五、奇跡
『あなたの降らす雨って、ほんと冷たいのね。
雨の天使は多くいるけれど、あなた程冷たい雨を降らす人っていないわよ。レイン』
そう言っていたのは、サニアだったか。彼女の能力とレインの能力は、相反するものなのに、何故か彼女はレインの傍に居たがった。天界でも中々に問題児扱いされていた自分を相手にしてくれていたのは、サニアとフォーレくらいだった。サニアは誰に対しても分け隔てなく接するので、友人も多かったが、内気なフォーレと、一匹狼でいたいレインは、他に友人と呼べるような間柄の者はいない。二人と一緒に居る時間は、それはそれで楽しかったが、やはりどこか距離を感じていた。それはレイン一人が感じていたというより、天使というものがそもそもそういう気質なのかもしれない。それぞれが自分の能力に自信を持っているからだ。レインは、天使としての能力は高い方だった。学園でも成績は優秀だったし、冷たい雨だと言われて誇らしかった。救援要請なんて自分は絶対にしないと自負していた。
しかし、人間界へ降りてリヴと出会ってから、レインの雨はだんだん暖かくなっていき、その怜悧で鋭い力を失っていった。こうして今、火山を目の前にして、尚のこと自分の無力さを実感し、愕然としていた。
(そもそも、人間界へ降りたのが間違いだった)
リヴと出逢った事は、やはりあってはいけない事だったのだ。天使の学園で学んだ掟の数々が甦り、レインの胸に重くのしかかる。それらを真実だと信じて疑わなかった、あの頃の自分は、天使の力さえあれば、何だって出来ると思っていた。
だが、この無力さはどうだろう。自分は、人として生きる事も出来ず、天使としても失格なのだ。
それでも、レインは諦めない。身体の奥底から見えない力を沸き起こそうとした。
「レイン、だめだ。それ以上は、もう……」
目の前にフォーレが姿を現した。先程の救援要請にも姿を現さなかった彼が、ここにいる理由は一つ。親友であるレインの正体を知っているからだ。救援要請に答えなかった理由は、サニアの傍にいたからだろう。彼がいるから、自分がここで踏ん張れる。レインは、その意味を今更のように有難く思った。
「フォーレ、頼む」
レインが泣き笑いのような表情で告げる。
「俺を本当の天使でいさせてくれ」
そもそも天使とは何の為に存在するのか。学園では、世界の導き手として教えられた。世界で神に次ぐ尊厳ある、無二の存在。
しかし、本当のところは、どうだろうか。かつて人間に裏切られた神は、人を疑い、厭い、遠ざけた。それらを管理させる為に、自分の手を汚さぬよう、天使という名の壁を作った。そもそもの存在理由からして汚れているのだ。穢れなき純粋な存在である天使などいない。そう思った時、レインの中で何かがぷつんと音を立てて切れた。
これまでレインは、天使としての自分に誇りを持っていた。だが、自分にできることは限られている。それなら、できる力を持っているのに、使わないという選択肢は、ない。
レインの身体から、かつてない程の力が溢れ出す。それは、レインの意識すら飲み込み、世界に大洪水を引き起こす力を呼び起こす。それこそがレインの正体だった。神が人類を、世界を再生するために創り出した力。自分は、人類を滅ぼすために生まれたのだとレインが知ったのは、ごく最近のこと。それ故、人間を幸せに導く仕事に矛盾を感じ、自分の存在を受け入れられず、天界を飛び出した。そんな行く宛のないレインのことを受け入れてくれたのは、たった一人の盲目の少女だった。
高熱の溶岩は、滝のように降り注ぐ雨によって急速に冷やされ固まっていき、その動きを止めた。やがて雨が止むと、曇天の隙間から光が漏れだす。光は、半分以上を溶岩に埋まった村を優しく照らした。固まった溶岩は、まるで村を守るように広げられた天使の翼のように見えた。
その一部始終を村の人たちは、高台から眺めていた。全員が無事に避難することができたのは奇跡だった。まるで不思議な見えない力が働いたかのようで、皆が神の存在を身近に感じ、感謝の祈りを捧げた。すると今度は、突然降り始めた大雨によって溶岩が進行を止めた。その全ての中心にいたのは、空に浮かぶ一人の天使の姿だった。
「あいつは、この村を救うために使わされた天使だったのか」
ディルクが呟くのを、リヴは誇らしい気持ちで聞いていた。目が見えなくても分かっていた。リヴは、最初からレインの背中に綺麗な翼があることを感じていたのだから。初めて出会った時に見えた光、そして、海に落ちて生死を彷徨っていた自分を導いてくれた、あの暖かな優しい光は、全てレインから放たれていたことをリヴは知っていた。口に出して言わなかったのは、レインが自分を最初に“旅人”だと言ったから。彼の意志を尊重しようと思ったのだ。
村の皆がレインの姿に見惚れていた。それは、雨上がりに雲間から指す光を受けてきらきらと輝く金色の髪、彫刻のように美しい純白の翼、誰もが息をのんでそれを見つめた。
(ああ、私もレインの姿を見ることができたなら……)
リヴは、この時ほど自分の目が見えないことを激しく惜しんだことはなかった。心の底から願った。自分の目が見えるようになることを。そして、愛する人の姿を一目で良いから目に焼き付けたいと。
その時、光が差し込む空から白い羽根が舞い落ちる。一枚ではない。何十、何百、……と数えきれない数の白い羽根が雪のように舞い落ちてくる。羽根についた水滴が光を反射してきらきらと輝いていた。
「天使の羽根……」
リヴが呟く。傍に居たディルクとオンバが驚いてリヴの顔を見た。
「見える……見えるわ、私の目……」
リヴの灰色に曇っていた瞳は、まるで雲が晴れるように青く、空の色へと変わっていった。リヴの瞳に光が戻ったのだ。
「ああ、本当に綺麗……あの人が、私の願いを叶えてくれたのね」
ディルクとオンバの目に涙が浮かぶ。こんなことがあるだろうか。今まで全く諦めていたリヴの視力が戻ったのだ。これこそ奇跡の力だと思った。
天使の羽根を見た人は、幸せになると言われる伝承。誰もが御伽噺だと思っていたものが、今、目の前にある。その場にいた誰もが、幸せそうな表情でそれを見つめた。
『天使は、自分を必要としてくれた人が幸せになったら、天使の羽根を降らせるんだ。
天使の羽根を手に入れたから幸せになるんじゃない、天使の羽根は、その人が幸せになった証なんだよ』
そう、彼が教えてくれた。
ところが、輝きだしたリヴの表情が突然何かに妨げられた。
「あの人…………あの人って、誰だったかしら。思い出せない」
ディルクとオンバが何を言っているのかと、揃って“あの人”の名前を口にしようとしたが、二人とも続く言葉が出てこない。慌てて空を見上げるも、そこにはもう、誰の姿もなく、自分たちが一体誰を探していたのかということすら記憶から消えていた。
ただ、天使の羽根だけが世界を祝福しているかのように舞っている。
それは、美しくも悲しい、レインからの別れの合図だった。




