第9話「完全勝利の代償」
ついに辞表を叩きつけた宮坂君。
彼は、自分がいなくなることで会社がパニックに陥り、自分の価値を再認識する……そんな映画のような結末を期待していました。
しかし、現実はあまりにも淡々と、冷酷なまでにスムーズに進んでいきます。
判決から一週間後。
俺は、懐に一通の封筒を忍ばせて出社した。
辞表だ。
会社は、敗訴した俺をクビにする権限を持っていない。
報復人事も法的にリスキーだからできないだろう。
つまり、俺はこのままこの席に座り続ける権利がある。
だが、あえて俺は自分から辞めるのだ。
それが、この腐った組織に対する最後にして最大の「NO」だからだ。
「失礼します」
俺は人事部長室のドアを叩いた。
高瀬部長は、いつものようにデスクで書類に目を通していた。
「宮坂君か。なんだね?」
「これをお願いします」
俺は辞表をデスクの上に叩きつけた。
ドラマの主人公になった気分だ。
きっと部長は驚き、慌てふためくだろう。
「待ってくれ、君にはまだ期待している」とか「せめて引き継ぎが終わるまでは」と引き留めるかもしれない。
そうしたら言ってやるんだ。「今さら遅いですよ」と。
高瀬部長は辞表を手に取り、中身を確認した。
そして、傍らにあった認め印を取り出し、ポンと押した。
「受理しよう」
「……はい?」
「退職日は今月末でいいかね? 有給が四十日残っているから、明日から消化という扱いで処理しておこう。実質、今日が最終出社日だ」
早すぎる。
一瞬の躊躇いも、引き留める言葉もなかった。
まるで、最初から用意されていたレールに乗せられたかのようなスムーズさだ。
「あ、あの……引き継ぎとかは?」
「必要ない。君の業務はすでにマニュアル化され、佐藤君たちが回している。私物は今日中に持ち帰るように」
「……そうですか」
俺は拍子抜けしたまま、部屋を出た。
強がりやがって。
本当は痛手なはずだ。
俺という貴重な人材を失うことの重大さを、まだ理解できていないのだ。
後になって「宮坂君がいれば」と泣きついても知らないぞ。
デスクに戻り、荷物をまとめる。
私物は驚くほど少なかった。
三年間もいたのに、ダンボール箱一つで収まってしまった。
周りの社員たちは、俺が荷造りをしているのに気づいているはずだが、誰も声をかけてこない。
送別会の話も出ないし、花束の一つもない。
まあいい。
馴れ合いは嫌いだ。孤高の勝者には、静寂こそが相応しい。
帰り際、エレベーターホールで佐藤と会った。
「お、佐藤。元気でやれよ」
俺は先輩風を吹かせて声をかけた。
「あ、宮坂さん……。お疲れ様でした」
「俺はいなくなるけど、あまり無理するなよ。会社なんて、利用するもんだからな。俺みたいに賢く立ち回れよ」
俺はニヤリと笑ってウインクしてみせた。
佐藤は複雑そうな顔で、曖昧に頷いた。
「はあ……。あの、次のあてはあるんですか?」
「これから探すさ。まあ、この『勝利』の実績があるからな。法的に正しい主張ができる人材は、コンプライアンス重視の現代企業ならどこだって欲しがるはずだ。少し休んで、海外でも見てくるよ」
俺は自信満々に語った。
手元には110万円がある。
当面の生活には困らないし、失業保険も出る。
俺は自由だ。
この狭い鳥籠から解き放たれ、大空へ羽ばたくのだ。
「そうですか……。お元気で」
佐藤が頭を下げたのと同時に、エレベーターが到着した。
俺は箱を抱えて乗り込み、閉まるドアの隙間から、見慣れたオフィスを最後に見渡した。
無機質で、冷たくて、つまらない場所だった。
一階のエントランスを出ると、初夏の風が吹き抜けた。
空は青く、どこまでも高い。
俺は大きく深呼吸をした。
「勝った……!」
つぶやいた声が、風に溶けていく。
俺はスマートフォンを取り出し、最後の投稿をした。
『今日で退職。クソ会社とおさらばだ。慰謝料も貰ったし、明日からは自由の身。さて、俺の才能を高く買ってくれる次のステージを探すとしますか』
すぐに「いいね」がつく。
俺の未来は明るい。
何の実績もない、ただ年齢だけ重ねた「未経験の事務職(訴訟歴あり)」を、世間がどう評価するか。
そんな現実的な計算は、勝利の美酒に酔う俺の頭には、一ミリも存在していなかった。
俺は足取り軽く、駅へと向かった。
背後にある巨大なオフィスビルが、俺という異物を吐き出してスッキリしたかのように、静かに佇んでいることになど気づきもせずに。
お読みいただきありがとうございました。
慰謝料を手にし、青空の下で自由を叫ぶ宮坂君。
彼の目には、輝かしい未来しか見えていないようです。
ですが、彼を吐き出した後の巨大なビルは、まるで最初から彼など存在しなかったかのように静かに佇んでいます。
次回、いよいよ最終回。
第10話「その後の正解」
宮坂君の知らないところで語られる、会社側の「本当の答え」。
全てが繋がった時、最後に笑うのは一体誰なのか――。
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