第一話
「明日は動物園に行こう」
健治が突然そんなことを言いだしたのは、テレビで上野動物園の特集を見ていた土曜日のことだった。
俺はぼんやりとテレビを見ていたから、それを遠くの物事のように聞いていた。
「ほら、たまには気晴らしも必要だろう?」
「あ……うん、そうね」
「優はどうだ? 他に行きたいところでもあるか?」
俺の意識はテレビに向いていたから、その時は何も考えていなかった。
ただくるりと振り向いて話を振られ、口が勝手に動いた。
「まあ、動物園ならベビーカーも借りられるって前に言ってたし」
「……ん?」
不意に口からこぼれたのはそんな言葉で。
自分で自分に驚いた。
俺は今何を言った?
健治と芙美は何度もまばたきを繰り返し、互いに顔を見合わせた。
それからぷっと笑い出す。
「何を言ってんだ、まったく! 疲れたからってベビーカーなんて乗せないぞ? もうすぐ小学生なんだからな」
そうだ。俺は六歳だ。
乗る側じゃない。
ましてや兄弟もいないのだから押す側でもない。
なのに何故いきなりベビーカーなんて単語が出たのだろう。
「いや、その、ここの動物園は子ども向けにいろいろ充実してるから、子どもも楽しめそうってだけだよ」
俺がそう返すと健治は笑って動物園に持っていく物の話を始めたから、ほっとして息を吐き出した。
ベビーカーなんて乗った記憶もないのに、なんでいきなりあんなことを言ったんだろうか。
そういえば、この家にはベビーカーもベビーベッドも見かけたことがない。
隣のりさちゃんの家に連れて行かれた時は、玄関に袋を被ったベビーカーが畳まれていた。
りさちゃんの弟のはるとくんも三歳になって乗らなくなったらしいが、もしまた次に兄弟が生まれたら使うから捨てずに置いてあると言っていた。
だが家の押し入れにはそういうのを見かけたことはない。
収納するところに困って処分したのか?
いや、まだ余裕がある。
元々子どもは一人でいいと決めていたのだろうか。
でも隣のりさちゃんやはるとくんのこともすごくかわいがっているし、子どもが好きなんだろうと伝わってくるのに。
また子どもができたら新しく買い揃えればいいと思っているのだろうか。
でも芙美は節約しなきゃといつも言っているのに。
ふと気になったそんなことは、すぐ忘れてしまった。
それどころではなくなったから。
翌日。
「ほら早く起きて! 早くご飯たべて保育園に行かないと! お母さん会社に遅刻しちゃうわ」
慌てる芙美に急き立てられ、俺はがばりと体を起こした。
時計を見ると、いつもなら朝食を食べている時間だ。
これはまずい。
急いで布団から抜け出し、ばたばたと着替えた。
なんだか体が重いというか、だるいというか、疲れている気がする。
昨日は何をしたんだったか。
いや、普通の土曜日で、特にいつもと変わったことはなかったような。
「優、手と口を動かして! パクパク食べて!」
「ああ、うん」
そうして急かされてなんとか朝食を平らげ、俺は芙美と走って保育園に向かった。
俺はどれだけぼんやり生きていたのだろう。
芙美が近頃何かに悩んでいる様子だったことも、月曜日には何かを吹っ切ったようにあれこれ動き始めたことも、毎日一緒に暮らしていたのにほとんど気にしてすらいなかった。
そんなだから。
あったはずの日曜日という日を俺が過ごしていないことに気づいたのはかなり経ってからのことだった。
健治がスマホで撮った写真をまとめて現像に出し、その中の一枚がリビングに飾られた。
そこには、行ったこともない動物園のパンダの檻を前に並ぶ親子三人が写っていて。
真ん中には、俺が俺の知らない顔で笑っていた。