第2話「聞いていない男」
仕事において「言った・言わない」の論争ほど不毛なものはありません。
ですが、もし相手が「本気で言われていないと信じ込んでいる」としたら……?
自信過剰が招く、新人類(?)の恐るべき仕事術(笑)をご覧ください。
入社から一ヶ月が経った。
会社の雰囲気にも慣れ、俺は順調に仕事をこなしている――と、自分では思っている。
だが、教育係の三浦先輩はそうでもないらしい。
最近、彼女の小言が増えてきたように感じるのだ。
「宮坂君、ちょっといい?」
午後のけだるい時間帯、三浦先輩がデスクのパーティション越しに声をかけてきた。
またか、と俺は内心で溜息をつく。
「はい、何でしょうか」
「来週の会議資料の作成をお願いしたいの。これ、前回の議事録と、必要なデータのリスト。締め切りは金曜日の午前中まで」
三浦先輩は手際よく指示を出し、いくつかのファイルを俺のデスクに置いた。
会議資料作成。また地味な裏方仕事だ。
そろそろ俺を営業の前線に出してくれてもいいと思うのだが。
「分かりました。金曜の午前ですね」
「あと、今回の会議は役員も出席するから、数字の単位は『千円』じゃなくて『百万円』で統一して。それと、グラフはモノクロ印刷でも見分けがつくパターンを使ってね。これ重要だから」
「はい、了解です」
俺は元気よく返事をした。
数字の単位と、グラフの色。簡単なことだ。
わざわざメモを取るまでもない。
三浦先輩は俺の手元をチラリと見た。
俺がペンを持っていないことに気づいたのだろう。
「……メモ、取らなくて大丈夫?」
「あ、大丈夫です。頭に入ってますから」
俺は自分の記憶力を指差して見せた。
いちいちメモを取る時間があったら、すぐに作業に取り掛かった方が効率的だ。
それに、メモを取る姿というのは、どこか「覚えが悪い人間」のように見えてカッコ悪い。
できるビジネスマンは、要点を瞬時に把握して動くものだ。
「そう……。ならいいけど、間違えないでね」
先輩は少し不服そうな顔をして戻っていった。
心配性すぎる。俺を信用していない証拠だ。
***
金曜日の朝。
俺は完成した資料を自信満々で三浦先輩に提出した。
デザインにも凝ったし、見栄えは完璧だ。
これなら役員たちの目にも留まるだろう。
「先輩、資料できました! 確認お願いします」
「ありがとう。早かったわね」
先輩は資料を受け取り、パラパラとページをめくった。
しかし、数秒もしないうちに、その手が止まる。
「……宮坂君」
「はい! どうですか? 今回はレイアウトも工夫して――」
「これ、単位が『千円』のままになってる」
「え?」
俺は覗き込んだ。
確かに、表の右上の単位には(単位:千円)と書かれている。
「あれ? おかしいな。前の議事録と同じフォーマットを使ったんですけど」
「だから、今回は役員が出るから『百万円』にしてって言ったわよね?」
三浦先輩の声のトーンが、少しだけ下がった気がした。
「えっと……そうでしたっけ?」
俺は記憶を辿る。
確かに「数字に気をつけて」とは言われた気がする。
でも、「単位を変えろ」なんて具体的な指示があっただろうか?
いや、ないはずだ。もし言われていれば、俺が忘れるはずがない。
「言ったわよ。グラフもそう。これ、カラーで見れば分かるけど、モノクロコピーしたら青と緑の区別がつかなくなるわよ。パターンを変えてって言ったはず」
「いや、先輩。そこまでは聞いてないですよ」
俺は思わず反論した。
「『重要だから気をつけて』とは言われましたけど、具体的な指定までは……。もしそうなら、最初に指示書か何かで渡してくれないと困ります」
「口頭で伝えたし、念を押したわ。『メモ取らなくて大丈夫?』って聞いた時に、君は『頭に入ってる』って言ったじゃない」
三浦先輩の目が、冷たい光を帯びて俺を射抜く。
なんだ、その言い方は。まるで俺が嘘つきみたいじゃないか。
「先輩、記憶違いじゃないですか? 俺、言われたことはちゃんとやる主義なんで」
「……はあ」
三浦先輩は、諦めのような、深いため息をついた。
その態度に、俺の中でカチンとくるものがあった。
自分の指示漏れを部下のせいにするなんて、上司としてどうなんだ。
「もういいわ。私が直すから、君は別の仕事をしていて」
「いや、俺がやりますよ。指示さえちゃんとしてくれれば、すぐに直せますから」
「いいの。時間がないから」
先輩は俺から資料を取り上げると、自分のデスクで猛烈な勢いで修正を始めた。
俺は手持ち無沙汰に立ち尽くすしかなかった。
(なんだよ、あの態度……)
俺は自席に戻り、ドカッと椅子に座った。
理不尽だ。
きっと先輩は忙しくて、自分が何を言ったか忘れているんだ。
それなのに、俺の「聞いていない」という主張を一蹴して、自分が被害者のような顔をする。
「宮坂君、ちょっと」
今度は、奥の席に座っていた課長が顔を上げた。
三浦先輩の上司にあたる人だ。
「君ね、三浦君の話はちゃんと聞きなさい。彼女、君の指導計画書を作るのに毎日残業してるんだぞ」
「はあ……すみません」
課長までグルか。
組織というのは恐ろしい。
先輩が課長に俺の悪口を吹き込んでいるに違いない。
「宮坂君は話を聞かない」とか、あることないこと報告しているのだろう。
俺は悪くない。
悪いのは、曖昧な指示しか出せない先輩と、それを鵜呑みにする上司だ。
俺の優秀さが正当に評価される日は、まだ遠そうだ。
俺はふてくされたようにパソコンの画面に向かった。
しかし、俺の記憶の中では、本当に三浦先輩の口から「百万円」という言葉は発せられていなかったのだ。
俺の脳が、都合の悪い情報を無意識に削除していることになど、気づく由もなかった。
お読みいただきありがとうございました。
メモを取らずに「頭に入ってますから」と豪語し、ミスをすれば「聞いていない」と逆ギレ。
宮坂君のモンスター新戦力ぶりが加速してきましたね。
彼の主観では「自分は被害者」ですが、周囲から見れば「話の通じない厄介者」。
このすれ違いが、数年後、とんでもない事態を引き起こします。
次回、時は流れて入社三年。
第3話「評価されない三年間」
まだ「新人だから」で済まされていた彼の周囲に、いよいよ冷たい風が吹き始めます。
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