8:提供者の家族
七海は、手に入れた"血水精製装置"の回路図をじっと見つめ、自分に何ができるのかを探っていた。しかし、自然の水を求めていた自分にとって、こういった類の物は得意とするところではない。
「安心してください。」
動きの止まっている七海の心中を察し、マサトが声をかける。
「回路図は、僕が解ります。それから…」
足音が近づいてくる。続いて、ドアの開く軋んだ音。七海が顔を上げると、入口に人影があった。
「あの施設のことは、彼が知っています。」
そう紹介された男は、少し訝しげな顔をしながら二人のいる机のところへ歩みを進めた。
「わりぃ、ちょっと迷った。図書館なんて、ろくに来たことねぇから。」
図書館を使ったことがなさそうな…というと偏見が過ぎるが、少なくとも図書館で働くには似つかわしくない雰囲気の男。汚れた作業服、無精ヒゲ、古びたスニーカー、そして工具の詰まった腰袋をぶら下げている。
「こんにちは。あなたは…?」
七海が問いかける。
「あぁ…宮戸さんか。俺は、井川俊之。こいつとは、昔からの知り合い。」
「知り合い…か。便利な言い方するね。」
否定も肯定もしないマサトとこの男との関係は、七海の知るところではない。ただ、ひとつだけ分かるのは──
「井川…俊之さん?あの、もしかして…」
七海が言いかけると、俊之の表情がわずかに硬くなった。そして、七海より先に答えを言う。
「あぁ、そうだ。血液提供者の井川小百合は、俺の妻だよ。やっぱり、知っているんだな。」
七海は、施設で見たあの光景を思い出していた。タンクの中で、チューブに繋がれ、意識もなく、漂う人々。その中に──
「知っています。特に、小百合さんは最初期からのご提供者だと聞いていましたから…」
「そうだな。自分で志願した。…ということになっている。でもな…」
彼の語気が強まってくる。
「自分でそれを選ぶヤツなんているか?選ばされたんだ。"多くの人を救える"って言葉で納得させられて…。あんたら研究者が"倫理的"だと言ってな。…知らねぇけど。」
俊之の言葉に、七海はうまく返せなかった。彼の言葉は荒いようでいて、芯を食っている。自分もかつて研究者として、そうした"倫理的"な構造を見過ごしていた。
「俊之!気持ちは痛いほど分かるが…言葉が過ぎるだろ。七海さんは、そんな社会を変えようとしている研究者だ。」
マサトが言葉を挟む。そして、棚の陰に隠しておいた頑丈そうなケースを取りだし、机に置いた。
「これは、社会を変えられる"可能性"だ。」
ケースを開けると、中から電子機器の部品のようなものが現れた。
「これを"血水精製装置"に接続することで、小百合さんを救えるかもしれない。しかし、無事に施設に侵入できれば、という話だが…」
すると俊之が、ポケットから金属片のようなものを取り出した。無造作に机の上に転がされたそれは、よく見ると何かの鍵だった。
「これは…!?」
七海が尋ねると、俊之はとぼけるように頭を掻きながら答えた。
「あぁ、これ…俺が頼まれてあの施設の通気口を整備した時、ちょいと拝借した。でもこの経路、図面には無いんだよ。まぁ俺からすると、整備効率は抜群で、つまり…不自然すぎるほどに"よくできた"通気口だった。」
七海は、違和感を覚えた。
「それって…バレないの?」
「さぁな。たしかに、ガチガチに警備されたあの施設にしては、こんな"穴"を残しておくわけないとは思う。あるいは、誰かが気づくように、わざと作ったとか…」
そこまで言って、俊之が七海の顔色を窺う。七海は、机の上の鍵をじっと見つめたまま、何かを考えこんでいる。それから、視線はそのままに意識だけを俊之に向けて言った。
「…ありがとう。使いましょう、この鍵を!」
場違いなはずの彼が今、図書館に来ているということ──それは今、過去が動きだしたということ。七海は手を伸ばし、"希望の鍵"を手に取った。過去から未来へと、扉を開けて進むために。