第五話
「優くん、せっかく答えは合ってるのに、これじゃ『6』が『0』に見えちゃう。しっかり線が突き出ないと」
それは前から自覚があったこと。
だが何度書いても思ったようにいかないのだ。
消しゴムで『6』だけを消して書き直すつもりが、『=』まで消えてしまう。
もう一回書き直し。
だめだ。ああ、今度は上に書いてあった答えまで消えた。
学校だけじゃなく、放デイでもこれではうんざりする。
書くのは苦手だと言ってるのに、苦手なら練習しないとね! ときた。
だがまあプロの言うことだからと黙って聞くことにしたのだが。
苦手な子ども向けにこうやったら上手く書けるとか、こうやったら漢字が覚えやすいとか、そういうのは教えてくれないらしい。
振りかざされるのはただの根性論。
そんなの、学校で苦しんで、放課後まで苦しむだけじゃないか。
なるほど。優はこれのせいで行きたくなくなってしまったのだろう。
字が書けないことを気にしていたのも、この指導のせいか。
腹が立った。
今日の宿題は算数。
優もきちんと解き方を理解している。
タブレットなら問題もすらすら解けるのだ。
せっかく勉強することに前向きになり始めていたのに、楽しく放デイに通い始めたと思ったのに、何をしてくれているのかと。
だが腹を立てているのは俺だけではないようだ。
要領も悪いし、何でこんな簡単なこともできないのかと見ていてイライラするのだろう。
「だからぁ、丸いところをもっと小さくしないと。丸めてる時点で大きく膨らみすぎなの。それですぐに左に曲げる!」
そんな語気荒く言われたって、できないものはできないし、一番苛立っているのはやろうとしてもできない本人だ。
俺だってさらっと、「これでいいんだろ?」って嫌味なくらいうまく書いてやりたい。
だけどできないのだ。
見返してやりたくても、何度も練習しても、できない。
「トオルくんも、ほら~。もう六年生でしょ? 『や』が『か』に見えちゃうよ。もう一回書き直しね。ゆっくりやれば書けるから」
「はい……」
「もっと力を抜けば上手に書けるよ。それと、それ、三年生で習う漢字だよ。ひらがなじゃなくて漢字で書こう! あ、また『か』になってる」
言葉は優しげだが、優しく言われてできるならとっくにやっている。
隠すように吐き出されたため息に、隣でトオルと呼ばれた男子が俯くのが見えた。
泣いてはいない。
だが涙は流していなくとも、心が傷つかないわけじゃない。
怒りで俺の鉛筆の芯はぽきりと折れ、跳ねて転がっていった。
「こら優くん、鉛筆に八つ当たりしない! これくらいですぐ怒らないよ」
「先にイライラを表に出したのはあんただろ。あんたの『これくらい』が俺たちにとってのどれくらいだと思ってる?」
岡部さんが唖然としていることから、こんなに怒るとは思っていなかったことがありありとわかる。
きっと今まで優は大人しく言われるがままに、泣きそうになりながら何度も書き直していたのだろう。
「式はできてるのに、答えもあってるのに、理解できてるのに、学校でも、放デイでもしつこく言われてきてんだよ。俺はまだいい。だけどトオルは六年生なんだろ? 六年間、ずっとずっと言われてきたんじゃないのか? それでもどうにもならなかったから、今こうなんじゃないのか? どれだけボロボロになってるのか、なんで想像しようともしないんだよ。あんたの『これくらい』に収まるほど、俺たちの苦労は小さくないんだよ」
腹が立って、俺はランドセルから自由帳を引っ張り出してきて岡部さんの前にドンと置いた。
手を伸ばしもしないから、俺が開いて見せた。
そこにはめくってもめくっても、俺の苦手な『4』と『6』と『9』。
そして後ろのほうからめくれば『や』と『か』と『え』と『ん』と……たくさんのひらがなが、その一文字だけをページいっぱいに埋め尽くしている。
数字は俺。ひらがなは優。
俺たちは素人だから、発達性ディスレクシアだなんて勝手に決めつけるのはよくない。練習したら書けるようになるのかもしれない。
そう言って、お互いにこのノートに練習してきたのだ。
だけど、一文字書くのにもとんでもない労力を使う。
このノートはたくさん書くことを目的にしたわけじゃない。
一文字一文字、見本通りになるように真剣に書いたものだ。
すぐ疲れてしまうから、毎日少しずつ練習してきた。
だけどこのザマだ。
「練習してできるんだったら、もう俺はさらさら書けてる。『6』を『0』だと思われてバツをつけられたら損をする。そんなことはわかってるんだよ。だから練習してる。その結果がこれだけど、俺はどこまで頑張ればいい? どれだけゆっくりやればいい? どれだけ時間をかければできるようになる? どうやったら『これくらい』で済むのか、教えてくれよ」
俺は小学生の算数なんて全部わかってる。
だけど優はそうじゃない。これから学んでいくんだ。
字を上手に書かなければと神経を使い、力を尽くし、先生の話を聞いて、理解しようと考えて……一つの授業の中でそんなにあれもこれも頑張ろうとしたって、とりこぼれてしまう。
字の苦手さがなければ普通に授業についていけるかもしれないのに。
だから少し授業に出てみても、やっぱり駄目だと自信喪失し表に出なくなってしまう。
頼みだった放デイまでこれでは、俺たちはどこまで頑張ればいいのか。一日中字の練習をしていれば満足なのか?
