第四話
保育園のママたちというのはみんな忙しい。
だから保育園のお迎えの時間に会っても長話に発展することはあまりないのだが、仕事や育児の大変さを共有できる貴重なつながりであるらしく、知った顔に行き会うと嬉しそうに声をかけあう。
「久しぶり、優くんママ!」
「あ、こんにちは」
相手は同じクラスの菜々と小春の母親たちだ。
これは久々に長くなるかもしれない。
俺は邪魔をしないよう、端のほうに避けてしゃがみこんだ。
しかし先ほどまで小春と園庭を走り回っていた菜々が母親の元に戻ってきて、今にも「お腹空いたー。早く帰りたい!」と文句を言い出しそうに口を尖らせた。
芙美も息抜きが必要だ。少しは喋らせてやりたい。
「菜々。地球に顔を描いていたら時間などあっという間に過ぎるぞ」
「なにそれ」
言われて俺が落書きした地面を指さすと、「変なの描いてるー」とけらけら笑い、隣で自分も砂に指を縦横無尽に走らせ始めた。
小春もやってきて、三人で奇妙な三角形を作りながら「あたしはつららの生えた猫ちゃん」「わたしはかわいそうな……間違えた、かわいい猫ちゃん」と落書きに興じる。
小春のほうがよっぽど変なものを描いていると思うのだが。
「何を描かれても怒らない地球は寛大だな」
思わずぽつりと呟いた時、ふと菜々の母親と視線が合った。
「優くんって変わってるわよね。しっかりしてるのにマイペースっていうか、なんていうか。赤ちゃんの頃ってどんな感じだったの?」
菜々の母親に聞かれ、芙美は「ああ、えっと……」と何故だか下を向いた。
そこに小春の母親がけらけらと笑って割って入った。
「私は小さかった時のことなんてぜんっぜん覚えてないわあ! 初めての子で必死だったからさ。ひたすらミルクあげて抱っこしておむつ替えて、なんとか息してたって感じ」
「ああ、そうよね、私もあんまりよく覚えてないかも。菜々ったら抱っこちゃんだったから、ベッドに置くとすぐ泣いちゃってさあ。家事するにもずっとおんぶで、肩と腰が死んでたことだけは強烈に覚えてるけど」
「みんなそんなもんよね。ね、優ママ!」
「……そうよね」
芙美の小さな返事を掻き消すように、小春の母親は勢いよく話を続けた。
「旦那のお母さんがさ、三歳までにいろいろ経験をさせておきなさいってうるさい人だったのよ。だから水族館に連れて行ったり、ふれあい動物園でひよこを触らせたり、英会話を聞かせたり。だけど私たちと同じでどうせ子どもだって小さい頃のことなんて覚えてないわよね。無駄に苦労したような気がするわー」
「そういえば、何で三歳までにっていうのかしらね」
菜々の母親が首を傾げると、小春の母親が「んー」と思い出すように上の方を見た。
「なんか聞いたことある気がするけど忘れたわぁ……」
「感受性が育つとかなんかそんなことじゃなかったっけ? まあ、小さい頃のことはたとえ覚えていなくても、きっと小春ちゃんの中には経験として活きてると思うよ。だって今こうして飛んで跳ねてるのだって、いきなりできたわけじゃないし、それまでの積み重ねがあってのことでしょ? だから無駄だったなんてことはないわよ。優しくて元気な小春ちゃんは、その時に作られたのよ、きっと」
菜々の母親の言う通りだろう。
ベースがあって子どもは育っていくのだから、無駄なんてことはきっとないはずだ。
だが小春の母親は「あー……、まあね」と笑顔で固まったまま、あまり嬉しそうではない。
「あ、ごめんなさい。お姑さんのせいで苦労したのに、お姑さんの言うことを肯定するみたいなこと言っちゃって。そうじゃなくて、えっと」
言葉を探すような菜々の母親の隣で、芙美がぽつりと口を開いた。
「大変だったことも、辛かったことも、あったかもしれない。でも楽しかったことも、嬉しかったこともあったはず。そういういろんなことはきっと親にとっても、子どもにとっても、礎になってるのよね」
「そうそう、そういうことを言いたかったの。過去はさ、変えられるわけじゃないし、あったことを無駄なんて思うより前向きに考えましょうよ」
小春の母親はちらりと芙美を見て、「そうよね」と小さく笑みを浮かべた。
嫁姑とか、ママ友とか、母親というのはとかく精神的に大変なものだ。
俺は母親だったことなんてないからその苦労はよくわからないが、多方面に渡って気を遣わなければならないものだということは芙美を見ていてもよくわかる。
あと何十年生きても俺にはできそうにない。
だがどうやら困っているらしい芙美をこの場から連れ出すことはできる。
「お母さん。お腹空いた」
「そうね。そろそろ帰りましょうか」
やることなすことままならない子どもの体ではあるが、たまにこうして子どもだからできることを発揮できると、何故ただの日本人の子どもなんかに転生してしまったのかというもやもやが晴れる気がした。
「今日はお風呂掃除してあげるよ」
「ありがとう」
なんだか芙美の元気がないように見えたから大奮発したのだが、返ってきた笑顔は俺のために作られたもののように見えた。
芙美は何が悲しいのだろう。いや、落ち込んでいるのか?
考えてもわからなかった。