7:書庫のマサト
図書館──それは、かつて町の片隅にあった小さな学びの場。今ではすっかり誰も近づかなくなり、入り口には「閉鎖」の札がぶら下がっている。七海は、廃墟と化したその建物の扉を開け、中へ入った。
埃と紙の匂いが、図書館たる証として残っている。しかし、書架や閲覧席は相当に傷んでおり、触れればその部分がまるごと崩れ落ちそうだ。七海は、薄暗い中を少しずつ奥へと進んでいった。
これ以上は進めないと思わせる奥の奥──実際、まだ図書館が利用されていた時には入れなかった辺りまで来た。すると、ある扉の小窓から薄っすらと明かりが漏れていた。七海は不審に思いながらも、「図書館は裏切らない」という結城の言葉に背中を押され、「書庫」と書かれたその扉を開けた。
七海は息を呑む。誰もいないはずのその場所に──人影があった。
「やっぱり、来てくれたんですね。」
そこにいたのは、一人の青年だった。眼鏡越しに、漆黒の瞳が七海を見つめる。穏やかな声、控えめな物腰。どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。
「あ、えっと…こんにちは。どこかでお会いしましたか?」
「いえ、お会いするのは初めてです。僕は…マサトと言います。」
そう名乗る彼の態度は、わざとらしい自己主張が無い分、かえって堂々として見えた。反面、何かを隠しているような気配も少なからず感じさせた。
七海は、慎重に言葉を選びながら問いかける。
「あなたは、ここで何をしているんですか?」
マサトは、書庫の棚から一枚の紙を取り出した。
「これは、"血水精製装置"の回路図です。」
「えっ!?」
七海は怪訝に思いながらも、続くマサトの言葉に集中した。
「正規のルートで出されたものではありません。でも、あなたには見せるべきかと…」
図面に引かれたラインは手描きのようにも見え、明らかに公式のものではなかった。しかし、装置を思いのままに操るのに必要な情報は、充分に含まれていると思われる。
「なぜ、こんなものを私に!?あなたはいったい…」
「僕が何者で、どうやってこれを手に入れたかは、まだ言えません。これを見せる理由は…あなたが研究者だったからです。"水"を信じた人だと聞いています。」
マサトの言葉は、七海の中に信頼と不信感を同時に抱かせた。しかし、彼の漆黒の瞳と穏やかな声には不思議と、七海に話を聞かせるだけの説得力があった。
「世界は、誰か一人のせいでこうなったわけじゃない。でも、世界を変えようとする"誰か"は、きっと必要です。」
七海は、世界を渇きから救いたいと本気で思っていた。しかし、叶わなかった。自分の無力感を見透かすこの青年が、敵なのか味方なのか、それは分からない。それでも──
「宮戸七海さん!世界はまだ、変えられると思いませんか?」
七海は、その問いに黙って頷くしかなかった。マサトの回路図は、正確さも入手ルートの是非も分からないままだが、それがもはやただの紙きれでないことだけは、七海にも伝わっていた。
薄暗い中、机に広げられた回路図だけが、まるで光を放つかのように白く浮かんでいる。誰からも見捨てられた図書館から、もう一度こうして生まれる光──それこそが世界を変えるたった一つの希望の光かもしれない。
七海は、そう信じずにはいられなかった。