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第七話

 優はよく泣く子どもだった。


「背中にスイッチでもあるのかな。抱っこだったら寝るんだけど、布団に置くとぱちって目を開くのよね」


 美紀はそんな風に笑っていた。

 美紀は仕事も家事も、何でも器用にこなす。

 だからたった一人の子どもの面倒を見るのなんて、会社で何人もの後輩を抱えている美紀にしたら簡単なものだろうと思っていた。

 案の定、仕事で疲れている夫をよく気遣ってくれた。


「ご飯、簡単なものしか作れなかったけど、食べて」

「内祝い、送っておいたから」

「布団は別の部屋に敷いたから、そっちで寝てね。仕事してる人はしっかり寝なきゃ」


 そう言って、帰りが遅い夫を先に寝かせ、夜泣きも一人であやしていた。

 昼間寝ているのだろう。美紀は要領もいいし、うまくやっているだろう。

 そう思ったが、なんとなく顔色が優れないように見えて、気分転換にどこか出かけないかと美紀を誘った。


「うーん。出かけるほうがしんどいかな……」


 ミルクを作るためのお湯を水筒で入れて持って行っても、熱すぎれば水が必要になるし、ぬるいとミルクを作るまでに冷めてしまう。

 ショッピングモールなどにはミルク用のお湯が用意されているところが多いが、初めての子どもでそんな情報もまだよく知らなかった。

 その他にもおむつや、漏れたり吐いてしまった時のための着替え、泣いてしまった時にあやすもの、ベビーカーを嫌がるかもしれないから抱っこ紐も持って――と、赤ん坊と出かけるにはたくさんの準備が必要で、そんな気力も体力も既に残っていなかったことなど気づいてもいなかった。

 美紀だけでも出かければいい、自分が優を見ているからと言ったが、力ない笑いが返った。


「この子を置いて一人で出かけても、楽しめないよ……。胸が張っちゃうし。それに、はるくん一人で全部できるの?」


 できると答えたが、一人で全部やったことはなかった。

 だがおむつは替えたことがあるし、ミルクの作り方も缶に書いてある。

 それにたった数時間母親がいなくなるだけのことだ。赤ん坊だって一日中泣いているわけでもあるまいし、何とでもなるだろう。

 そう答えたが、結局美紀は優の定期健診と予防接種くらいしか外に出なかった。


 美紀は赤ん坊と一緒にいたいのだろう。無理に引き離すものでもない。

 それなら自分だけでも気晴らしをしてきて、楽しい話題を持って帰ったほうがいい。

 そう考え、休日は美紀と優を置いて出かけるようになった。

 子どもは一人だ。大人は一人で足りる。

 普段妻が赤ん坊とどんな生活をしているかも知ろうとせず、そう思い込んだ。


 そうしてある日は、会社の付き合いで『家族バーベキュー会』に参加した。

 一人で。


「いやいや、奥さんと子どもは家族じゃないんかい」


 そう笑った同僚の言葉の意味など深く考えもせず、「赤ん坊が手を出して火傷なんてしたら危ないだろ?」と『いい父親』の顔をして返した。


「まさか参加してくれるとは思いませんでした。まだお子さんが生まれたばかりって聞いていたので……」


 そう遠慮深げに幹事の女の子が言った意味も考えもせず、「生まれたばかりってやることないんだよ。ミルクはあんまり飲みたがらないし、俺がおむつを替えると横漏れしちゃったりしてさ。邪魔にしかなってないよ。大きくなって遊べるようになってからだな、父親の出番は」と『よく知った父親』の顔をして答えた。


