼吸が乱れる。
息がうまく吸えない。
胸が苦しい。
視界が揺れる。
「……はっ」
実の手が震える。
「……は、ぁ……」
呼吸が浅く、速くなる。
高野が少し驚く。
「え……?」
実は壁に手をつく。
視界が白くなる。
「……っ……!」
呼吸。
吸えない。
息ができない。
胸が痛い。
「はっ……はっ……!」
過呼吸。
体が震える。
膝が崩れる。
「実くん!?」
その場に倒れ込んだ。
給湯室に、異様な空気が広がる。
遠くで誰かの声がする。
「どうした!?」
「誰か呼んで!」
しかし実の耳には、もうほとんど届いていなかった。
頭の中では――
あの頃の笑い声だけが、何度も響いていた。
・・・・・
白い光。
消毒液の匂い。
「……ん」
実はゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは――
白い天井。
見覚えのない天井だった。
「……ここ……」
声がかすれる。
体が重い。
頭もぼんやりしている。
その時。
「……実?」
すぐ近くから声がした。
実がゆっくり横を見る。
そこには――
しのぶがいた。
椅子に座り、ベッドのそばに寄り添うようにしている。
「先輩……」
実の声を聞いた瞬間、しのぶの表情が変わった。
「実!」
立ち上がる。
安堵したように息を吐く。
「よかった……」
実はまだ状況が飲み込めていない。
「……ここ」
しのぶが答える。
「病院」
実の記憶が少しずつ戻ってくる。
給湯室。
高野。
言葉。
「気持ち悪い」
そして――
呼吸ができなくなった感覚。
実は目を伏せる。
「……俺」
しのぶが静かに言う。
「あの後」
少し言葉を選ぶ。
「倒れたんだ……会社の人が救急車呼んで、そのままここに運ばれた」
実はぼんやりと聞いている。
「……そうですか」
しのぶはしばらく黙っていた。
そして、少し低い声で言う。
「……びっくりした」
その声は震えていた。
「お前が急に倒れて病院に運ばれたなんて聞いたから」
手を握る。
「マジで焦った」
実はその手を見る。
しのぶの手は、少しだけ震えていた。
「先輩……」
しのぶは目をそらす。
「……医者が言ってた」
「過呼吸だって」
「ストレスとか」
「急な精神的ショックで起きることあるらしい」
実は黙る。
あの言葉。
あの記憶。
胸の奥がまだざわつく。
「……すみません」
しのぶがすぐに言う。
「謝るな」
実は驚く。
しのぶはまっすぐ実を見る。
「お前は悪くない」
少し間を置く。
「……何があったか知らないけど、お前がそんなになるくらいのことだろ」
実は何も言えない。
しのぶは小さく息を吐く。
そして少し柔らかい声で言う。
「でも、もう大丈夫だ」
実の手を軽く握る。
「俺がいる」
静かな病室。
窓の外では夕方の光が差し込んでいた。
実はその手の温もりを感じながら、小さく目を閉じた。
ベッドの上の実は、しばらく黙っていた。
しのぶは隣の椅子に座ったまま、何も言わず待っている。
「……先輩」
実がぽつりと口を開いた。
「ん?」
「さっき……」
少し視線を落とす。
「なんで俺がああなったのか」
小さく息を吐く。
「話してもいいですか」
しのぶはすぐに頷いた。
「ああ、無理しなくていいけど」
実はゆっくり言葉を探す。
「俺、中学のとき」
手が少し震えている。
「クラスメイトに……ゲイだって知られて」
声が少し詰まる。
「……笑われました」
しのぶは黙って聞いている。
実は続ける。
「最初は、からかい程度だったんです……でもだんだんエスカレートして」
笑い声。
教室。
視線。
「気持ち悪い」
「近寄んな」
「男好きとか無理」
「お前ホモなんだろ」
実の目から涙がこぼれた。
「毎日……」
声が震える。
「笑われて」
声に嗚咽が混ざる
「馬鹿にされて……」
しのぶの拳が静かに握られる。
実は続ける。
「それで、学校行くのも嫌になって親も心配して転校することになって」
少し息を吸う。
「でも、それからは……」
小さく笑う。
寂しい笑い。
「誰とも関わらなくなりました……また知られたら怖いから……友達も作らず、ずっと一人で」
涙が止まらない。
「だから、恋人なんて一生できないと思ってました」
声が震える。
「俺なんか……普通じゃないし、気持ち悪いって思われるのが当たり前だって」
実は顔を覆う。
「でも……」
涙がこぼれる。
「先輩と出会って、初めて普通に好きになって……普通に付き合えて」
声がかすれる。
「すごく……嬉しかったんです」
肩が震える。
「だから今日……高野に言われたとき」
あの言葉が頭をよぎる。
「気持ち悪いって……」
実は涙をこぼしながら言う。
「昔のこと、全部思い出して怖くなって……」
言葉が続かない。
その瞬間。
しのぶが立ち上がった。
そして――
