水の中に
爪だ。赤い爪が沈んでいる。
雅明はコップの底に目を落とし、思った。
大きさから考えるに、小指だろうか。昨日は親指だった。
「なぁ、お前、さっきから聞いてんのかよ?」
怒りを含んだ声に目を上げる。
「あぁ、ごめん。なんだっけ」
ぼんやりとしたまま応えると、向かいに座る啓介が舌打ちし、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「だから、プール行こうぜって言ってんの。この間の二人も誘ってさ。美緒ちゃん良いよなーって言っただろ」
この間の……美緒ちゃん……と考え、一体誰だったかと思い出せないままに曖昧に「美緒ちゃんね」と返事をする。しかし、〝美緒ちゃん〟が誰であろうと、
雅明の答えは決まっていた。
「行かない」
はぁ? と不服そうな声を上げる啓介から視線を外し、再びコップの底に目を落とす。
──爪だ。どこからどう見ても。きっと、女の爪。
「友達甲斐なくねぇ? 二年の時俺は手伝ってやったろ。まぁ、あの後駄目になったみたいだけど」
文句を言い始めた啓介の言葉を聞くともなしに聞きながら、雅明はコップを持ち上げた。
「なぁ、このコップの中にさ──」
よくあるファミレスの透明なコップだ。何が入っているのかは何処からでも一目瞭然の筈である。
しかし、啓介は訝しげに目をやってから、鬱陶しそうに手を振った。
「コップが何だよ。もっと飲みたいなら自分で注いで来いよ。それよりもプール。去年は行ったじゃん。何で急に行かない訳」
雅明はすぐには答えないまま、静かにコップを卓に置いた。
──行く訳がない。あんなに水が多い場所になんて。
「お前さ、あそこ行ってから様子変じゃねぇ? 変な風邪引くし。そう言えばあの時もコップがとか言ってたよな」
雅明は、コップの底を見つめたまま思い返した。
そう、全ては──全ての間違いは、あの廃屋だ。
あの日、雅明は免許を取ったという優斗の運転する車で、啓介と共にドライブを楽しんでいた。
大学三年という中途半端なタイミングで免許を取った優斗のことを弄りながら、あちこちを巡った帰り道。まだ物足りなさそうな優斗が言った。
「これから心霊スポット行ってみない? ここから少し行った所にあるんだよね」
ルームミラー越しに期待の籠った瞳を向けてくる優斗に、雅明は失笑気味に答えた。
「ド定番すぎるだろ。まだ運転したいなら海でも目指せばいいだろ」
「野郎三人で海? 冗談じゃねぇ。というか、雅明、お前ビビってんだろ」
助手席の啓介がニヤつきながら振り返る。
「ビビってんじゃねぇよ。免許取り立ての奴等が心霊スポットに行くなんて、それこそ怪談かよ」
前に向き直った啓介が「まぁなぁ」とつまらなそうに同調する。食い下がろうと横を向いた優斗に「前見ろよ」と指を差した。
そうしてから、何かを考えるように頭の後ろで手を組みながら言う。
「つってもさ、これから先、心霊スポットに行くタイミングなんてなくね?」
「別に行く必要ないだろ」
「いや、俺は行きたい。行ってみたい」
真顔で言う啓介に、優斗は「だよねぇ」と顔を向け、「だから前向けって」と頬を押し返される。
啓介は、ルームミラー越しに雅明と目を合わせた。
「何事も経験だって。この経験がどこかで活きてくるかもしれないだろ」
「また適当なことを……」
溜め息を吐く雅明を無視し、啓介は優斗に「行こうぜ」と笑いかけた。
「うっわ、ボッロ。めっちゃ怪しいじゃん」
「何かさ、落書きがある心霊スポットは安全なんだって。ここは無いから──」
「危険ってこと? うへぇ、こえぇ」
やいやい盛り上がり、廃屋の中を覗き込む二人の後ろ姿を見つめながら、雅明はぼんやりとスマートフォンの灯りに照らし出される廃屋を見上げた。
人が住まなくなってからもう随分と経っているのが一目でわかる。扉や窓は外れ、割れている。平屋造りのその廃屋は、雑草や鬱蒼とした木々に埋もれるようにして建っていた。いや、辛うじて原型を留めていた。
