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三、雨の匂い

 レオンは、まるでそれ自体が甘い食べ物であるかのように、リヴの手を舐め続けている。


「俺が敬語を使わないのに、お前にだけ使わせてるのは、おかしいだろう」

「ご、ごめんなさい……わたし……」

「いや、責めてるんじゃなくて」


 対等でありたいと思ったのだ。目の前に座る少女と。

 

 リヴは、レイン、と小さく呟くと、照れくささを誤魔化すように、パンを齧った。だが結局、リヴは、半分以上のパンをレオンに与えてしまった。


 レインは、パンをそっと自分の膝の上に乗せた。


「ありがとう。うまかった」


 リヴが食器を片付けようと伸ばした手に皿を持たせてやった。リヴは、少し戸惑いながらも笑顔でありがとうと言った。


 重ねた食器を持って、席を立とうとするリヴに、レインは尋ねた。


「さっきは、どうして俺だって判ったんだ」


 先程、レインが外扉を開けた時、畑に水をやっていた筈のリヴは、すぐに彼を認識して声をかけた。目が見えないのに何故、と疑問に思ったのだ。


 リヴは答えた。父が出歩くことはないからと。


「それに……ううん、なんでもない」


 リヴが台所へと消えていくのを見届けてから、レインは膝の上に置いていたパンをレオンに与えた。レオンは初め匂いを嗅いで警戒しているようだったが、レインが少し身体を撫ぜてやると安心したのか、ぱくりと二口で食べてしまった。


 †††


 その旅人は、雨の匂いがした。


 桶に張った水で食器を洗いながら、リヴは昨夜から家に泊まっている客人の事を考えていた。不思議な空気を纏った人。今年で十六歳となるリヴにとって、今まで出会った事のないタイプの人だ。雨なんて、この地に降る事は滅多にないのに、何故その匂いだと思ったのか、自分でも判らない。でも、いつも生活用水として利用している地下水の匂いに少しだけ似ている気がした。


 部屋の掃除、洗濯、畑の水やり、朝食の支度……いつもの朝の仕事を終えると、リヴは父親の寝室へ朝食を持って行った。父はまだ眠っているようだったので、枕元の小机にそっと盆ごと置いておく。寝息が安らかなのを確かめて、安堵の笑みを漏らした。昨日採って来た薬草が効いているのだろう。例え一時凌ぎでしかないと解ってはいても、少しでも楽にさせてあげたいと思う。


 台所に立ち、いつものように簡単な昼食を用意する。ただ違うのは、量が一人分多いこと。その事に、リヴは自分でも理由の解らない昂揚感を覚えていた。


 †††


 家の前にある小さな畑を抜けると、村へと下る道がある。ここは、村の中で一番高い丘の上に位置し、村の全貌を見渡す事が出来る。リヴには、それを目で見る事は出来ないが、村から吹き上げてくる風を感じる事で解る事がある。ああ、今日もパン屋さんの良い匂いがするな、とか。この卵焼きの匂いは、どこの家の味だ、とか。洗濯物を干した匂いだとか。実に様々な光景を脳裏に描くことが出来る。


 レインが背後で息を呑むのが解った。昨夜ここへ上がってくる時は暗かったから解らなかったのだろう。その歩みが止まった音を聞き、リヴも足を止めた。


「広いでしょう。岩壁があって入り組んでいるから、入り口から奥までは見えないの。

 ここからだけ、村の全貌が見渡せる」


 それは、リヴがこの家を好きな理由の一つだ。子供の頃から密かに誇らしく思っていた。


「ああ……でも、よくこの場所に住もうと思ったな」


 岩壁を削って造ったかのような家々が、でこぼこと生えているようにも見える。


 二人の間を風が通り抜けた。この地方では、今のように会話が不意に途切れる事を〝天使が通った〟と表現することがある。リヴは、見えない天使の存在を感じながら、顔に掛かる髪を耳に掛けて目を細めた。


「昔、大きな戦争があったの。ここは、その生き残った人達が集まって出来た集落なのよ」


 元々は、小さな村だった。辺りを緑に囲まれて、自給自足の生活をしていた。


 しかし、戦争の所為で緑は焼け、多くの血が流れた。命からがら逃げ延びた人達がこの村を見付け、そこに住み着いた。食べる物は僅か、唯一の救いは、地下水から汲み上げる井戸の存在だった。何も持たない人達は、皆で協力して今日まで生きてきた。


 だから、岩壁を削って岩に同化するような家を造った。誰からも見付からないように。もう戦争になど巻き込まれたくない。ただそれだけを恐れて生きている。


「私はまだ赤ん坊だったから、あまり実感はないのだけど」


 レインはただ、そうか、とだけ呟いた。



 †††



「いででででっ……やめろ、髪を引っ張るなって」


 半ば涙声になりながらレインが悲痛な叫び声を上げた。そのバックミュージックには、きゃらきゃらとした愛らしい子供達の笑い声が飛び交う。レインが数人の子供達に囲われて遊んでいる姿を脳裏に描き、リヴは一人台所で声を立てずに笑っていた。


「おい、リヴ。こいつらをどうにかしてくれ。

 俺は、こんな仕事だとは聞いてないぞ」


 リヴの仕事は、仕事で家を空ける人達の代わりに、幼い子供たちの世話をすることだった。それも一軒だけではない。あちらこちらの家々から子供たちが一同に集まり、それらを全て一人で面倒を見るという。子供たちは皆、リヴに懐いていたが、初めて見るレインには警戒して近づこうとしない。レインは、早くもリヴに付いて来たことを後悔し始めていた。


「お兄ちゃん、だあれ」

「うわっ、髪の毛が金色だ。……人間なの」

「お前、リヴ姉ちゃんの何なんだよ」


 しかし、そこはやはり子供。次第にレインという存在への好奇心に負け、気付けば皆でレインを囲っていた。


「きれい……お日様みたい」

「そうか」


 キラキラと瞳を輝かせて自分を見つめる女の子をレインは、不思議なものでも見るようにして見やった。どうも子供というのは、何を考えているのか解らない。


「あたしのも、お日様に当てたら、きれいになるかな」


 そう言って自分の栗色の髪を手で弄る女の子に、レインは適当に相づちをうつ。


「目は、空の色ね。でも、なんだか悲しそう……」

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