そっと実を抱きしめる。
「……先輩」
実が驚く。
しのぶは何も言わない。
ただ、優しく抱きしめる。
実の頭を胸に寄せる。
「……バカ」
しのぶが小さく言った。
「お前が普通じゃないわけあるか」
声は静かだが、強かった。
「気持ち悪いなんて言うやつの方が」
「よっぽどおかしい」
実の肩が震える。
しのぶは背中を優しく撫でる。
「実」
名前を呼ぶ。
「お前は」
少しだけ笑う。
「優しくて」
「真面目で」
「ちょっとエッチで」
「……俺の、大事な彼氏だ」
実は声を上げて泣いた。
しのぶは何も言わず、ただ抱きしめ続けた。
静かな病室の中で。
実の涙が、ゆっくりと溢れていた。
・・・・・
夜。
病室の窓の外は、すっかり暗くなっていた。
実は泣き疲れたのか、ベッドの上で静かに眠っている。
規則正しい寝息。
少し赤くなった目元。
しのぶはベッドの横の椅子に座り、その寝顔を見ていた。
「……」
実の手を軽く握る。
さっき聞いた話が頭の中で何度も繰り返されていた。
中学時代。
笑われた教室。
孤独な学生生活。
そして――
「気持ち悪い」
その言葉。
しのぶの拳がゆっくり握られる。
「……ふざけんな」
小さく呟く。
あんな優しいやつに向かって。
あんな真っ直ぐなやつに向かって。
なんでそんなことが言えるのか。
しのぶは天井を見上げる。
しばらく考え込む。
そして、ゆっくり息を吐いた。
「……決めた」
小さく言う。
実の寝顔を見る。
「実」
優しく呟く。
「お前だけに重荷を背負わせるわけにはいかない」
手を少し強く握る。
「俺も一緒に背負う」
その目は真っ直ぐだった。
会社。
噂。
写真。
そして今日の出来事。
全部、曖昧なままにしていた。
でも――
それじゃダメだ。
逃げたままだと、また同じことが起きる。
「……明日」
しのぶが静かに言う。
「みんなに話す」
自分のこと。
実とのこと。
そして――
「本当のこと」
しのぶは少しだけ笑う。
「先輩なんだからな、こういうときくらい」
小さく肩をすくめる。
「カッコつけさせろよ」
眠っている実の髪を、そっと撫でる。
「大丈夫だ」
優しい声で言う。
「俺がいる」
静かな病室。
その夜、しのぶは長い間、実のそばに座り続けていた。
【翌日】
オフィス。
朝からどこか落ち着かない空気が漂っていた。
実が倒れた件はすでに社内に広がっている。
「大丈夫なのか?」
「病院行ったらしい」
「過呼吸って聞いたけど……」
ひそひそ声があちこちで聞こえる。
その時。
「……みんな」
低く、しかしはっきりした声がオフィスに響いた。
振り向く社員たち。
そこには――
しのぶが立っていた。
「ちょっとだけ、時間もらっていいか?」
普段より少し真剣な表情。
ただ事じゃない空気に、自然とみんなが集まる。
課長も腕を組んで頷く。
「どうした羽鳥」
しのぶは一度、ゆっくり息を吐いた。
そして言う。
「昨日、実が倒れた件だけど」
オフィスが静まる。
「原因の一つは、俺たちのことだと思う」
社員たちがざわめく。
しのぶは続ける。
「慰安旅行の写真……見たやつも多いと思う」
何人かが頷く。
「俺と実が付き合ってるのは、もう隠すつもりない」
そこまでは、みんなある程度予想していた。
だが――
しのぶは続けた。
「でも」
少しだけ言葉を区切る。
「もう一つ、ちゃんと話しておきたいことがある」
全員の視線が集まる。
しのぶはゆっくり言った。
「俺は、トランスジェンダーなんだ」
一瞬。
オフィスの空気が止まった。
誰も声を出さない。
しのぶは続ける。
「戸籍上は女で生まれも女、でも……」
胸を軽く叩く。
「自分では男として生きてる」
静かな声。
でも逃げていない。
「だから俺は男として、実と付き合ってる」
社員たちはまだ黙っている。
しのぶは続ける。
「今まで会社では言ってなかった、面倒になるの分かってたから」
少し苦笑する。
「でも、昨日のこと見て」
真剣な目になる。
「隠したままにするのは違うと思った」
少し間を置く。
「実は、俺のこと全部知った上でそれでも好きだって言ってくれた」
しのぶの声は静かだった。
「だから……俺も逃げない!」
周囲を見渡す。
「俺がトランスジェンダーで、実が好きで、それを気持ち悪いって思うやつもいるかもしれない」
オフィスは静まり返っている。
しのぶは真っ直ぐ言う。
「でも、それでも俺たちは付き合ってる」
少しだけ笑う。
「以上」
腕を組む。
「文句あるやつは今言え」
空気が張り詰めたまま、数秒が過ぎた。
そして――
「……羽鳥」
課長が口を開いた。
「それだけ言うために全員集めたのか?」
しのぶは頷く。
「はい」
課長はしばらく考える。
そして――
「仕事ちゃんとやるなら」
肩をすくめる。
