7 候爵と王子
「久しいな、候爵。今日は何用だ?」
離宮の応接間で、王子とフロックス候爵が相対していた。
フロックス候爵は四十がらみの落ち着いた男の人だった。灰色の髪は白いものがだいぶ混じっているが、王子の髪色に似ていなくもない。頬のこけた青白い顔と黒い瞳はのっぺりとして、どこか人間味に欠けている。服装は高位貴族らしく上質な生地を使った豪華なものだが、候爵自身は痩せて背が高く、顔色も相まって不健康そうな印象が拭えなかった。
「レオンハルトハルト殿下におかれましてはご機嫌麗しく。ご無沙汰しております」
全く感情の乗らない声だ。決まった台詞を吐いているだけで親しみは微塵も感じられない。王都の貴族同士のやり取りとはこんなものだろうか。ローニーと共に壁際に控えた田舎貴族のジニアにはわからなかった。
候爵を迎えるための慌ただしい準備の間に、ローニーが教えてくれたところによるとフロックス候爵は王子の伯父にあたる人だということだ。
フロックス候爵の妹のリリィという人が、レオン様の母親らしい。そして、フロックス候爵自身はレオン様の唯一親しくしている親族で、後見人を務めているという話だった。
「挨拶はいい。用件は?」
対する王子も淡々とした調子だ。久しぶりに伯父に会った喜びなど少しも無さそうな声色である。
「無頼者に襲われたと聞きました。お怪我などはなさいませんでしたか」
「この通りだ。ピンピンしてる」
「それはようごさいました」
「それだけか?」
「はい、一応お見舞いの品も用意して参りましたのでよろしければお納めください」
「そうか、礼を言う」
「はい、それでは失礼致します」
え?もう終わりなの?
声には出さなかったがジニアの顔には思いっきりでていただろう。そのせいかどうかわからないが、ソファから立ち上がったフロックス候爵とパチリと目があった。候爵の瞳を正面からまともに見た。
ーーそれは暗い目だった。井戸の底を覗き込んだときの、落ちてしまいそうになる恐怖とその底に何か蠢いているような気味の悪さ。
それらを一瞬で感じ取ったジニアの肌が粟立つ。が、フロックス候爵はすぐに視線をそらすとスタスタと去って行く。ローニーが慌てて「お見送り致します」と言ってついていった。
候爵とローニーが出ていくと、王子がふうっとため息を吐いた。ジニアは腕をさすりながら、気になったので質問する。
「あの…あの方の用件はあれだけなんですか?」
「ああ。俺の後見人としての義務だろう。わざわざご機嫌伺いだけにくるとは、面倒なことだ」
王子の返事は気怠げだった。本当に面倒だと思っているのだろう。
候爵は、王子が唯一親しくしている親族とローニーが言っていなかったか。伯父と甥。ジニアには両親が亡くなったとき頼れるおじやおばはいなかったが、領民や近所の大人が親切にしてくれたし、何くれとなく世話を焼いて貰った思い出がある。
王子には、あのどこか冷たい伯父しかいないということだろうか。義務でお見舞いに来て、温かい言葉の一つも掛けてはくれない人。
ローニーがこの離宮に来た頃から王子はすでに一人でここにいたという話だ。
ーー誰か、王子に優しくしてくれる大人はいなかったのだろうか。
ジニアが黙っていると、今度は王子と目が合った。王子も何か考えていたようで首を傾げている。
「レオン様?どうかしましたか」
「いや…、お前の兄はお前と別れるとき、頭を撫でていたな?あれは何故なのかと思ってだな…。そういった挨拶の様式なのか?お前の地元だけでやっているとか?」
心底不思議そうな声で問われて、ジニアは虚を突かれた。
例えば妹の頬が可愛くてつつきたくなるとか、弟が泣き出しそうだから抱きしめるとか。兄が妹との別れを名残惜しんで頭を撫でるとか。
ーー愛しいと感じるから触れたくなるということを、王子は知らないのだ。恐らく、知る機会がなかった。
その事実にジニアは頭を殴られたような衝撃を覚えた。人と触れ合う心地を知らず、離宮に一人で立つ七歳の少年の幻を見た。
「えっ!?なんだお前どうした」
ジニアは泣くのを堪えて、顔がくしゃくしゃになった。泣くのは違うと思った。王子はいつも誇り高くあろうとしているのだから、哀れみなどいらないはずだ。
それでも、せめてと思って腕を伸ばした。七歳の少年はいないけど、目の前の王子に近づきたいと思った。
伸ばした手を迷わずソファに座る王子の頭に載せた。
「あぁ!?なんだお前どうした!?」
「レオン様…私決めました」
王子の灰色の髪を何度も優しく梳く。サラサラとして指通りがいい。王子はどうしたらいいのか分からずに固まっていたが、手を振りほどくことはしなかった。
「なんだ…?ホントにどうしたんだよ」
「私、ここに残ります」
「なに?」
「故郷には帰りません。ここにいて、レオン様の傍にいます」
何ができるかわからないけど。
少なくとも、レオン様を一人にはしないと決めた。