「中に入るのは止めとけよ。崩れるかもしれないだろ。それにこういう場所はヤバイ奴が居るんだって聞いたことが──」
「ビビリ雅明~」
歌うように言う啓介に苛つきながら、雅明は仕方なく廃屋に入って行く二人の後に続いた。
家の中に入った途端、体を包む澱んだ空気に顔を顰める。
「わぁ、すげぇ。何の部屋だろ」
そう言いながら、先を行く優斗は、既に何枚も写真を撮っている。
家具らしきものは崩れたり、床下から侵食して伸び出ている木々や草に覆われていた。きっと、この建物は近い内に倒壊するに違いない。
ふいに先を歩いていた優斗が「あ」と小さく呟いて立ち止まった。
「どうした、優斗?」
啓介が訊きながら、優斗から距離を取って足を止めた。
優斗は、ゆっくりと振り返り、部屋の奥を指差した。啓介は、雅明の腕をむんずと掴むと優斗に近付き、その指差す方向に灯りを向けた。
途端、ワハハハと声を上げる。
「落書きあんじゃん。安全な心霊スポット。アハハ! なんじゃそりゃ!」
見れば、奥の部屋の壁いっぱいにのたくったような文字のような物が書き込まれていた。「呪」などの言葉も書かれているが、それらは全て、ただの落書きでしかなかった。
憮然としていた優斗も、ケタケタと笑う啓介に釣られたように笑い始める。二人の様子を見ていた雅明は、白けた気持ちの後に、ふっと湧いた怒りに似た感情を誤魔化すようにして暗い廊下を進んだ。
「あ、おい、どこ行くんだよ」
「もう十分見たろ。あっちの勝手口から出ようぜ」
スタスタと歩き出す雅明に、啓介と優斗は目を見合わせてから続いた。
乱雑に物が積まれた台所横に、硝子にヒビの入った勝手口がある。何の躊躇いもなくそれを開けた雅明は、その先に見えたものに足を止めた。
「あ、何だ。もしかしてそっち出られない?」
「雑草とか凄かったもんねぇ」
すっかり、ちゃらけた雰囲気になっていた啓介と優斗が、雅明の肩口からその先を覗き、感心したような声を上げる。
「すっげぇ。井戸じゃん」
「なんか迫力あるねぇ」
雅明の視線の先、石造りの井戸は暗がりの中に白く浮かんで見えた。木の蓋は崩れ、半分に折れている。
雅明の背を、啓介が突いた。
「なぁ、見て来いよ」
「はぁ?」
「ビビりの雅明~」
雅明は、背で啓介を押し返すと、井戸に歩み寄った。カシャッカシャッと優斗が写真を撮る音が響く。
井戸は、木蓋の隙間からより深い暗闇を覗かせていた。水の匂いが濃く蒸している。
「なぁ、何かある? 人骨とか」
啓介の声に、雅明は灯りで照らした井戸の底に目を向けて、首を振った。
正直な所、石やら何やらが堆積してよく判らなかった。だが、そうあっさりと人骨などを見つける筈がない。
「水はある?」
優斗が期待を込めた声で訊く。
雅明は、答える代わりに井戸の横に落ちていた石を掴み取ると、木蓋の隙間から放り込んだ。一度コンッと軽い音が聞こえると、その後にボチャリという音が続いた。
「水あんじゃん。こえぇ」
廃屋から飛び出して来た啓介と優斗は、雅明の横に立つと中を覗き込んだ。優斗はまたカシャカシャと写真を撮った。
「髪長い幽霊が出てくんじゃねぇ?」と盛り上がる啓介達を横目に見ながら、雅明はじっと井戸の底を見つめ、耳を澄ました。
ぽ、た──ぽた──ぽ──。
──水の滴る音が……。
「おいって」
突然、肩を引かれ、雅明はハッと顔を上げた。
「あ、なに」
「だから、腹減ったしファミレス行こーって」
訝しげな啓介が言い、優斗は「霊障かなぁ」と期待を込めた瞳で首を傾げる。
「行く。俺も腹減ったわ」
雅明は、井戸から目を離し、踵を返した。
二十四時間営業のファミリーレストランに入り、気怠い雰囲気の店内でソファに身を沈める。
「はい、水持ってきた」
甲斐甲斐しく三つのコップを持ってきた優斗は、卓の上でそれを配ってからソファに腰掛け、スマートフォンを取り出して写真を見返し始めた。
雅明は急に喉の渇きに気が付き、コップを持ち上げると、自然の流れでその底へと目を落とした。
「う、っわ⁉」
思わず放り投げたコップが軽い音を立て、中に入っていた水をまき散らす。