「別にどうでもいい」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「それな」
「俺も」
「プライベートは自由だろ」
「むしろお似合いじゃん」
あちこちから声が上がる。
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
しのぶは少しだけ目を丸くする。
「……お前ら」
営業の後輩が笑う。
「羽鳥先輩」
「そんな深刻な顔するから何事かと思った」
別の社員も笑う。
「恋人守ろうとしてるのは普通にカッコいい」
「そうそう」
「むしろ好感度上がった」
しのぶは少しだけ目を伏せる。
そして小さく笑った。
「……そうかよ」
オフィスには、いつもの空気が少しずつ戻っていた。
【数日後】
実は会社に復帰していた。
まだ少し疲れは残っているものの、仕事には戻れている。
デスクで資料を確認していると――
「……実くん」
後ろから声がした。
振り向く。
そこには高野が立っていた。
以前よりも明らかに元気がない表情。
「高野?」
少し沈黙が流れる。
周囲の社員もなんとなく空気を察している。
高野はぎゅっと手を握りしめた。
「……少し」
「話してもいい?」
実は少し考えてから頷いた。
「ああ」
二人はオフィスの端の休憩スペースへ移動する。
椅子に座る。
しばらく高野は黙っていた。
そして――
「ごめんなさい」
いきなり頭を下げた。
実は驚く。
「え……」
高野の声は震えていた。
「この前、実くんに気持ち悪いって……」
唇を噛む。
「最低なこと言った」
目に涙が浮かんでいる。
「私、ショックで……実くんが好きだったのに、振られてその上、男の人と付き合ってるって聞いて」
涙がこぼれる。
「頭真っ白になってひどいこと言った」
肩が震える。
「本当に……ごめんなさい」
実はしばらく何も言わなかった。
あの瞬間。
過去の記憶。
苦しかった時間。
でも――
今は違う。
実はゆっくり言う。
「……高野」
高野が顔を上げる。
実は少し微笑んだ。
「謝ってくれて、ありがとうな……」
高野の目が少し驚く。
「怒ってないの……?」
実は少し考える。
「正直」
苦笑する。
「その時は、ちょっときつかった」
高野は目を伏せる。
実は続ける。
「でもこうしてちゃんと謝ってくれたから」
少し肩をすくめる。
「もういいよ」
高野の目からまた涙がこぼれる。
「……ほんとに?」
「うん」
実は優しく言う。
「また普通に」
少し笑う。
「同僚として仲良くやろう」
高野は何度も頷く。
「……うん」
涙を拭きながら笑う。
「ありがとう」
少し空気が柔らぐ。
その時。
後ろから声がした。
「……実」
振り向くと、しのぶが立っていた。
腕を組んで二人を見ている。
「先輩」
しのぶは高野を見る。
少しだけ真剣な目。
高野は一瞬緊張する。
しかし、しのぶは言った。
「……実に謝ったんだな」
高野が小さく頷く。
「はい……」
しのぶは少しだけ息を吐く。
そして言う。
「ならいい」
それだけだった。
高野はほっとしたように笑った。
「……これからも、よろしく」
実が言う。
高野も頷く。
「うん」
こうして、わだかまりは少しずつ解けていった。
最終章
十二月。
街はすっかりクリスマスムードに包まれていた。
イルミネーション。
クリスマスソング。
どこもかしこも恋人たちで賑わっている。
そんな中――
実はある計画を立てていた。
「……よし」
自宅の机に広げられたノート。
そこにはびっしりとメモが書かれている。
プロポーズ計画。
「どうせやるなら」
小さく呟く。
「一生思い出に残るようなやつにしたい」
そして思いついた。
フラッシュモブ。
レストランで突然始まるダンス。
最後にプロポーズ。
ネットで見て感動したあの演出。
「これだ……!」
そこからは猛準備だった。
ホテルのレストランを貸し切り。
ダンサーの手配。
音響。
照明。
演出。
「ここで音楽スタート」
「ここで全員合流」
打ち合わせを重ねる。
そして――
ダンス練習。
「ワン、ツー、スリー!」
スタジオで汗だくになりながら練習する実。
「もう一回!」
「はい!」
何度も何度も踊る。
「先輩のためだ」
その一心だった。
そして迎えた――
クリスマスイブ。
都内の高級ホテル。
レストランの窓からは夜景が見える。
テーブルに座るしのぶ。
「……なんか」
周囲を見渡す。
「今日やけに混んでないか?」
実は少し緊張しながら笑う。
「クリスマスですから」
料理が運ばれてくる。
前菜。
スープ。
メイン。
ゆっくりディナーを楽しむ二人。
しのぶがワインを飲みながら言う。
「こういう店来るの初めてだな」
実は微笑む。
「たまにはいいでしょう」
やがてデザートも終わる。
実がゆっくり席を立つ。