「優くん……! 何をそんな大きな声を出してるんだ!?」
職員の部屋から慌てて飛び出してきた代表らしき男に答えたのは、隣に座っていたトオルだった。
「この人が……僕たちをいじめたから。だから優くんは怒ってくれた」
静かな淡々とした声に、職員の男は戸惑ったように女の職員を見下ろした。
「別に、私はいじめてなんて……!」
「先生。僕は発達性ディスレクシアです。脳機能の発達に問題があるとされていて、知的能力の低さや勉強不足が原因ではないとされています」
「それは、知ってるけど……」
やはりトオルもそうだったのか。
しかし、岡部さんは知っていてあの指導だったのかと思わず眉間に皺が寄る。
「僕は、腕がない人が口で鉛筆をくわえて字を書いているのをテレビで見たことがあります。岡部先生はその字を見て、さっき僕たちに言ったのと同じことを言いますか? そのテレビでは三人の人がそれを見て、『すごい! ちゃんと読める』『口で書いたのにこんなに書けるの、すごい!』『ここまで書けるようになるのに、とても頑張ったんですね』と言っていました。僕も同じように思いました。だって、腕がないのを見ただけで、すっごく大変だったことがわかるから。だけど僕は、発達性ディスレクシアで字を書くのが苦手だと言っても、もっと練習すれば上手くなるって言われます。目に見えない障害は信じてもらえないんですか? 頑張っても褒めてもらえないんですか? 腕があれば誰でも書けるはずだからですか? この練習の終わりはいつなんでしょうか。タブレットは逃げてるだけ? タブレットなら僕でも勉強ができるのに。逃げでもいいです。僕はもう練習を辞めたいです。だって、僕にとっては何の意味もないから。ただ辛いだけで、書けるようになんてなりませんでした」
淡々と紡がれたトオルの言葉は、俺には重くて、苦しかった。
俺や優よりもっともっと長い時間を苦しんできた人の言葉だから。
大袈裟でも嫌味でもなんでもなく、自分のせいでもないのにできないことを責められたトオルはいじめだと感じたのだろう。
トオルは俺や優より長く学校で過ごしている分、多く苦労し、ずっと考えてきたのかもしれない。ずっと悩んできたのかもしれない。
低学年のうちはまだ覚える漢字も少ないし、画数も少ないが、学年が上がるにつれてどんどん厳しくなっていく。
発達性ディスレクシアは字を覚えてもすぐ忘れてしまったり、画数が多いと覚えるのが難しかったりするらしい。
漢字の十問テストでは直前に必死に覚えてなんとかそこそこの点数を取れても、学年末の五十問テストではどんなに頑張っても回答用紙が真っ白だったという経験談も読んだことがある。
覚えるどころか、優は見本を書き写すのだって苦しいのだ。
そうして頑張っても頑張っても、褒められることなんてない。
だって、それでも『普通』に満たないから。
頑張っても無駄だったという経験は、心身をぼろぼろにする。
俺もやってみてわかった。
優と違って俺は書けると思いたかったのもあるかもしれない。あれだけ練習したけど、結果に結びつかない。
「優くん、トオルくん、ごめんな。先生たちも発達障害のこと、発達性ディスレクシアのことも知ってるつもりだったけど……。だから根気強くなんとかしてやらなきゃって気持ちだったけど。トオルくんが言ったこと、よく考えてみる」
◇
家に帰り、自室の机に向かう。
「優。今まで辛かったんだな。気づいてやれなくてごめん。またこの体で生きるのが嫌になっちまったよな。もっと早くなんとかしてやれてたら……。だけど、正直どうしたらいいのかわからない。俺は三十過ぎまで生きたのに。そんな知識があったって、何の役にも立たない」
放デイにいるのは関連する資格をもった様々な専門家たちだと思っていたが、すべての職員が完璧に対応できるわけではないのだと、今日のことでよくわかった。
あとは任せておけばなんとかなるなんて思ったのは、限りなく甘かった。
情報に溢れた社会で、本もたくさん出ていて、発達障害という言葉も広く浸透してきていて、今は学校の先生たちもその言葉とおおよその定義を大体知っている。
だけど持っている特性も強さ弱さも人それぞれで、さらにはいろんな特性をもっているとその兼ね合いで取れない方法もでてくるし、問題は複雑化する。
だからたくさんの人が試行錯誤した今でも、『こうすれば万事解決』なんて答えなど出ていない。
それらを『絶対にどうにかできる』なんて専門家も、きっといない。
本当に一筋縄ではいかないことなのだ。
こんなんじゃ、優が生きていくのが嫌になるのも仕方ない。
俺は優に何をしてやれるだろう。
どうしたら優がこの体で生きてみたいと思えるだろう。
考え込んでいるうちに、意識が途切れていたことにはっと気が付いた。
目の前のタブレットには、文字が打ち込まれていた。
『おじさんが生きればいいのに。どうしてぼくに生きさせようとするの? ぼくにいっぱいかんがえてくれて、いっぱいしてくれて』
続いた言葉に、俺はガンと頭を殴られたようだった。
『おとうさんみたい』
「俺は……、俺は、そんないいもんじゃねえよ」
俺がおまえから何もかも奪ったんだから。
いまさら何をしたって償いになどならないくらいに。




