6:感情の価値
七海は施設の外に出た。太陽が照りつける。空気は乾いている。喉が焼けつくような感覚を覚えながら、七海は、"血水精製装置"という名のあの残虐な光景を思い返していた。
感情を切り捨て、水を手に入れる。それが正しいと、村井は信じて疑わなかった。いや、もはや村井の信念がどうあろうと関係なく、人類が既にそれを選んでいる。個人レベルでは変えようのない、紛れもない事実である。
けれど──
(本当に、それでいいの…?)
七海には、疑念が渦巻いていた。できることなら、全人類にその疑問を投げかけたかった。しかし、自分の中でさえ答えの出ていないその問いを、誰かに投げかけたところで何も変わらない。諦めと絶望とに押しつぶされそうになりながら、七海は、自宅へと歩きだした。
町の通りを歩く人々の顔は、今日も空っぽだった。明日も、明後日も、そんな顔をして生きていく。給水所には、相変わらず長蛇の列ができている。その列に並ぶ者たちも、泣かず、怒らず、笑わない。今日も、明日も──
七海は、ある親子連れに目を留めた。若い母親が差しだしたボトルを、娘が受け取る。歳は三つくらいだろうか。とても大人しい…というより、大人しすぎる。まったく言葉を発することなく、一口飲み、母親にボトルを返す。その動作には感情が無い。
七海の目が、その幼い少女の目と一瞬だけ合う。七海は、その目が恐かった。何の光も浮かんでいない。泣いたのは、生まれた瞬間だけだったかもしれない。笑ったことなんて、一度も無いのかもしれない。
「感情って、そんなに簡単にいらなくなってしまうものなの…?」
その呟きは、自分自身への問いだった。結城の口癖、「人の命は、感情を伴ってこそ"命"だ。」という言葉に、何の迷いもなく同意できる自分でありたいのに、現に自分も感情を失いかけていて、それでも今、生きている。
("生きている"?本当に、そう言えるの…?)
七海の胸には、結城と過ごした日々が浮かんでいた。
「水は命の源だが、“生きる意味”ではない。心を失ってまで水を得ようというのは、意味の無いことだ。」
あの言葉の重みが、今になって深く沁みてくる。喉は渇いていた。体は容赦なく"水"を欲していた。迷っている時間は無い。答えを出そうが出すまいが、水が無ければ死ぬもの…それが自分なのだ。
「先生、私…どうすれば…?」
「図書館に行きなさい。」
朦朧とする意識の中、自分でも呟いたか呟いていないか分からない問いかけに、結城の声がはっきりと答えたような気がした。それはかつて、七海が進む道に迷った時、あるいは自分そのものを見失いそうになった時、結城に相談すると決まり文句のように返された言葉だった。
「諦めずに足掻き続ける人間を、図書館はけっして見捨てない。」
それが、結城の持論だった。
七海は立ち止まり、大きく息を吐くと、その足を自宅から90度の方向へと向け直した。諦めかけ、絶望感に襲われ、感情さえも失いそうになりながら、それでも、心の中に湧く思い──
(自分が、"人間"であることを信じてみたい。)
足掻き続けた人生を、辞める理由は何も無い。悪足掻きでも…何もしないよりは、"生きている"。「小川みたいだ」と言われた自分が、川らしく、自ら流れを止めることはしない──それが、七海の迷いの中で、やっと一つだけ定まった矜持だった。