「先輩」
「ん?」
「ちょっとお手洗いに」
「ん、分かった……待ってる」
その時。
突然――
音楽が流れた。
軽快なポップミュージック。
「……?」
しのぶが周囲を見る。
すると――
ウエイターが突然踊り出した。
「!?」
さらに。
別のウエイター。
客。
スタッフ。
次々と踊り始める。
レストランが一瞬でダンスフロアになる。
「え……」
しのぶが目を丸くする。
「な、なんだこれ!?」
ダンサーたちが完璧なフォーメーションで踊る。
そして――
音楽が盛り上がる。
その瞬間。
レストランの奥から現れた。
白いスーツの実。
踊りながら登場する。
「み、実!?」
しのぶが完全に固まる。
実はダンサーたちと一緒に踊る。
何ヶ月も練習したダンス。
完璧なステップ。
曲がクライマックスへ。
ダンサーたちが道を作る。
その中央を実が歩く。
しのぶの前へ。
音楽が止まる。
レストランは静まり返る。
実はポケットから小さな箱を取り出す。
そして――
片膝をつく。
「先輩」
しのぶはまだ信じられない顔をしている。
実はまっすぐ見つめる。
「俺は」
ゆっくり言う。
「先輩に出会って初めて、誰かを愛することがこんなに幸せなんだって知りました」
指輪の箱を開く。
「楽しいときも、辛いときも、全部一緒に生きていきたい」
深く息を吸う。
そして言う。
「羽鳥しのぶさん」
優しく笑う。
「俺と結婚してください」
レストラン中が静まり返る。
すべての視線がしのぶに集まる。
しのぶは――
ただ、目を見開いたまま立っていた。
その瞬間、レストランは静まり返っていた。
ダンサーたちも。
スタッフも。
全員が息を飲んで見守っている。
片膝をつく実。
差し出された指輪。
そして、目を大きく見開いたまま。
「……」
しばらく何も言わない。
実の心臓がドクドクと鳴る。
(やばい……もしかして引いた……?フラッシュモブやりすぎた……?)
そんな不安が頭をよぎる。
その時。
「……ぷっ」
しのぶが小さく笑った。
そして――
目から涙がぽろっと落ちた。
「……バカ」
声が震えている。
「こんなの……」
笑いながら涙を拭く。
「ズルいだろ……」
実は不安そうに言う。
「先輩……?」
しのぶは泣きながら笑っている。
「こんなん、断れるわけないじゃんか……」
笑いながらも涙がどんどん溢れる。
「お前……ほんとバカだな」
笑いながら言う。
「こんな大掛かりなことして」
実は少し焦る。
「えっと……その……」
しのぶはゆっくり実の前にしゃがむ。
そして――
実の頬を両手で挟む。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
でも、最高に嬉しそうな笑顔。
「……実」
優しく言う。
「こんな俺でいいなら」
少し息を吸う。
「喜んで」
涙がこぼれる。
「結婚する」
その瞬間。
実の目も潤んだ。
「……先輩」
しのぶが笑う。
「指輪、つけてくれよ」
実は震える手で指輪を取り出す。
そっと、しのぶの指にはめる。
ぴったりだった。
その瞬間――
「おおおおおおお!!」
レストラン中から歓声が上がる。
拍手。
口笛。
ダンサーたちが祝福している。
しのぶはまだ涙を拭いている。
「……恥ずかしい、でも」
実を見る。
優しく笑う。
「嬉しい」
実は立ち上がる。
そして――
しのぶを抱きしめた。
「先輩」
「はい」
「一生幸せにします」
しのぶは少し笑う。
「バカ」
背中に手を回す。
「幸せは」
小さく言う。
「二人で作るもんだろ」
クリスマスの夜。
レストランには、祝福の拍手が鳴り続けていた。
・・・・・
クリスマスから数日後。
いつものオフィス。
朝のミーティングが終わり、社員たちがそれぞれ仕事に戻ろうとしていた。
その時。
「……みんな、ちょっといい?」
声を上げたのはしのぶだった。
社員たちが振り向く。
「またなんか発表?」
「今度は何?」
軽い笑いが起きる。
しのぶは少しだけ照れたように頭を掻いた。
「……大したことじゃない」
隣に立つ実を見る。
実も少し緊張している。
しのぶが言った。
「実は、この前実にプロポーズされた」
オフィスが一瞬静まり返る。
そして――
「えええええ!?」
「マジで!?」
「早くない!?」
一気にざわめきが起きた。
実が少し照れながら言う。
「……はい、結婚することになりました」
その瞬間。
「うおおおお!」
「おめでとう!」
「すげー!」
拍手が起きる。
営業の後輩が言う。
「羽鳥先輩、ついに身を固めたか!」
別の社員も笑う。
「しかもフラッシュモブでプロポーズしたって聞いたぞ」
「ロマンチックすぎるだろ!」
しのぶが慌てる。
「誰から聞いた!?」
実が苦笑する。
「……ダンサーの人がSNSに」
「うわあああ」