「じゃあ、今は父親じゃないんですね」


 幹事の子の言葉は、冗談だとしか思わなかった。

 言葉通りの皮肉だなんて気づきもしなかった。

 六歳と三歳の子どもと、それから赤ん坊と夫婦揃って参加している同僚や、子どもを夫に預けて参加している同僚がいることを気にも留めなかった。


 今美紀が泣き止まない優を抱えて泣きながら近所の川岸を散歩していることも知らなかったし、昼間寝てなどおらず、一日中子どもにかかりきりであることも知らなかった。

 ただ掃除されておらず家が雑然としていても、夕飯の品数が少なくても気にしていない自分は理解のある夫だと。そう思ってさえいたのだ。


 そんな男が何故傍を流れる川から聞こえた悲鳴にいち早く反応したのかは、きっと誰にもわからない。

 ほんのたまたまだったのだろう。

 いや。もしかしたらいつでも一人で身軽であることが身に沁みついていたから、誰よりも早く動けたのかもしれない。

 六歳くらいの子どもが水面から顔を出したり沈んだりしながら流されていくのを見て、咄嗟に飛び込み、必死に泳ぎ、手を伸ばしたが、その手は水を掴むばかりだった。

 川の流れは思ってもみないところに人を運び、近づくことすら難しい。

 そうして泳いでいるつもりがいつしか流され、大きな岩に頭をぶつけて、その動きは止まったのだ。




 子どもは流された先にいた人たちが悲鳴を聞きつけてライフジャケットを投げ込んでくれて、なんとかそれに掴まり助かったらしい。


 気が付いたら外から我が家をぼんやりと眺めていた。

 向かいの家の大きな木の辺りからは、新築で買った我が家がよく見えた。

 けれど外から見る我が家は何の動きもなく、中に人が住んでいるとは思えないほどに無機質だった。


 黒い服の人たちが出入りするのを見ていた。

 棺桶が運ばれていくと、玄関先で赤ん坊を抱えた美紀が頽れるのが見えた。


 そうしてぼんやりと眺めている景色は変わらなかったが、やがて、また一つ棺桶が運ばれていった。

 また黒い服の人たちが出入りし、玄関先で子どもを抱きかかえて頽れたのは美紀の母親だった。

 それから美紀の母親が優を連れて出て行くのを追いかけていくと、美紀の実家へと入っていき、そのまま優は出てこなかった。

 どれくらい経っただろう。

 ある日美紀の実家に救急車がやってきて、美紀の母親が運ばれていった。

 美紀の母親は戻ってこなかった。

 優はスーツを着た人たちに抱えられてまた家を出て行った。

 追いかけていった先では、何人もの子どもたちが暮らしていた。


 そこに、芙美と健治がやってきたのだ。


 俺は、ずっとそれを見ていた。

 見るともなしにただ見ていた。

 体がなくなったせいか、考えることも、感じることもなく、ただ見ているだけ。


 そのうち芙美と健治が優の手を引き施設を出ていき、この家へと連れてきた。

 この家にはすんなりと入れた。

 美紀と優がいる家には一度も入れなかったというのに。


 それは俺が現実を目の当たりにするのが怖かったからなのかもしれない。

 自分がいかにクソな夫で、父親として何の役割も果たさずに勝手に死んだということを認めたくなかったからかもしれない。

 美紀が自分を罵り、打ちひしがれて泣き、この先を思いやって暗く俯く。

 想像の中だけで十分で、目の当たりにしたくなかった。


 芙美と健治の家にするりと入った俺は、死んでから初めて優の側に近寄った。

 命を失くした後になって自分の子どもを気にしたって遅いのに。

 優はぼんやりとしていて、その目には何も映していないように見えた。

 まるで、生きる気などないかのように。

 ただいつもぼんやりと座り込んでいた。


 だから。

 優が浅く湯を張られたバスタブに座って浸かり、健治が喋りかけながら頭を洗っている時。

 ふと目を閉じた優がずぶずぶと湯に沈んでいくのを見て、俺は咄嗟に手を伸ばした。


「おまえはまだ死んじゃだめだ」


 そう叫んだのかもしれない。

 自分勝手に死んだ父親が、よく言うものだ。


 全部全部、俺のせいなのに。


 俺は自分にできることなんて何もないと端から諦めて何もしないまま、他人の子を助けようとして勝手に死んだ。

 そのせいで美紀は疲労で立ち眩みを起こして気を失い、倒れ込んだところにテーブルの角で頭を打ち、誰にも気づかれずにそのまま命を落とした。

 娘に代わって優を育てようとした義母も、持病が悪化し入院してしまった。

 そうして優は生みの親を亡くし、祖母とも離れ、誰も知っている人のいない施設に入って。


 生きる気力を失くすのもわかる。

 新しい父親と母親に迎え入れられたとしても、優には「当たり前に家族がそばにいること」を信じられなかったことだろう。

 絶望するなというほうが無理な話だ。


 すべてを思い出した時からずっと考えていた。

 誰より優を案じていただろう美紀ではなく、何故俺だけがこの世に彷徨い残ったのか。

 この世への未練ということであれば、きっと美紀のほうが強かっただろうに。

 美紀が亡くなった後、俺は辺りを探したが美紀はどこにもいなかった。


 それは、俺が夫としても、父親としても家族を守ることのないまま死んだから、妻を死なせ、子どもを一人残してその人生を狂わせてしまったから、その責任を取れということなのではないだろうか。


 優に、幸せに生きて見せる。

 そのために俺は記憶を失ったのかもしれない。そうして何も知らずに転生だのチートだのエリート人生だのと浮かれてお気楽に暮らしていたのかもしれない。

 結局現実に気が付いて、何度も転んではなんとか起き上がって。

 俺が優に生きる楽しさを見せてやらなければならないと、この身を覆う苦しさに抗った。


 だが、赤ん坊の頃に死んだ親のことなんて覚えているとは思いもしなかった。

 自分で絶望を与えておいて、希望を持って生きろだなんて、なんて都合がいい言葉なのか。


「おかあさん、おとうさん、ふたりいる。ひとりめのおかあさん、ぼくがいいたいこといえなくてなくから、いつもうたってた」


 そうだ。美紀はいつも言っていた。

 子守歌を情感たっぷりに歌うとスッキリするのよ。はるくんもやってみて、と。

 大変なこともそうやって自分なりに乗り切ろうとする人だった。

 だからといって大丈夫だなんてことは全然なかったのに。


「ひとりめのおとうさん、いえにいなかった。だけどおかあさん、いってたからしってる。ぶきようなひと。だけどこまったらいちばんにたすけてくれるひと。だからいっしょにささえてあげようねって」


 俺は頽れた。

 喉からは声にならない声が叫ぶように漏れていく。

 座っていられなくて、椅子から崩れ落ちて、床に這いつくばって、空に浮かんでいた時には持てなかった感情が一気に返ってきたかのように、情けなさと、悲しさと、自分に対する怒りと、それから二度と会えない美紀へのいとしさ、恋しさ、感謝、拭うことのできない後悔が溢れた。

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