1 風切羽根
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馬車が停まると、候爵はジニアの足の縄を解いて自分で歩くように促した。もう逃げないと思われたのだろうか。でも実際問題としてジニアにはここがどこか分からなかったのでどう逃げたらいいかあてがない。それに、馬車に揺られている間中ずっと背中がチリチリとして痛かった。打ち付けたところが悪くなっているのだろうか。ジニアは両腕を後ろ手に縛られたまま、候爵たちの後について行くしかなかった。
夜中なので全貌が見えないが、どうやら目の前に屋敷があるようだ。辺りは鬱蒼とした森で、ここだけくり抜かれたように開けている。松明の灯りが届く範囲の外は闇で塗り固められたような暗さだ。候爵とジニア以外には、候爵家の私兵と見られる騎士が数人いるだけである。
目の前の屋敷の扉が急に開くと、そこに以前王都の屋敷で会ったことのある白髪の執事がいた。
「旦那さま、ご無事でお戻りですか」
「ああ。首尾よく奪ってきた。これでリリィが元通りになる」
候爵が手に持った木箱を掲げて機嫌よく答えると、執事は「ああ…ようございました。リリィさまがお元気に…」と言って泣き出した。
あの箱に、候爵の妹を回復させる手立てがあるの?
ジニアはあの箱の中に入っているものが何なのか、わかる気がした。何故かチリチリする背中がそれを教えてくれている。
「閣下!」
騎士が慌てて候爵に駆け寄ってきた。
「伝令から報告です!レオンハルト殿下が馬で王都を出た模様です!どうやら東の方角に向かっているとのことです!」
「何?もうこちらに気づいたのか?」
ジニアの心臓がどくんと大きく鳴った。
レオン様が?
「それなら急がねばな。それに、ちょうど人質に使える娘もいる」
候爵の唇が歪んだようにニタリと笑った。
ジニアの心臓がドクドクと鳴り響いている。
レオン様が来てくれる、でもこのまま人質にされたら足手まといになってしまう。私の心配ばかりしていた、優しいあの人の枷になる。
———そんなのは絶対に嫌だ!そんなことになるくらいなら…!!
ジニアは衝動的に駆け出した。
とにかく、あの森の中へ。あの暗い森に紛れたら、隠れられるかもしれない。
「待て!!」
「きゃあっ!」
しかし腕を縛られたままでは早く走れなかった。あっさりと追いかけてきた騎士に腕をとられる。
「ふん、森に逃げ込もうとは無謀な。大人しくひとー」
候爵が馬鹿にするように続けようとした瞬間、彼の手にあった木箱が突然、ばごんと音を立てて壊れた。
「なんだ!?」
周囲がどよめく。
破片と共に現れたのは大振りの鳥の羽根である。白く煌めきながら、フワフワと浮いている。
「『風切羽根』…!」
ジニアはそれを呼んだ。『風切羽根』は、宙を切って真っ直ぐジニアの元にくると、目も開けてられないような一際眩しい光を放った。
「くっ…!」
その場にいた者たちはまともに光を見てしまい悶絶した。しばらく目が利かず、クラクラとしながらようやく視界が戻った候爵が辺りを見回すとジニアと『風切羽根』は消えていた。
「あの娘…!!どこに消えた!?」
候爵は怒り狂った。
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ジニアは森の中に飛び込んだ。あの光の中で騎士を振りほどいて、ついでに騎士が腰に下げていた短剣を失敬したので四苦八苦しながらロープを切った。
とりあえず、手が自由になりまともに走れる。
「娘!!『風切羽根』を返せ!!」
候爵の怒鳴り声が聞こえる。屋敷の周りは松明に煌々と照らされているのでこちらから候爵たちはよく見えるが、向こうからはジニアの居場所はわからないだろう。しかし、探しに来られたらきっとすぐバレてしまう。
もっと奥に逃げないと。左手首のブレスレットをギュッと握って勇気を貰う。何故か自分の懐に飛び込んできた『風切羽根』を抱えて、ジニアは慎重に歩き出した。『風切羽根』はもう光っておらず、普通の鳥の羽根のようだ。
後方から「足跡が残っているから近くにいるのは分かっている!」と聞こえた。
ジニアの心臓は激しく鳴りっぱなしだ。早く奥へ。普通ならば夜の森なんて明かりなしで到底歩けるはずはないのに、今のジニアは夜目がきいて昼と変わらない速度で移動できた。
この『風切羽根』のおかげだろうか?手に持っていると不思議と馴染む感じがする。どうしてだろう。背中のチリチリもさっきより落ち着いていた。
「『風切羽根』を返せ!!あれはお前が持っていていいような代物ではない!あれはリリィを元に戻すためのものだ!」
候爵の怒声が闇をつんざいて辺りに響き渡る。
元に戻す?戻るとはどういうことだろうか。
ジニアは思わず大きな木の根元にしゃがんで後ろを振り返る。小さく見える候爵が怒りの表情なのがここからでもわかった。
「あれは願いを叶える迷信の産物ではない!だがリリィの体と記憶を戻せるんだ!!私の悲願だぞ!返せぇえ!」
気が狂わんばかりの咆哮だった。候爵の言っていることはどういう意味なのだろうか?しかしホイホイと出て行って返せるような状況ではない。
ジニアは前に向き直って夜の森を進んだ。
◎
レオンもまた、馬を全速力で飛ばしていた。
こういうとき自分の力は便利だ。夜道を危なげなく走ることができる。
走りながら、候爵とジニアのことを考えていた。
候爵の過去には同情すべき点がある。自分を嵌めていたこと、殺そうとしていたことは許せるわけではないが、面倒をみて貰っていたことを合わせると酌量の余地がある気もしていた。
しかし、ジニアに手を出すのは完全に別だと感じている。ジニアに何か酷いことをしたのなら、絶対に許さないだろう。その時は…。
王城を出る時に借りた剣が、ぶら下げてある腰元で重みをずしりと増した気がした。