しのぶが顔を覆う。
笑いが起きる。
その時。
「実くん」
高野が近づいてきた。
「結婚、するんだね……」
実が少し緊張する。
「はい」
しかし高野はにっこり笑った。
「おめでとう」
実は少し驚く。
「あ、ありがと……」
高野はしのぶを見る。
「羽鳥先輩、実くんのこと……ちゃんと幸せにしてあげてくださいね」
しのぶは腕を組む。
「言われなくてもする」
高野が笑う。
「でしょうね」
そして実を見る。
「でもさ」
少し拳を握る。
「私だって」
真剣な顔。
「いつか絶対に」
声を張る。
「イイ人見つけて幸せになってやるんだから!」
オフィスに笑いが起きる。
「高野も頑張れ!」
「応援してる!」
高野は少し照れながら笑った。
「見てなさいよ」
しのぶはその様子を見て小さく笑う。
実も安心したように微笑んだ。
オフィスには、明るい空気が広がっていた。
・・・・・
それから、数ヶ月が経過……。
春の暖かな日差しが降り注ぐ青空の下。
都内のチャペルには、会社の同僚や友人、そしてしのぶや実の家族たちが集まっていた。
柔らかなパイプオルガンの音が流れる。
バージンロードの奥で待つのは――
実。
銀の光沢が美しいタキシードを身にまとい、緊張した面持ちで立っている。
「実くん、顔かたいぞ」
後ろで小声で囁いたのは同僚だった。
「だって……人生で一番大事な日ですよ」
苦笑する実。
やがて扉が開く。
会場が静まり返る。
そこに現れたのは――
父親と腕を組み、純白のウエディングドレスを着たしのぶだった。
普段は短髪でボーイッシュなしのぶだが、今日は丁寧にメイクを施され、髪も綺麗に整えられている。
それでもどこか凛とした雰囲気は変わらない。
参列者から小さなどよめきが起きた。
「……綺麗」
誰かが思わず呟いた。
父親と共にゆっくりと歩くしのぶ。
実の前まで来る。
二人は向かい合う。
父親は実に娘を託し、参列席へ戻る。
神父が静かに言葉を告げる。
「あなた達は……これから生涯を共に歩むパートナーとして、健やかなる時も病める時も、互いを敬い、やがて死が二人を分つその時まで、愛し合うことを誓いますか?」
実は迷いなく答える。
「誓います」
そしてしのぶ。
一瞬だけ実を見る。
優しく笑って言った。
「……誓います」
指輪交換。
誓いのキス。
会場は大きな拍手に包まれた。
そして数時間後。
結婚披露宴。
食事やスピーチで大いに盛り上がり、いよいよ新郎新婦のお色直しの時間。
司会者がマイクを持つ。
「皆様、お待たせいたしました!」
「新郎新婦の再入場です!」
扉が開く。
そして――
会場が一瞬、固まった。
「え?」
「え?」
そこに立っていたのは。
白いタキシード姿の二人。
実としのぶ。
しかも。
二人とも、まるで宝塚の男役のようなメイクをしている。
アイラインがきりっと入り、髪もバッチリセット。
完璧な“男役スター”の雰囲気。
しのぶが片手を上げる。
「ご来場の皆様」
低くキメた声。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
その横で実もポーズを決める。
会場――
「ぶふっ!!」
「ちょっwww」
「何それwww」
爆笑。
会社の同僚が腹を抱えて笑う。
「おい実!!」
「なんだそのビジュアル!!」
しのぶがウインクする。
「どうだ?似合うだろ?」
実も少し照れながら笑う。
「せっかくなら俺たちらしいことしたくて」
しのぶが肩を組む。
「夫婦そろって男役ってのもアリだろ?」
会場は完全に笑いの渦。
拍手。
歓声。
しのぶの母も笑っていた。
「ほんと、あの子らしいわ」
従姉妹の伊咲が言う。
「でもさ」
ニヤリと笑う。
「めっちゃカッコええがね」
ステージの中央で並ぶ二人。
しのぶが小声で言う。
「……どうだ?恥ずかしくないか?」
実は笑う。
「めちゃくちゃ恥ずかしいです、でも」
しのぶを見る。
「最高に楽しいです」
しのぶも笑った。
会場の笑いと拍手の中で。
二人の披露宴は、
最後まで二人らしい空気に包まれていた。
結婚式から数日後。
二人の新居。
まだ段ボールがいくつか残るリビングで、テレビには結婚式の映像が流れていた。
「うわぁ……」
ソファに座る実が苦笑する。
「これ、やっぱり恥ずかしいですね」
画面には――
白いタキシード姿で宝塚のようなポーズを決める二人。
会場が爆笑している様子までしっかり映っている。
「ははは!」
横で見ていたしのぶは声を出して笑っていた。
「見ろよこれ!高野の顔!」
画面には腹を抱えて笑っている高野。
「完全にツボ入ってるじゃん」
実もつられて笑う。
「確かに」
しばらくして、今度はチャペルのシーン。
純白のウエディングドレス姿のしのぶが映る。
実が少し照れながら言う。