「あ、おい、何やってんだよ!」
向かいの席に座った啓介が顔を顰め、服に掛かった水をおしぼりで拭く。店内で燻ぶっている数少ない客が、胡乱な目つきで雅明達を見やった。
雅明は、顔を俯けて「悪い」と謝りながら、コップを拾い上げ、中を覗き込んだ。透明のコップだ。何処からどう見ても中には何も無い。卓の上を見ても、水の跡が残るだけで他に変わった物は何も無かった。
──まだ、気が立ってるのかもしれねぇな。
内心で苦笑しつつ、ふと啓介の傾けるコップに目をやった雅明は、絶句した。
指だ。指が、入っている。
「おま、それ……ゆび!」
指は、水と共に啓介の口の中に流れ込む。啓介は、口をへの字に曲げて「なに」とコップを掴む自身の指を見下ろした。
「指がなに」
「ち、ちがう。指が、口……」
「いや、落ち着けって。なに。口がなに」
「今、指、飲み込んだろ」
きょとんとした啓介は、次の瞬間、つまらなそうに鼻で笑い飛ばした。
「いやいや、もう良いから。ここは心霊スポットじゃないんだよ、雅明。というか、お前どこでそんな演技覚えたの」
言ってる途中で、啓介はゲラゲラと笑い始める。
雅明は、優斗のコップに目を向けた。
ある。あれは、何だ。あれも、指だ。足の……。
「何が見えるの?」
優斗の問いに、雅明は「指」とだけ答える。優斗はコップに目を落とし、暫く考え込むようにした。
「何も無いよ」
「え?」
「ただの水」
優斗は、コップを持ち上げると、何事もないように水を飲み干した。
あぁ、指が。足の指が、口に流れ込んでいく。
雅明は、胃液がせり上がる感覚に口元を押さえた。
「あ、おい。ここで吐くなよ⁉」
啓介の声が、意識の遠くに聞こえていた。
それから数日間寝込んだ雅明は、時折覚醒する意識の間に啓介の姿を見た。
水を飲ませようとするのに抵抗しようと試みるが、体が動かない。強引に水を飲まされる。
指だ。耳だ。爪だ。目玉だ。髪の毛だ……。
水と共にそれらは体の中に流し込まれる。
覚醒しては、それを思い出して吐く。しかし、体は水を求める。
風呂に入っても、便器の中も、シンクの中も、水がある場所には浮かぶ。体の欠片が。
今日は、耳だ。
今日は、歯だ。どの歯だ。
今日は、髪だ。長い……。
「一応、心配はしてんのよ。まぁ、甲斐甲斐しく風邪でへばったお前の世話焼いたんだから判ってると思うけど。で、そのコップが──」
言いかけた啓介は、着信を告げるスマートフォンに目を落とし、軽く手を上げてから通話をタップした。
「おー、優斗。久し振りじゃん。──え、なに、雅明? 今一緒に居るけど。だいぶ体調も良くなったし飯……え、なに。何で泣いてんの。雅明は別になんとも……え、代われ? 雅明に掛けろよ」
そう言いながらも、啓介はスマートフォンを差し出した。
耳を当てると、優斗がすすり泣く声が聞こえてくる。
『雅明君?』
「……うん」
『ごめん』
優斗は暫く、ごめん、と繰り返した。
「何があった?」
優斗は、洟をすすりながら何かゴソゴソと音を立てている。
ピロン、と雅明のスマートフォンが新着メッセージを報せた。
優斗から送られた、画像データを開く。
そこには、井戸の前に立つ、雅明の後ろ姿が写っていた。その向こう、井戸を挟んで向かい側に──女が、立っている……。
『ごめん、あの後写真見返してたら見付けちゃって。雅明君が寝込んでるって聞いて、怖くなっちゃって言えなかった。これ、どんどんパーツが増えて出来上がっていったんだ。どうしよう、この女が、女が──』
優斗が、電話口でどうしようと喚き出す。
雅明は、画面の中で佇んでいる女から目を外し、右下の地面に目を移した。そこには何か赤い小さな物が写り込んでいた。
──爪だ。これは。赤い、爪。
地面に突き立てるようにして、赤い爪が見える。恐らく、親指の爪。雅明が昨日水と共に飲み込んだ筈の、赤い爪。
優斗は、まだ気が付いていない。
「ふ……」
雅明は小さく笑い、コップの水を飲み干すと、画面を見つめた。
ほら、次は小指の爪だ……。




