5:拒絶反応
突然、七海に激しい吐き気が込みあげた。口を押さえ、うずくまる。
「大丈夫か?」
村井の声に、七海の遠のく意識が戻ってくる。顔を上げてみるも、視界は歪んでいた。
「すみません…。大丈夫…です。」
──体が、血の匂いに反応している。
それは、昔から彼女が抱えている体質だった。
七海は、床に手を付きながらなんとか立ち上がった。脚に力が入らず、何かの支えなしには歩けないくらいふらついていた。
部屋に充満する奇妙なニオイ…それは、金属臭などではなく、血の匂いであった。薬品と混ざり、鼻ではそうとは分からないものとなっていたが、わずかに紛れる血の匂いが、七海の脳を直接刺激してくるのだ。
「君は、昔からこれに弱かったな。だが、人体とは不思議なものだ。血を拒絶している君の体は今、その血から作られた"水"によって、生かされているのだからな。」
七海は、震える声で返した。
「こんなもの…"水"じゃない。ただの命の搾取よ…」
村井は、わずかに眉をひそめたが、すぐにまた冷静な態度に戻り言った。
「命は、もともと搾取の連鎖だ。草が虫に食われ、虫が鳥に食われ、鳥は人に食べられる。私はただ、それを応用しただけだよ。生きるための"水"を得た。それだけの話だ。」
「そのために、こんな酷いことを…?」
七海は、涙ぐんでいた。
意識を失ったままタンクの中に浮かぶ血液提供者たち。七海には、自分の体に異変をもたらすこの血の匂いが、命を奪われ続ける彼らの、「まだ生きている」という必死の訴えのように思えてならなかった。
「そうか…君は感情を、まだ失っていないのか。珍しいケースだ。」
「…どういうこと?」
七海は、恐る恐る聞いた。
「君も、気づいていたんじゃないのか?"血水"を飲んだ人間は、感情を失う。町の人々も、そして、もちろん…私もだ。」
七海の脳裏に、給水を待つ人々の無感情な行列が浮かんできた。
「やっぱり…この"水"のせいだったのね。それならなおさら、血を水に変えて生き残ろうだなんて、間違っているわ!」
村井は、表情も口調も変えない。
「そう思うことは自由だ。しかし、君のことは報告させてもらうよ。」
「報告って…誰に?」
「分かりきったことを聞くじゃないか。この施設の運営者に、だよ。運営上の判断に必要な情報は、漏れなく報告義務がある。」
「"血水"にも、感情を残せる可能性があるということでしょうか?それとも…まさか、感情をもっと奪おうなんてことに…?」
「さぁ…それは私には分からない。倫理と生存、どちらが優先されるべきかを選ぶのは、研究者じゃない。運営者だ。」
その言葉に、七海の中で何かが崩れ落ちた。
かつて同じ研究室で未来を語っていた村井は、もうここにはいない。七海が彼の力になれる余地はもう無かった。
「私は…ここに来るべきじゃなかった。」
七海は立ち上がり、ふらつく足を引きずりながら、その場を離れようとした。
「いや、君は来るべきだった。ただ、遅すぎたのかもしれない…」
村井のその言葉が、妙に意味深に響く。七海は振り返らなかった。村井の、どこか言い切れぬ思いを背中に感じる。しかし、それ以上に感じるのは、タンクの中に閉じこめられた人々の、感情を伴った強烈な"命"だった。