9 候爵の闇その1
「ご無礼仕ります。レオンハルト殿下におかれましては、お初お目にかかります」
玄関の馬車寄せで馬車を待っていると、そう声を掛けられた。外に出て新鮮な空気を吸うと王子の顔色はだいぶよくなっていた。ジニアと王子は振り返る。そこには暗い金髪に榛色の目をした二十代半ばとおぼしき青年が丁寧な礼をしていた。
「貴殿は?」
「わたしはウィリアム・フロックス。この家の嗣子でございます。」
「フロックスの?」
王子は僅かに驚いた顔を見せる。目の前の青年はあの候爵に全然似ていなかったからだ。その反応に青年は慣れているのか、スラスラと答える。
「嗣子と言いましても、わたしは養子ですので。義父と血の繋がりはございません」
「…そうか。確かに、候爵は未婚だったな」
フロックス候爵が未婚と聞いてジニアは内心ひどく驚いた。貴族というのは血を繋ぐことも重要な仕事であり、結婚をしないと半人前と見なされる世界だからだ。候爵という地位にありながら未婚とは、半ば義務を放棄したようなものだ。あの貴族然とした候爵のイメージからは離れた行為のように思える。
ウィリアムと名乗った青年はフロックス家の遠縁から養子にやってきたらしい。雰囲気も候爵とは違っていて、穏やかで聡明な瞳をした青年という印象だった。
「先程義父から殿下がパーティーにご出席されると伺いまして。当日はわたしが義父の名代として参じますので、先んじて殿下にご挨拶をと」
「名代?フロックスは出席しないのか?」
「はい。義父はいつもこういった式典には出たがらないもので…。申し訳ございません」
王子は少し考える素振りを見せたが、やがて思い切ったように聞いた。
「それは…王家と、母のことに関係あるのか?」
「それはわたしはから何とも…」
青年は困ったような顔をした。しかし王子の顔をチラリと見てから静かにつけ足した。
「…あの、これはわたしの推測ですが。王家というより、義父はアデルバード殿下のことが少々苦手なようなのです」
「苦手?」
「はい。大きな声では言えませんが…。それにアデルバード殿下自身というよりも、アデルバード殿下が先王に似ておいでなことが苦手なようでして」
「先王だと?」
先王といえば、『青嵐の王』とも呼ばれ五十年程前に隣国との戦争を終わらせた偉大な王のことだ。
ジニアもかつて父から聞いたことがある。嵐を操る『羽根』の力で、戦いを勝利に導いた力強き英雄王。
アデルバード殿下とレオンハルト殿下の祖父に当たる人だ。
「…つまり、先王が苦手ということか?」
「わたしにもそれ以上はわかりません。ですが、今の陛下に関して思うところがあって式典に出たがらないというわけではない、と思っています」
青年は王子の母親リリィ・フロックスと父親である現国王との間に何もわだかまりがないと言いたいのだろう。青年の気遣いを感じた王子は鷹揚に頷いてみせる。
「そうか、ウィリアムと言ったな。これから顔を合わせることも増えるだろう。宜しく頼む」
「はい、殿下。今後とも宜しくお見知りおきくださいませ」
到着した馬車に乗り込んで、王子とジニアたちはフロックス侯爵邸を後にした。ウィリアム青年は低頭してその馬車を見送っていた。
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「レオン様、大丈夫ですか?」
だいぶ良くなったとはいえ王子の顔色はまだ悪いように見えた。王子は深く溜息をつくと馬車の椅子にもたれかかるように沈み込んだ。
「大丈夫だ。…あの屋敷に行ったのは初めてのはずなんだが…、妙な気持ちに囚われてな。思い出せないだけで幼い頃に訪ねたことがあるのかもしれない」
「思い出せない、ですか?」
「ああ。七歳より前の頃のことは何も思い出せなくてな。幼少からずっと神殿で暮らしていたようではあるが…」
「何もって、全くですか?」
「ああ」
何も思い出せないとは、そういうものだろうか?物心がつくのはもう少し幼い頃のはずだから、七歳が境というの少々遅い気がした。
ジニアにはもう一つ気になっていることがあった。
「あの、レオン様のお母様のことは聞いても大丈夫ですか…?」
「ああ、問題ない。と言っても、病にかかり候爵の領地でずっと療養しているということしか知らない。俺も会ったことは無いはずだしな。」
「はず?」
「幼い頃に会っていて、今は忘れていれば別だ」
「…」
リリィ・フロックス。王子の母親。灰色の髪に灰色の瞳の美しい少女。本来はもっと年を重ねているだろうが、あの絵の印象に引きずられて少女のような人物でしか想像できなくなっていた。
「肖像画は、綺麗な人でしたね」
「そうだな。…俺も初めて見た」
王子はそれきり黙ってしまった。
ジニアは思い出していた。応接間へ辿り着くまでに一体何枚のリリィの肖像画があったことか。同じ年頃の絵だけがあったのも気に掛かった。
そして応接間を出るとき王子の背に向けていた候爵の視線。あの昏い眼差し。
ウィリアム青年はフロックス候爵家と今の陛下にわだかまりは無いと言っていたが果たして本当なのだろうか?
何とも言えない不気味なものを感じてしまって、ジニアもまた黙りこくってしまった。




