プロローグ
冷たい空気が流れている。窓から差し込む光は弱く、もうすぐ日が沈むだろう。
部屋の真ん中に置かれた椅子に腰を掛けて、ぶるっと身を震わせる。もっと厚着してくればよかったなぁとジニアは思った。王都は地元より南にあるから暖かいのかなと単純に考えてしまった。石造りの神殿は、隙間風が厳しい。
もっとも、身震いしたのは寒さだけのせいではあるまい。
「お前が今日の最後か。ー私が悩みを聞こう。」
オーク材で作られた簡素な机を挟んで、椅子に座った男が言った。
声は若いが、それ以外は何もわからない。
ジニアの前にいる男は首から上を布で覆い、目元だけをくり抜いた格好でいるのだ。首から下はよくある簡素な神官服なので神官であるのは確かなのだが。
布から覗く瞳は、不思議な灰色だった。
灰というより白?なんだかキラキラしてて綺麗…と見惚れたが、男の眉間がわずかに寄せられたのでジニアははっとした。
「あっあの、そのぉ悩みというか、ここに行って見てもらえって言われましてですね、はい、あの…」
しどもろどろになっていまった。しょうがないじゃない、とジニアは心の中で言い訳する。
この目の前にいる人…じゃない、この御方って、いわゆるこの国の第二王子レオンハルト殿下で、次期教皇候補さまその人なんでしょー!?
「何を見ろと?」
灰の目がすっと細められる。そんな些細な仕草でもドキッとしてしまう。
ジニアとて貴族の端くれであるが、身分の高い貴人との会話の作法なんて何も知らなかった。
敬って話すんだっけ?それともへりくだる?目を見つめたのは失礼だったかしら…
貴族らしい勉強をしている暇などない人生だったのだ。無礼な態度をとる自信しかない。
もう、早く切り上げるためには勢いで乗り切ろう。
ジニアは深く息を吸うと一気にまくし立てた。
「こっ、これです!先日賜りました『女神さまのお羽根』なんですけどっ、うちの自領の神官さまではあのっ、神聖文字が読めないと言われまして!王都の中央大神殿へ行って来いと言われました!!」
そう言いながら左の袖を肘の上まで捲り上げる。
そこに現れたのは、羽根をモチーフにした細かな入れ墨のようなものだった。ジニアの左肘の周りに繊細で美しい紋様が描かれている。
そして、羽根の紋様と一緒に文字にも見える線と点で構成された3つの印もあった。
男はそれを灰の目で静かに見つめた。
部屋の空気と同じくらい冷たい声で言う。
「『羽根』が肘にあるのか。多くはないが、珍しいことではない。しかし、神聖文字が読めないとは?」
「その神官さまが言うことには、見たこともない文字だと…」
「なんだと?よく見せてみろ。」
『羽根』とは、神殿で儀式を受けると女神さまから贈られる祝福のことである。
祝福を受けると、体のどこかに羽根の紋様が刻まれる。そこには女神さまからの『御言葉』が特別な文字『神聖文字』として、一緒に浮かび上がる。
そしてそれは、女神さまから贈られた特別な力の名称なのだ。大抵は『丈夫な身体』とか『よく聞こえる耳』とか、生活が少し豊かになる些細なものであることが多い。
稀に『炎』とか『癒し』とか超常的な現象を起こせるものもあるらしいが、ジニアは詳しくは知らなかった。
『女神の翼教会』では羽根の紋様、賜った能力、これらを総称して『羽根』と呼んでいる。
ジニアの前にいる王子殿下には、きっと体のどこかに(手首が多いと聞くが)神聖文字でこう刻まれているはずだ。
『神の眼』ー、と。
「……、神聖文字などどこにもないではないか。」
「え?」
灰の目が怪訝そうに睨んでいる。
ジニアの神聖文字は左肘に3つ並んでいるが、これは特別な教育を受けた神官しか読むことができない。
故に、ジニアは自分が女神さまから何を贈られたのか未だ自分でも分からずにいた。
「あのっ、ここですよ、ここ。」
見づらいのかも思って左肘をぐいっと前に突き出した。それでも男の不審そうな眼差しは変わらない。
「…?どこだ?」
「えっ?えっ…とここです!ここ」
無礼かとも思ったがまどろっこしく感じてしまい、立ち上がって机の前に行き男の眼前に肘を突き出した。
ほとんど男の目と鼻の先なのに、眉間のシワが何故か深くなっていく。
「…紋様しか見えないが。神聖文字などどこにもない。」
「えっ?」
見えない?どういうことだ。
「えっ、でもここに確かに三文字あるんですけど…」
「その少し空いた空間にか?」
「え?空間?」
「そこには何もないぞ。」
「え?」
ジニアはたちまち混乱した。ついでに言うと疲れていた。慣れない王都、ねじ込んだ面談のため何時間も神殿で待たされてくたびれきっていた。
だから、考えがきかない頭の中からつい本音がポロリとでてしまった。
「見えない?…え?『神の眼』だから何でも見えるって噂は、嘘だったの?」
「は?」
「あ」
しまったー!と思った時には遅かった。
驚くほどの素早さで突き出していた腕を掴まれた。
「貴様…いまこの俺に向かってなんと言った?」
「ひっ!」
ゆっくり立ち上がった男が、ジニアを捕らえながらもう片方の手でおもむろに頭の布を取り去った。
そこに現れたのは世にも稀な美形だった。
しっとりとした輝きを放つ灰色の髪、切れ長の双眸に、不思議な煌めきを見せる瞳。すっと通った鼻筋にこれ以外に正解がないような絶妙な線を描く輪郭。
突如出現した美青年にジニアの心臓は大きく高鳴ったが、すぐに我に帰る。
だって、目の前の美形の表情はめちゃくちゃ怒っていた。
「この俺に?『神の眼』もつこの俺に?…『見えない』などどぬかしよったか?」
「あっあう…」
こわっ。怒っている美形が恐すぎる!迫力が凄い!
灰の目の中に怒りの炎が燃えている。その視線だけで焼き殺されそうだ。
ジニアは思わず腰が引けた。が、逃げたいのに腕をがっちり捕まれていて逃げられない。
「この俺に見えぬものなどないわ!売られた喧嘩は買ってやる!!」
喧嘩なんか売ってません!!