「……やっぱり先輩、綺麗でしたよ」
しのぶは一瞬黙る。
そして照れたように頭を掻く。
「……そういうの、面と向かって言うな」
実が笑う。
「本当のことですから」
画面には誓いのキスのシーン。
しのぶはその映像を、少しだけ優しい顔で見つめていた。
「……なぁ」
ぽつりと呟く。
「実」
「はい?」
しのぶはソファに深く座りながら言った。
「なんかさ、まだ実感ないんだよな」
実が首を傾げる。
「何がです?」
しのぶは少し笑う。
「結婚したってこと、恋人だった頃とあんまり変わらない気がして」
実は優しく微笑む。
「それでいいんじゃないですか?」
しのぶを見る。
「恋人でも夫婦でも、俺はずっと……」
少し照れながら言う。
「先輩のこと好きですから」
しのぶは一瞬だけ驚き。
そしてふっと笑った。
「……俺も、お前のこと好き」
少し間が空く。
テレビでは披露宴の映像。
二人の笑顔。
拍手。
祝福。
しのぶはそれを眺めながら、静かに言った。
「色々あったな、ほんと」
実も頷く。
「でも……全部、いい思い出です」
しのぶは実の肩に頭を預ける。
「これからもいっぱい作っていこうな」
実は少し照れながら言う。
「はい、一生かけて」
二人は並んで画面を見る。
そこには――
幸せそうに笑う二人の姿。
そして今、同じように笑っている二人がここにいる。
これからもきっと。
笑って。
泣いて。
支え合って。
一緒に歩いていく。
・・・・・
結婚してから、しばらく経ったある日。
朝の洗面所。
鏡の前で歯を磨いていたしのぶは、ふとカレンダーに目をやった。
(……あれ)
少し首を傾げる。
(そういえば)
指で日付をなぞる。
(……最近、生理来てないな)
しのぶは元々、生理周期があまり安定していなかった。
一ヶ月来ないこともあれば、少し早いこともある。
そのため、今までは特に気にしていなかった。
「……まぁ、いつものことか」
そう呟く。
しかし――
ここ数日、妙に身体がだるい。
朝、少し気持ち悪くなることもある。
(……風邪か?)
そう思っていたが、なんとなく引っかかる。
数日後。
会社の昼休み。
スマホで調べ物をしていたしのぶは、ふと手を止めた。
(……まさかな)
少しだけ胸がざわつく。
その日の帰り。
しのぶは病院へ行くことにした。
病院の診察室。
医師がカルテを見ながら言う。
「検査の結果ですが」
しのぶは椅子に座り、静かに待っていた。
医師が顔を上げる。
そして微笑む。
「妊娠していますね」
しのぶは一瞬、言葉を理解できなかった。
「……え?」
医師は穏やかに続ける。
「おそらく、二ヶ月くらいですね」
しのぶの頭の中が、真っ白になる。
(……妊娠)
(俺が?)
手を見つめる。
少し震えている。
しばらく黙ったあと、小さく呟いた。
「……そうか」
その声はどこか、信じられないような響きだった。
――
夕方。
家のリビング。
仕事から帰ってきた実がドアを開ける。
「ただいまー」
しかし今日は、しのぶがすぐ出てこない。
「あれ?」
リビングに入ると、ソファに座るしのぶがいた。
少しぼんやりした顔。
「先輩?」
実が近づく。
「どうしました?」
しのぶは顔を上げた。
少し迷うように口を開く。
「……実」
「はい?」
しのぶは小さく息を吸う。
そして言った。
「俺」
少しだけ照れたような、戸惑ったような顔。
「妊娠した」
一瞬、沈黙。
実の思考が止まる。
「……え?」
しのぶが苦笑する。
「今日、病院行ってきた……二ヶ月くらいだってさ」
実はしばらく固まっていた。
そして――
「……えええええ!?」
大声。
しのぶが思わず笑う。
「落ち着け」
しかし実はまだ混乱している。
「えっ」
「えっ」
「えっ」
頭を抱える。
「俺……父親……?」
しのぶが少し照れながら言う。
「……そうなるな」
実はしのぶを見る。
そしてゆっくり近づく。
お腹を見る。
まだほとんど変化はない。
それでも――
そこに命がある。
実の目に、少し涙が浮かぶ。
「……先輩」
声が震える。
「俺、めちゃくちゃ嬉しいです!」
しのぶは驚いた顔をする。
実は笑いながら涙を拭く。
「絶対、幸せにします!」
しのぶは一瞬だけ目を伏せた。
そして小さく笑う。
「……もう十分幸せだよ」
実の頭を軽く撫でる。
「でも」
お腹にそっと手を当てる。
「これからもっと賑やかになりそうだな」
実もその手に自分の手を重ねる。
まだ小さな命。
でも確かにそこにある未来。
しのぶは静かに呟いた。
「よろしくな、俺たちの子供」
・・・・・
そして迎えた出産予定日。
病院の分娩室の前。
実は落ち着かない様子で廊下を歩いていた。
中では――
しのぶが出産の真っ最中。
しかし。
「……はぁ……っ」
「くっ……!」
すでに二十時間が経っていた。
難産だった。
