2 光
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背後に迫りくる追っ手の気配を感じながら、ジニアは慎重に森の中へ足を進める。どれくらい歩いたか分からなくなってきた頃、突如視界が開けた。
そこは急峻な崖の上だった。下にはまだ森が続いているが飛び降りて助かるような高さではない。そろそろ夜明けが近いのか、遠くに霞む山々は稜線が光を帯びている。空は夜と朝の境界の色をしていた。
「ここにいたか…」
「っ!」
候爵に追いつかれてしまった。ジニアは距離を取ろうと咄嗟に崖の際ギリギリまで下がった。
どうしよう、もう逃げ場がない…!
「それを返せ、娘。大人しく返したら許してやる」
候爵の形相は普段の様子と全く違っていた。髪をふり乱し目の下には濃い隈を作っている。いつものっぺりとしていた瞳は、今はギラギラした感情を剥き出しにしていた。
風切羽根を返したとして、本当に許してくれるのかわからない。ジニアは身の危険を感じた。
「い、嫌です!」
「やっとリリィが…リリィが…戻るのに…邪魔をするなよ小娘!それを寄越せ!」
候爵の目は血走っている。ジニアの全身に悪寒がゾワッと駆け巡った。とにかく時間を稼ぐために質問を繰り出す。
「これでリリィさんをどうする気なんですか?戻る、ってどういうことです?」
候爵はジニアの焦りを感じたかのか、幾ばくかの余裕を取り戻し、嘲るように笑った。
「ふん…、特別に教えてやろうか。『風切羽根』はな、代々の教皇の『羽根』の力が込められているんだよ。歴代の教皇の中には時間を操れる者がいた。それで時を戻すんだよ!あのクソ野郎に会う前のリリィにな!!」
「なっ…」
候爵は一歩、一歩と近寄ってくる。
「時を戻したなら…、あの頃のリリィになって…、また婚約者を見繕って…幸せになるんだよ…リリィは…」
時を戻す?この『風切羽根』で、そんなことができるの?できたとして、起こった事がなかったことになるの?
ジニアは手の中にある『風切羽根』を思わず握りしめた。
「そんなことをして…リリィ様から産まれたレオン様はどうなるんですか、無事なんですか!?」
「知らん、消えたらいい。王の風上にも置けない俗物の息子なんぞ」
「……!!!」
この人は、妹だけが大事なのだ。レオン様のことを微塵も考えていない。それが悲しくて、次に怒りが湧いてきた。
「これは、絶対に渡しません!」
「なんだと?」
候爵の足が止まる。でも、飛びかかられたら逃げられない距離だ。
「レオン様は、記憶を奪われて神殿で孤独に過ごしていたんですよ!レオン様に罪は無いのに!リリィ様の身に起きたことは確かに酷くて悲しいことですけど…」
ジニアにも妹がいるので家族が不幸に襲われたらと考えると堪らない気持ちになるし、リリィや候爵の悲しみはきっと想像できないくらいの辛さだろう。
でも、どうしてもレオンハルトの存在を許容出来ないのなら、放っておくだけで良かったのに。『忘却』の力を使ったのは紛れもなく候爵自身だ。レオン様の記憶を奪い、孤独に陥れて、殺そうとしてもいいわけがない。ジニアはそう思った。
「私…、私はレオン様の味方です!孤独でも誇り高く優しく生きようとした、あの人の!レオン様に酷いことをするなら許しません!」
ジニアは候爵の目を見てキッパリと言い切った。その姿は背中から朝日の光を浴びてキラキラと眩しいような姿になっている。
候爵は不意をつかれたように静かに聞いていたが、やがてその拳が震えだす。
「黙れ!何も知らない小娘の分際で!知ったふうな口をきくな!!」
候爵がジニアに飛びかかった。
ジニアは思わず身を丸くするが、候爵の力にかなうはずもなく大きくよろけて足元が浮く。
「あっ…」
よろけた先に、地面はなかった。
候爵と二人縺れるようにして崖から飛び出してしまう。
———嫌だ。
ジニアは思い出す。
レオン様と約束したのに、寝ないで待ってるって。
このままじゃ約束を果たせない。
そんなの嫌だ。
またぜったいにレオンさまにあうんだ。
ジニアの背中が、はっきりと熱を持って焼けるように痛むのを感じた。
◎
もう少しで領地にある候爵の屋敷という所で、レオンは眼に強烈な違和感を感じて馬を止めた。
「レオン様、どうしたんです?」
後ろを走っていたローニーが馬を並べて聞いてきた。
「わからない。何か急に…」
思わず目元を押さえたが、違うと思った。違和感の正体はここじゃない。
今いる場所は野原のようなところで、少し先に森の入り口がある。道なりに行けば候爵の屋敷に着くはずだが…
顔を上げると切り立った崖が見えた。その上に何か二つの影が確認出来た。
「レオン様、あれ!」
ローニーも気がついたらしい。
「ジニア!!!」
候爵とジニアだ。影が重なって、何やら揉めているような雰囲気である。するとすぐに、その二つの影は折り重なるようにして崖から落下した。
「ああっ!」
悲鳴を上げた。あそこから落ちて助かるはずはない。レオンは絶望して——ー
強烈な光を浴びた。
太陽が落ちてきたのかと思うほどの圧倒的な光量だ。
「うわっ!」
ローニーは光に目がやられてしまったようだが、『神の眼』を持つレオンは目をしっかり開けて、何が光を放っているのか確認した。
———ジニアだ!
ジニアからこの強烈な光が出ている。
しかも、あれはなんだ?
背中から翼が生えていないか?
何対もの白い羽が折り重なるようにしてその背中から伸びている。
もうジニアたちは落下していない。その場に打ち付けられたかかのように中空に止まっている。
ふと、ジニアがこちらを向いた。
レオンとジニアの目があった。
「ぐっ…!!」
また違和感が襲ってきて片手で目を覆った。
しかし、レオンは違和感の正体を理解していた。
——あれだ。
あれは、俺の眼だ。




