9:境界に立つ者
施設への侵入を決意した七海。しかし、決行は今すぐというわけにもいかない。マサトと俊之を残し、ひとり図書館を出た。日課をこなすために。早朝から村井のもとを訪ねたこんな日でも、給水所に行かなければ体が持たない。
(水なしで生きられたらいいのに…)
七海は、やるせなさで胸が締めつけられた。しかし、そんなことは願うだけ無駄だと、とうに分かっている。だからこそ、現状を変える"何か"を探しに村井のところへ行ったのだ。
門を出たところで、人の気配を感じた。
「久しぶりね。」
姿を現したのは、七海が知っている…いや、知っているはずなのにそうとは見えない人物だった。
「歩美!?」
前園歩美。
七海のことを"小川みたい"と例えた、元同期の歩美である。七海が研究所で志を同じくしていた頃、歩美の笑顔は"太陽みたい"だった。それが今は──すべての感情を忘れてしまったかのような無表情だ。
「久しぶり。…なぜ、ここに?」
七海は、緊張した声で尋ねた。
「そんなに警戒しなくてもいいんじゃない?そうね…いろいろ省略して言うと、今は私、あの造水施設の人間よ。」
「えっ…」
七海は、一瞬驚いたが、すぐに歩美が省略した部分を推しはかることができた。
「それじゃ、今は村井さんと…」
「そうね…"上司"というのが近いかしら。雇い主というわけでもないし。」
歩美は、そこで言葉を切った。そして、身につけていた小さなポーチから、何かのリモコンのようにも見える小型のデバイスを取りだした。
「ごめんなさい、あまり時間は無いの。これだけ、七海に渡したくて…」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、既にそれは、七海の手に握らされていた。
「…これは?」
「"ホットライン"よ。直接、私に繋がる。いらないなら石か何かで叩き潰しておいて。判断は、あなたに任せる。」
七海は、どうリアクションを取っていいのか分からず、ただじっと歩美を見つめた。歩美は、その視線を避けるように目を伏せ、言った。
「この町の秩序は、"血水"で保たれている。装置を止めようとすれば、当然…分かるわよね?」
小さく頷く七海。それが分からないほど、七海も平穏な人生を歩んできたわけではない。
「歩美は…味方なの?それとも…」
「それは、私が決めることじゃない。」
そう答える歩美の無表情は変わらない。
「忠告はしたわ。でも、それ以上は…」
何か言いたそうにして言葉を飲みこむ歩美。不意にアラーム音が鳴る。
「リミットね…。じゃ、行くわ。」
歩美は、足早にその場を去った。あまり自由の無い身であることが、行動から、そして言葉からも滲みでている。歩美の真意は分からなくても、リスクを負ってまでここに来たということの重みだけは、七海の心にずっしりと響いていた。
七海は、手の中にある"ホットライン"を握りしめた。これを繋ぐのは何が起きた時なのか、また、繋がったら何が起きるのか、今はまだ分からない。しかし、自分のひとつひとつの選択がその答えを作っていくことを、七海は強烈に自覚せざるを得なかった。
そして、給水所へと歩きだす。たとえ同じ場所でも、昨日とはまったく意味の変わったその場所へ。歩美が自分に託した"ホットライン"は、自分の選ぶ"未来"へと繋がっている──そんな思いを胸に抱きながら。