助産師の声が聞こえる。
「黒崎さん、もう少しですよ!」
「赤ちゃん頑張ってます!」
ベッドの上のしのぶは汗だく。
髪も乱れ、息も荒い。
「くっ……そ……」
苦しそうに歯を食いしばる。
その横で――
実が手を握っていた。
ずっと。
最初から。
一度も離さず。
「先輩」
優しく声をかける。
「大丈夫、絶対大丈夫です」
しのぶは息を整えながら言う。
「実、お前……まだ起きてたのか」
実は苦笑する。
「当たり前じゃないですか!先輩がこんな苦しんでるのにオチオチ寝れるわけないでしょ」
助産師が声をかける。
「次の陣痛きますよ!」
しのぶは息を吸う。
そして――
「……っ!!」
全身に力を込める。
実が必死に声をかける。
「先輩!頑張って!」
「もう少しですよ!」
しのぶは苦しそうに叫ぶ。
「うああああっ!!」
そして――
少しして。
分娩室に、ある音が響いた。
「オギャアアアア!!」
赤ちゃんの泣き声。
助産師が笑顔になる。
「生まれました!元気な赤ちゃんですよ!」
実の目が大きく開く。
しのぶも荒い息のまま聞く。
「……う、生まれた?」
助産師が赤ちゃんを抱く。
「はい、元気な男の子です」
実の目から涙が溢れた。
「……先輩」
声が震える。
「生まれました」
しのぶは力が抜けたようにベッドに沈む。
「……はぁ」
そして小さく笑った。
「……長かった」
助産師が赤ちゃんをそっと見せる。
小さな命。
しのぶはその顔を見て、少し驚く。
「……小さいな」
実は涙を拭きながら笑う。
「赤ちゃんですから」
しのぶは赤ちゃんを見つめる。
そしてぽつりと言う。
「……よう」
「初めまして」
その横で実が言う。
「先輩、お疲れさまでした……」
しのぶは横目で見る。
「お前もな、ずっと起きてたろ」
実は笑う。
「父親ですから」
しのぶは少し笑った。
そして赤ちゃんを見る。
「……これから忙しくなるな」
実は頷く。
「ですね」
二人で赤ちゃんを見る。
小さな命。
二人の愛から生まれた存在。
実はそっと言った。
「ようこそ、俺たちの家族へ」
その日――
新しい家族が誕生した。
出産から数日後
病室の窓から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ベビーベッドの中では、小さな赤ちゃんが静かに眠っている。
その横で実としのぶが並んで座っていた。
実は赤ちゃんを見ながら言う。
「そろそろ名前決めないとですね」
出生届の期限が近い。
しのぶは腕を組んで少し考える。
「……実はさ、一個、考えてるのがある」
実が顔を上げる。
「本当ですか?」
しのぶはベビーベッドを見ながら言った。
「『実生』」
実は少し驚く。
「さねみ……」
しのぶが頷く。
「お前の名前の“実”を入れたかったんだ」
実は目を丸くする。
「え……」
しのぶは少し照れくさそうに笑う。
「あと、男でも女でも通用する名前にしたかった」
赤ちゃんを見ながら続ける。
「将来どういう生き方をするかはこの子自身が決めることだからさ」
実はその言葉を静かに聞いていた。
そして――
少し目が潤む。
「……先輩」
しのぶが見る。
「ん?」
実は優しく笑う。
「いい名前です、すごく」
しのぶは照れたように頭を掻く。
「そっか、じゃあ決まりだな!」
実はベビーベッドを覗き込む。
「実生」
小さく呼ぶ。
すると、赤ちゃんが少しだけ手を動かした。
二人は思わず笑う。
しのぶが優しく言う。
「よろしくな、実生」
実も続ける。
「これからいっぱい一緒に生きていこうな」
・・・・・
実生が生まれてから一ヶ月。
黒崎家のリビング。
「うわあああああん!!」
赤ちゃんの大きな泣き声が響いていた。
実が慌てて抱き上げる。
「よしよしよしよし!」
「どうしたどうした!?」
しかし――
泣き止まない。
その横で、しのぶは完全にぐったりしていた。
「……三時間」
実が振り向く。
「え?」
しのぶがソファに沈みながら言う。
「三時間おきに泣くの」
「マジできつい……」
実も目の下にクマ。
「先輩……俺もさっきミルク作ったばっかですよ……」
実生は相変わらず
「うわあああん!」
しのぶが頭を抱える。
「なんで泣くんだよぉ……」
実も焦る。
「おむつ替えました!ミルク飲みました!体温も大丈夫!」
「……え、なんでぇ!?」
完全にパニック。
その時。
ピンポーン
玄関のチャイム。
実が赤ちゃんを抱えながらドアを開ける。
「はーい……」
そして固まる。
「……え?」
そこに立っていたのは――
しのぶの母と父。
そして。
従姉妹の伊咲。
母が笑顔で言う。
「しーちゃーん!」
「孫見に来たがねー!」
リビングからしのぶの声。
「ん?伊咲…?」
数秒後。
母達がが出てきて目を丸くする。
