五、雨が降る理由
老婆が何か答えようとし、はっと何かに気付いた様子で扉の方へと顔を向けた。フォーレには、ただの雨音しか聞こえなかったが、老婆の耳には、確かに何かが聞こえたのだ。揺り椅子から立ち上がると、杖を突くのも忘れて扉の方へと向かった。扉を開けて外へ向かって呼び掛ける。
「レイン……レインなの」
そこにあったのは、雨に濡れた、いつもの村の姿だった。老婆は、瞳を閉じた。そして、昔そうだったように、彼の気配を読み取ろうとした。フォーレが部屋の中から見守っていると、老婆の口元に微笑が浮かんだ。老婆が再び目を開けると、雨の中に佇むレインの姿があった。
「やあ、リヴ。やっと俺のことに気付いてくれたね」
老婆の目から涙が溢れた。初めて目に映るレインの姿に、胸が震えた。これまで幾度となく想像してきた彼の姿がそのままそこに現出したかのようだ。もう何年も前のことなのに、色褪せることなく、美しい姿をしている。
「約束しただろう。ずっと傍にいるって」
レインは、ずっとリヴの傍にいたのだ。何年も何十年も……雨が地へと落ち、海へ流れ、空へと還って再び雨となり地へ落ちる……その終わりのない永遠の輪廻の中で、ずっとリヴを見守っていたのだ。
「迎えにきたよ。一緒に行こう」
レインが差し伸べた手に老婆が自分の手を重ねた。その姿は、レインと出逢った頃の姿に戻っていた。もう二度とお互いを離さないよう強く握り合う。幸せそうに見つめ合う二人をフォーレが優しい眼差しで見つめていた。
「フォーレ。彼女に俺の言葉を伝えてくれてありがとう。俺は今、最高に幸せだよ」
その言葉を最後に、二人の姿は、雨の中に吸い込まれるように消えていった。
残されたフォーレは、やっと肩の荷が下りたというように、雨の降る空を見上げた。暗かった空は、下の方が薄っすらと明るくなりかけていて、土砂降りだった雨も、レインが連れて行ってしまったかのように止みかけている。やがて完全に夜が明けて、空が朝の光を取り戻す頃には、旅人の姿は消えていた。
これでもう、この村に異常なほど雨が降るということはなくなるのかもしれない。
†††
その日、アンジェリカは、朝早く教会の扉を叩く激しい音によって起こされた。昨夜は、村を訪れた漂流人のことが気になり、寝床に入ってもなかなか眠れず、明け方になってようやく夢の兆しを見始めたと思ったら、何かを激しく叩く音で現実に引き戻された。はっきりとしない頭を抱えて扉を開けると、そこには、老婆の家に泊まっていた筈の子供たちが居た。皆、目に涙を溜めて口々にアンジェリカを呼ぶ。彼らに急かされ、身支度も整えぬまま老婆の家へと向かうと、そこには、揺り椅子の上で眠ったように動かない老婆の姿があった。その表情はとても穏やかで、幸せそうに見える。
「昨日、誰かがここに尋ねて来なかったかしら」
部屋を見渡す限り、見知った子供たちの姿しか見えない。
「ぼく、解ったよ。彼が天使だったんだ。
でも、大お婆ちゃんが言ってた。気付いても言うと逃げちゃうから、言っちゃだめって」
だから黙っていた、とロビンが答えた。
「でも、三つ目の話、聞けなかったよ」
しゅんと、項垂れるロビンの頭に手を乗せて、アンジェリカがそれに答える。
「三つ目は、天使を一人の人間として扱うこと。彼らに何もかも背負わせては駄目。
自分のことは自分で責任を持ちなさい」
ロビンが驚いた表情でアンジェリカを見上げた。
「どうして知ってるの」
「私も、その天使に恋をしていたからよ」
リヴから天使の話を聴かされて育ったアンジェリカ。彼女はいつも言っていた。
『アンジェリカ。あなたの名前は、その天使さまがつけてくださったのよ』
だから大事になさい、と。
†††
「サニア、君だったんだね」
罪滅ぼしの気持ちなどなかった。ただ、レインが翼を失ってでも守ろうとしたものの存在を自分の目で確かめたかった。彼が最後に言った言葉の意味を知りたいとも思った。
サニアは、レインが自然へと回帰してしまった後、リヴの住む村を覗き見た。そこには、必死になって生きる村人たちの姿があった。彼らは、レインのことなど忘れて自分たちの生を全うしている。生まれて初めて、天使の掟を恨んだ。
そして、リヴが一人になったところに姿を現す。
炎のような天使。リヴの瞳には、それをはっきりと見ることが出来た。
リヴは、レインのことを覚えていない。それが天使の羽根を贈る意味だから。
しかし、サニアは違う。天使だから。姿の見えなくなってしまったレインをいつまでも想い続ける。それは、逆に自分がリヴよりも優位であることを示す。レインの記憶を持つことに優越感を感じていた。だから、記憶を掘り返すような行為は絶対にしないつもりだった。
「どうしてかしら……私、あなたをよく知っているような気がするの」
レインから聞いた炎の天使の話。しかし思い出せない。その焦燥感がリヴの胸を締め付ける。思い出せないことでリヴが苦しんでいることを知るサニア。
「もし、知っているのなら教えて欲しい。この胸に開く穴が何なのか。
私が一体何を求めているのか」
どうして雨を見ると涙が出るのか。時々、朝起きると涙が頬を伝っていることに気付く。愛犬の名を呼ぶ度に胸にせり上がる、この想いは何なのか。
レインが己の存在全てをかけて守ろうとしたのは、誰のためだったか。それは、サニアには理解出来ないことだが、ある一人の少女の幸せではなかったか。
「……なのに、あなたは幸せではないという。そんなの、私は絶対に許さない」
そう言って、サニアはリヴの中に眠る記憶に手を伸ばした。
完




