第六話
もっと言いたいことはあった。
キレずに冷静になっていれば、もっとうまく伝えられたかもしれないのに。
放デイから帰った後、俺は何日もそんなことをもやもやと考え続けていた。
ご飯を食べている時も。
学校の登下校で歩いている時も。
トイレに座っている時も。
あまりにそのことで頭がいっぱいで、お風呂で頭を洗っている時、シャワーで髪を流していると、ふと『今が何のためのシャワーだったか』がわからなくなることがあった。
シャンプー前? シャンプーの泡を流してた? それともリンスを流してた?
なんだかずっとシャワーを浴びていたような気がするから、たぶんもう全部終わったはず。
そう思い、シャワーを切り上げた。
風呂から出てドライヤーで乾かそうと手櫛を通すと、ごわごわした。
うん。リンスをしていない。
翌日。
「いやあ、今日一日リンスしなかったせいで髪がごわごわしててイマイチでさあ。だから今日も迷ったけど、とりあえずリンスしとこうと思ったわけ。だけどさ。シャンプーしてないとリンスって全然髪に絡んでいかないんだな。リンスをつけて髪に指を通した瞬間、ギシッてしたわ」
すぐさまリンスを洗い流して最初からやり直したわけだが。
毎日これでは不便だ。
先ほど帰ってきたばかりの健治とコミュニケーションを取るつもりでそんなことを話してみたのだが、健治は「なるほどなあ」とネクタイを外しながら目だけで上を見た。
「じゃあさ、どこまでやったかわかるように、最初にラックからシャンプーとリンスのボトルを下ろしておいたら? それでシャンプーを使ったらボトルを戻す、リンスを使ったらボトルを戻すってしたら、わかんなくなっても、シャンプーとリンスがどこにあるかでまだ何をやってないかがわかるんじゃないか?」
「なるほど……。明日はそうしてみるわ」
そう答えると、健治は嬉しそうな顔をして、着替えるためリビングを出て行った。
だが結論として、その方法はうまくいかなかった。
一日目と二日目は、健治に言われた方法を試すこと自体を忘れた。
三日目にしてやっと試してみたわけだが、ラックから下ろしたものの、戻すのを忘れた。
これは短期記憶が弱いせいだろう。
まさか対策すらも短期記憶の弱さに阻まれて意味をなさないとは。
強敵である。
まあ、別に一日くらいシャンプーを忘れたりリンスを忘れたりしても、ちょっと違和感があるだけで大したことじゃない。
気にしないというのも対策の一つだ。
そうしてもやもやした日々を送っていたわけだが、一週間後の放デイの日は、また俺が行った。
優を今後行かせていいのかどうか、様子を見たかったから。
「優くんは、どうしたい? ひらがなをちゃんと覚えたいとか、字がきちんと書けるようになりたいとか、それとも、字の練習はもうしたくない……?」
代表の男が岡部さんを連れて真剣な顔で俺と向かい合い、そう聞いた。
「勉強はする。だけど書き方の練習はここではしない。字が間違ってても書き直せって言わないでほしいけど、問題の解き方とか計算ミスとかがあったらそれは教えてほしい。頑張ってもできないことがあるってわかってほしい。俺たちはさぼってるわけじゃない。だから自尊心を傷つけるような言い方はやめて。何年生なんだからとか、ゆっくりやればできるとか、誰かと比べたりとか」
それが、俺が優に対して望む指導だ。
「わかった。優くんが望まないことは、もうしない。できないから苦しんでるんだってことをわかってたはずなのに、全然わかってなかった。ごめんね」
きちんとそれを聞いていたらしい優は、次からまた放デイに行くようになった。
辛い思いをしても、人に傷つけられても、また信じて前に進むことができる。
それは優の強さだ。
ゆっくりでもいい。
きっと優は、傷つきながらも誰かに助けられながら生きていけるだろう。
芙美も夜になると本や講演会の動画を見て勉強しているし、相談にも通っている。
健治も時間さえあれば芙美から話を聞いたり、通勤電車の中でも本やスマホで調べたりしているようだ。
二人とも優にできないことを無理させる人ではないし、『普通』にさせようともしていない。
ただどうしたら優が少しでも楽しく、楽に生きられるか、必死で模索している。
長袖は物置に仕舞われて、今はいつでも着たかったら着られるようにと一枚だけタンスに入っている。
「誰に何を言われたって気にしなくていい。優の『普通』でいいんだよ。『普通』なんて、人の数だけあるんだから」
健治はそう言って、「大人だってな、最初の一杯はビールが『普通』っていう人は多いけど、『私は普通、焼酎からいきますね』って言う人だっているんだよ」とどやっと聞かせてみせた。
小学生にそのたとえはどうかと思ったが、健治なりに『普通』と向き合った結果だということはよくわかった。
それから、担任の先生とどんなやりとりがあったのかはわからないが、優とルキア、それからあと二人がプリント配り係に任命された。
じっと座っているのが辛い子たちは、そうした役割を与えられ体を動かすことができるとわかると、それまでの辛抱だと落ち着いて座っていられるようになることがあるらしい。
先生が誰かから聞いたのか、その誰かが芙美なのかどうかはわからないが、優もルキアも以前より学校が楽しそうだ。
ある日劇的に日常が変わったってわけではない。
けれど誰かが動くことで、確かに少しずつ変化はしていく。
それが優にとっての希望になるといいと思う。
そうして冬になり、俺は予防接種を受けに行くことになった。
まあ、優は『ちゅうしゃはいたいからいやだ』と出て来ず、当然俺が行くことになったわけだが。
しかし、注射なんて優はいつ受けたのだろう。
これまでも俺が受けてきたと思うのだが。
絵本やテレビで痛いものだと知って怖がっているのだろうか。
まあ、小学生にもなると予防接種を打つ機会もそれほど多くない。
一瞬のことだし、やってみたら案外いけた、ってことにならないだろうかと、打つ前に優に変わりたくなったが、この体の主は優だから俺の意思で切り替えることはできない。
病院に入ると、待合室は混んでいた。
いつもなら座って待っててと言われるのだが、居る場所もないしと受付まで芙美について行った。
「診察券と、母子手帳も出してください」
何の気もなしに芙美の手を目で追っていると、バッグから取り出された母子手帳が目の前を通り過ぎていった。
表紙が目に映ったのは、一瞬のことだった。
しかし俺は思わず目を背けた。
俺が見たものは優も見ている。
心臓がバクバクと激しく音を立てた。
見ただろうか。
気づいただろうか。
でも優は漢字が読めないかもしれない。
ずっとそんなことを考えていたから、俺は腕に注射の針が刺さったこともわからなかった。
これまで母子手帳なんてちゃんと見たことはなかった。
表紙さえも。
だから何が書いてあるのか、知らなかったのだ。
夕方。
家に帰り、自室の机に座りながら黙々と考えていた。
見えたか? と聞いたほうがいいか。何もなかったように流したほうがいいか。
しかし気づくと俺の意識は途切れていて、はっと気づくとタブレットに文字が打ち込まれていた。
『しってるよ。ぼくのおかあさん。くらたみき。ぼくのおとうさん。くらたはる』
「違う。倉田陽斗だ」
『おかあさんがはるくん、ってよんでたから』
「――覚えてるのか? 母親のことも。……父親のことも」
『おぼえてるよ』
「おまえの、おかあさんは――」
『しんだよ。おとうさんはそのまえにしんだ』




