第二話
芙美はあまり運転が得意じゃない。
夜はできるだけ運転しないし、初めて行く場所は入念に運転しやすい道を調べておく。
今日も芙美は「さあ、行くわよ」と自分に気合を入れるように、サイドミラーやバックミラーを指さし確認し、出発した。
「優が遊べるところに行こう」
このところ芙美は、部屋にこもって本を読んだり、パソコンで調べ物をしていることが増えた。
それが突然、何故だか会社を午前中で切り上げて迎えに来たのだ。
まあここは「わーい」と喜んでおくのが無難だろう。
どうせ保育園にいても遊ばなくてはならないのだから、気分を変えて別の場所のほうが助かるかもしれない。
そんなことを考えて自分を納得させているうち、俺は車に揺られて眠っていたらしい。
気が付くと、芙美にシートベルトを外されているところだった。
タイムスリップをした気分だ。
よいしょと抱き上げられるようにして車を下ろされ、もつれる足をなんとか動かし、ぽてぽて芙美について歩いていくと、自動ドアが開いた向こうから子どもの甲高い声が聞こえた。
足音は少ないから大人数というわけではなさそうだが、すこぶる元気な子どもが何人かいるようだ。
保育園でも聞いたことがある。
子どもを連れてきて遊ばせるなんとかセンターというところに違いない。
だが保育園に通っていたらわざわざ連れてくるようなところでもなさそうなのに。
芙美の目的が見えなかった。
「こんにちは」
ポロシャツに薄手のカーディガンという格好で首から名札をさげた職員らしい人が俺たちに気づき、にこにこと声をかけてきた。
芙美はどこか緊張した様子で「お世話になります」と返したが、俺は寝起きで喉がふさがっていたから、代わりに軽くぺこりと頭を下げた。
「お子さんが遊ぶ部屋がこちらになります」
そう言ってドアが開けられ、俺は促されるままに部屋に入った。
芙美とその職員も一緒に入ってきたが、中にいた職員に俺を引き渡すようにすると、「じゃあここで遊んでてね」とにっこり笑った。
部屋の中にいた職員たちも同じく名札を首から下げていたが、こちらは保育士のように動きやすい恰好にエプロンを着ている。
「お母さんはこちらです」
ここへは俺を遊ばせに来たと言っていたはず。
親はどこかで休んでいるのだろうか。
ああ、あれか。子どもが遊んでいる間に、親もリフレッシュできるような施設なのか。
よく知らないながらもそう納得しかけた俺の耳に、立ち去りながら話す二人の声が聞こえた。
「では今日は、優くんの小さい頃のことから聞かせてもらいますね」
「あの。それは、わからないんです」
「え?」
俺も、え? だ。
覚えていない、じゃなくて?
まあ細かいことだ。ニュアンスが違っただけのこと。
だが聞いた職員が、他の職員と目を合わせてはっと理解したような顔になったのが見えて、気になった。
「……あ、失礼しました。当時の日記や母子手帳などはありますか?」
「母子手帳はあります。持ってきました」
「お預かりしますね。では……」
芙美が慌ててバッグから取り出したピンク色の手帳を職員が受け取ったとき、一瞬の間があった気がした。
きっと俺と同じことを思ったんじゃないだろうか。
この辺りでよく見かけるものと違う。
風邪を引いて病院に行くと、予防接種に来たらしい赤ん坊の母親が黄色ベースの手帳を受付に出しているのをよく見かけた。
時々違う手帳を持っている人もいた。
理由は知らないし、興味もない。
だから自分の手帳なんて気にして見たことがなかったが、何故だか今は見慣れないピンクが目にいつまでも残った。
「お母さんはお仕事してるんでしょう? いつも忙しいのかな。寂しい?」
じっとそちらを見ていた俺に、引き渡された職員がどこか困ったような笑顔で声をかけた。
「いえ、別に」
日記がないということを俺が気にしていると思ってフォローしてくれたのだろうか。
まあ確かに芙美は仕事で忙しいから、日記なんてつける余裕もなかったろう。
そもそも日記をつける習慣がない人なんて大勢いる。