「か、母ちゃん父ちゃん!?」
母は赤ちゃんを覗き込む。
「ほぉ、この子が実生かぁ」
父も笑う。
「可愛いのぉ」
伊咲はニヤニヤ。
「新米パパママ、苦戦しとる顔やな」
実は苦笑する。
「……正直、めちゃくちゃ大変です」
すると母が言う。
「貸してみやぁ」
実生を抱き上げる。
そして――
軽く揺らす。
「よーしよしよし」
「お腹空いたんかぁ?」
実生を抱き上げて優しく声かけてゆさゆさすると。
さっきまで泣いていた実生が――
ピタッ
静かになる。
実としのぶ。
「……え?」
母は慣れた手つき。
「はい、これでよし!」
母が笑う。
しのぶと実。
「…………」
伊咲が笑う。
「おばちゃんやるぅ〜」
父も言う。
「子育てはな、みんなでやるもんだ」
母が二人を見る。
「しばらくこっちにおるで」
しのぶが驚く。
「え?」
母がニコニコ。
「助っ人に来たんだわ」
「しーちゃん達、寝不足やろ?」
しのぶは少し黙る。
そして――
ぽつり。
「……助かる」
実も頭を下げる。
「お願いします!」
伊咲が笑う。
「よし!羽鳥家の子育て合宿スタートやな」
しのぶが苦笑する。
「なんだそれ」
母は実生を抱きながら優しく言う。
「安心しやぁ、この子はみんなで育てるんだわ」
実生はすやすやと寝息を立て静かに眠り始めた。
その光景を見て――
実としのぶは同時に思った。
(ジジババ……)
最強すぎる。
・・・・・
実生が生まれてからもうすぐ一年、今日は実生を連れての初めての名古屋へ里帰り
「ばぶー!」
元気な声を上げながら、実生は実の腕の中でバタバタと手足を動かしていた。
新幹線の車内。
実が笑う。
「しのぶさん見て、めちゃくちゃテンション高いよ」
しのぶは苦笑する。
「初めての新幹線だからな、はしゃいでんだろ」
実生は窓の外を見て
「だぁー!」
と嬉しそうに声を上げる。
実は優しく言う。
「もうすぐ名古屋だぞー」
一年ぶりの里帰りだった。
名古屋駅。
改札を出ると
「しーちゃーん!」
大きな声。
そこには、しのぶの母と父。
そして。
「久しぶりだがねー!」
従姉妹の伊咲。
しのぶが笑う。
「母ちゃん!父ちゃん!伊咲!」
「ご無沙汰です」
母は真っ先に実生を見る。
「まぁー!大きくなったがねぇ!」
実生を抱き上げる。
「ほらぁ、ばあばだよー」
実生はきょとんとしながらも笑う。
「きゃっ!」
父も嬉しそうに笑う。
「元気そうで何よりだ」
その時。
伊咲が言う。
「ほいでさ、うちも報告があるんよ」
すると隣にいた夫が、赤ちゃんを抱えて前に出る。
しのぶが驚く。
「……あれ?まさか」
伊咲がニヤリと笑う。
「言っとらんかったっけ?」
腕の中の赤ちゃんを見せる。
「ウチも生まれたんだわ」
実としのぶが同時に言う。
「ええ!?」
伊咲が誇らしげに言う。
「つい先月、男の子」
しのぶが驚きながら赤ちゃんを見る。
「マジか」
伊咲が笑う。
そして実生を見る。
「ふふ」
嬉しそうに言う。
「はとこだがねぇ」
実も笑う。
「本当だ」
実生が伊咲の赤ちゃんをじっと見る。
赤ちゃん同士。
お互いきょとんとしている。
母が笑う。
「将来一緒に遊ぶんだわ」
父も頷く。
「賑やかになるのぉ」
しのぶはその光景を見て、少し笑った。
「なんか一気に家族増えたな」
実も頷く。
「ですね」
伊咲が言う。
「ほら、今日はごちそうだがね」
母も笑う。
「ひつまぶし用意しとるよ」
実が嬉しそうに言う。
「やった!」
しのぶが笑う。
「お前そればっかだな」
その横で――
実生が「だぁー!」と元気に声を上げる。
二人の子供。
そして新しい家族。
名古屋の実家は、
さらに賑やかになっていた。
エピローグ
あれから五年……。
リビングの窓から、春の柔らかな光が差し込む午後。
実生はソファに座り、しのぶの横にちょこんと座っていた。
「ねぇママ」
しのぶが微笑む。
「ん?どうした、実生?」
実生は真剣な顔でしのぶを見つめる。
「どうしてママ、パパみたいなかっこしてるの?」
しのぶは軽く肩をすくめる。
「えっとね……」
実生の視線に応えながら、優しく説明する。
「ママはね、元々心は男の人なんだよ。だからこういうかっこをしてるの」
実生は少し考え込む。
「……ふーん、じゃあママは男なの?」
しのぶは頭を撫でながら笑う。
「そういうわけじゃないよ……ママはママだよ!でもね、見た目やかっこは色々変えられるんだ」
実は小首をかしげる。
「へぇ……なんかすごいね」
そこへ実がソファにやってきて、実生の頭を優しく撫でる。
「そうだね……ママもパパも、みんな違うけど同じ家族だよ」
実生はニコッと笑う。
「うん!」
リビングには、笑い声と春の光が満ちていた。
こうして黒崎家の新しい家族の日常は、暖かく、穏やかに続いていくのだった。
Fin...




