2:追憶のノート
気づけば深夜になっていた。
七海は部屋の灯りもつけないまま、あのノートを読んでいた。
紙もインクも劣化しており、既に読めなくなってしまっている部分もある。だが、その断片にこそ、かつての"信念"が宿っていた。
『涙から水を抽出する──感情を伴う水。反応特性に違いが出る』
『血水に強いストレス反応あり。情緒への影響を早急に解明するべし』
この記録は、七海の恩師、結城尊人の言葉を書きとったものだ。
結城は研究の初期から、感情と水の関係にこだわっていた。彼にとって、命とは単なる水分量ではなく、"心"と共にあるものだった。
「人の命は、感情を伴ってこそ"命"だ。」
それが、結城の口癖だった。
ページをめくるうちに、七海は一つの走り書きを見つけた。
『血の使用は、倫理的にも問題がある。しかし、村井が言うとおり…』
そこで文が切れている。
七海はノートを閉じ、本棚から別の書類の束を引き出した。そこには研究所の古い組織図と、人の名前が並んだリストが綴じられていた。
その中に、見覚えのある名があった。
『村井宗一』
七海の中にあった疑問が、静かに膨らんでいく。
結城と村井は、もともと共同研究者だった。だが、ある時を境に決裂し、結城は表舞台から姿を消した。
村井だけが残り、血水装置という"答え"を作った。
(そのとき、結城先生は何を思っていたんだろう?)
七海は、研究所の隅にあった休憩室でのやり取りを思い出していた。
「宮戸さん、あなたは水を得るために心を犠牲にすることをどう思いますか?」
「生きるためにその水を得ようというのなら、矛盾していると思います。」
「そうですね。もし、命を延ばすだけの水と、心と共にある水があるのなら、私は後者を選びます。」
それが、結城と七海が最後に交わした会話だった。
七海はノートを胸に抱え、目を閉じた。
この乾ききった世界の中で、自分の心の奥にだけ、湿った何かがまとわりついているように感じられた。
七海はふと、研究所の同期だった歩美の言葉を思い出した。
「七海は小川みたいな人ね」と。
よく意味は分からなかったけれど、結局こうして川のようにこの地に流れついたのだから、言い得ていたのだろう。
「歩美は太陽みたい」と返すと、ケラケラと笑っていた。笑顔しか見たことがないくらい明るかった歩美は、今どうしているのだろうか。淀んだ川のことも、明るく笑い飛ばしてくれるだろうか…。
七海は決意した。
「私はまだ…流れていたい。」