よく他の母親たちも、もっと写真を撮っておけばよかった、日記を書いておけばよかったと言っているのを聞く。
保育園に通い始めてからは連絡帳に日々のちょっとしたことを書いているから、それが日記の代わりになり、毎日大変だけど思い出が残せると話してもいた。
だから、全部普通のことだ。
芙美も気にしていなければいいのだが。
しかし部屋の中は思った通り賑やかなものだった。
職員らしき大人が何人かいて一緒に遊んでいるのだが、それがよっぽど楽しいのか、何人かの子どもが大声を上げ、はしゃぎ、駆け回っていた。
中には端っこのほうに立ち尽くしているだけの子どももいる。
壁の一面がマジックミラーになっているようだから、親たちはその向こうから見ているのだろう。
俺は芙美が安心して見ていられるよう、楽しく遊ぶふりをしながら、大人しくしていよう。
そう思ったのだが、楽しく遊ぶふりも楽ではなかった。
ただ好きに遊ぶだけだと思っていたが、どうやら職員には今日何をするか計画があるものらしい。
みんなでゲームをしようと部屋にいた子どもたちが集められ、次々と付き合わされた。
まるで保育園じゃないか。
芙美は何故わざわざ保育園を早退してまでここに俺を連れてきたのか。
よく考えたら、リフレッシュのためなら、そもそも俺を保育園に預けたまま一人の時間を過ごしたほうがよほど好きなことができる。
そうして退屈ともやもやの中にいたのはどれくらいのことだったのか。
ドアがガラガラと開いて、親が次々と戻ってきた。
俺は早々に立ち上がると芙美の元へ行き、「お腹空いた」と早く帰りたいアピールをした。
「そうよね。帰りましょう」
心なしか、芙美は明るく見える。
なのにどこかすっきりしきらない、あいまいな顔をしていた。
部屋を出ると、最初に声をかけてきた職員が「どうでしたか?」と芙美の側に歩み寄ってくる。
「はい……。やっぱり考えすぎなのかもしれないと思いました。こうして見ると、先生の言うことも聞いていて、指示も理解できているし。生活をしていく上で何も困らないわけですし……。何も問題ないんじゃないかと思えてきて。だから……」
「そうですね。様子を見られてもいいと思いますよ。お子さんも成長とともに変化もあるでしょうし、お母さまのお気持ちもまた変わるかもしれませんし。その時はまたいつでもお気軽にいらしてください」
「はい、今日はありがとうございました」
この会話はどういうことだろう。
芙美は俺を、問題があると思っていたということか?
だがマジックミラー越しに見ていたらやっぱり問題ないと思った?
もしかして、芙美はまだ俺が普通じゃないと気にしていたのだろうか。
俺の『普通の子ども』への擬態なんて付け焼刃でしかなかったし、それも仕方のないことかもしれない。
大人の言うことを理解しすぎていること、普通の子どもよりできすぎていることだって、以前はあまり隠そうともしていなかったのだから。
そうか。
それで他の子どもの様子が見られるこの施設に俺を連れてきて、俺が普通なのか、そうじゃないのかを比べたかったのかもしれない。
そして改めて俺ができる子どもだとわかり、そのことはマイナスではなくプラスだと気が付いた、と。
そうだ。
本来できて悪いことなどないはずで、できるならむしろそれを活用していくべきだ。
芙美もそう考えるようになったのかもしれない。
ん……?
だとしたら、ここはもしかして、子どもの能力を測るための施設なのでは?
そしてそれを向上させたり、活用したり、そういう支援をする施設なのかもしれない。
支援……、そうだ。漢字は覚えていないものが多いのだが、この建物のあちこちに書かれている字、あれは『支援』だ。
それから『発達』という字も読み取れた。
やっと腑に落ちた。
ここまで俺のチートアピールも長かったし、普通に擬態しようと遠回りもしたが、やっと俺のチートな人生が始まるのかもしれない。
俺はわくわくとしてこの建物を後にした。