第七話
視線を感じる。
まっすぐに、強く。
耐えかねてそちらを振り向けば、ぱっとその視線は離れる。
「なんだよ、杏奈」
「……いや、あの……。べつに……」
声をかけられたことにびくりと肩を揺らすも、杏奈は口を尖らせ視線は戻さない。
今朝からこの調子だ。
言いたいことがあるんだろうに、何も言って来ず視線だけを寄越す。
きっと昨日の絵のことだろうとはわかるが、何を言いたいのかはさっぱりわからない。
さらには声をかけてもこれなのだから、どうしようもない。
俺が知らずため息を吐きだすと、杏奈の唇がむうっとさらに突きあがった。
もっと優しく「なぁに?」ときゅるんとかわいらしく言えばいいのか。
それとも「なんでも言ってごらん!」と包容力を見せつければいいのか。
考えてみたが、何故俺があれこれ思い悩まねばならないのかと我に返り、放っておくことにした。
すると何故だか杏奈はずっと後をついてくるようになった。
園庭で鬼ごっこをやっているときも、鬼でもないのに俺の後をついてくる。
それぞれ好きな並びでお歌を歌っているときも、何故か俺の後ろから遠慮がちに一拍遅れの歌をかぶせてくる。
何がしたいのかわからなくて、いい加減鬱陶しい。
ただでさえ俺は毎日着たくもない長袖を着て、やりたくもないお遊戯に全力で参加し、ストレスを溜めに溜めているところだったから、沸点が低くなっている。
そんなところにじとっと視線を投げかけてくるだけで黙って後をついて回られたら、そりゃあイライラする。
だから俺は、背後から杏奈が「あの……」と声をかけてきた時、覚悟を決めたような顔をしていたのを見もせずに反射的に怒鳴ってしまった。
「だから、なんなんだよ!」
本当に一瞬のことで、自分で自分がまったく制御できなかった。
気づいたら俺は杏奈の肩をドンと押してしまっていた。
杏奈は突然声を荒げた俺に呆然とするように、よろりとよろけた。
そこにお友達が通りかかり、背中がぶつかるとバランスを保てず横に倒れるようにして手をついた。
「いたい……!」
手首でもひねったのだろうか。
そう心配したのだが、肘を打ったものらしい。
杏奈が泣きべそをかきながら袖をまくると、赤くなっているのが見え、さらに激しく泣きだした。
どこから見ていたものやら、担任の先生がかけつけると杏奈の泣き声はヒートアップした。
「優くんがあ! 優くんがあぁ! わたしは、ただ――」
ああ、まただ。
面倒くさい。
何もかもがままならない。
なんであれこれ俺の思わぬほうに転んでいくんだろう。
どうせまた日本人に生まれたのなら、今度はいい人生を送ろうって思っていたのに。
この小さな体はまったく思うようにならないし、何故嫌なことばかり起きるのか。
精神が大人なんだからしなくてもいい苦労をしているのだとはわかっている。
普通の子どもなら気にならないことが気になってしまっているのだともわかっている。
だが、だったら、なんで俺は前世の記憶なんて持って生まれたんだ?
俺が俺として生まれた意味ってなんなんだ?
こんな苦労をするためなのか?
前世で俺がどんな悪いことをしたって言うんだ。
「違う! 俺は――!」
そう息を吸い込んだ時、頭にふっと一つの情景が浮かんだ。
赤ん坊と、それを抱く母親。
あれは俺か――?
どことなく似ている気はするが、赤ん坊なんてみんな同じ顔をしているようにも思う。
母親は芙美じゃない。
まったく知らない顔だ。
――いや。
知っている。
覚えているはずなのに、思い出せない。
喉がじりじりとやけつくように痛んだ。
視界がぼやけて暗くなり、音が遠ざかっていく。
そうだ。
あれは――
気づくと俺は芙美と手を繋いで歩いていた。
外は既に薄暗い。
あれ――?
さっきまで日は高かったはず。
「きっと、絵を描くのが得意な杏奈ちゃんにとって、絵はとても特別なものなのね。だから自分がそれを汚してしまったことを謝りたくて、でも勇気がでなくて、辛かったのかもしれない」
一瞬、何の話かわからなかった。
何故芙美が絵のことを知っているのか。
「まだ優には杏奈ちゃんがそんなことを思ってるなんてわからなかったのかもしれない。だけど、人を突き飛ばしたら危ないことで、いけないことで、それをきちんと謝れたのは、えらかったと思うわ。誰でもついカッとなっちゃうことはあるもの。その後にきちんと謝れることが大事なのよ。杏奈ちゃんも許してくれたって言うし、手首を捻ったり血が出たりってこともないみたいだからよかったわね」
芙美の顔を見上げるが、薄暗くて表情はよくわからない。
だが芙美は何を言っているのだろう。
俺は杏奈に謝ってなどいない。
むしろ、我慢も耐えかねて怒鳴りそうになっていたところだったというのに。
これは白昼夢というやつなのか。
それとも、あまりの怒りで我を忘れてしまったのだろうか。
この間見ていたテレビで、怒って泣きわめいていた子どもが気づいたら疲れて泣き眠っていたという動画が紹介されていたが、ああいうことだろうか。
そうか。感情が昂りすぎて一時的に記憶がとんでしまったのかもしれない。
そうして俺は、現実逃避をしたのだ。
俺は変わっていなかった。
前世も、今も。




