第四話
それからいくつかの放課後等デイサービスを見学した。
勉強がメインのところ。
体を動かすのがメインのところ。
ソーシャルスキルがメインのところ。
そして体を動かすのがメインのところに通うことになった。
見学したのも、決めたのも、通うのも、俺じゃない。
優だ。
「この体は優のものだ。一生生きていくのも優。まだ何もしていないのに諦めるな。捨てるのはいつでもできる。やれることをやってからにしろ」
そう口にしたら、翌朝タブレットにメッセージが残っていたのだ。
『がんばる』
それからは少しずつ俺の問いかけに答えるようになっていった。
「どうだ? 放デイは楽しいか?」
放課後等デイサービスのことを略して放デイと呼ぶらしい。
優からの返答は『すこし。でもできないこといっぱいある』だった。
「だから通うんだろ?」
『じはかけないままだよ』
優が通うところでは跳び箱とかマット運動なんかをやるらしいから、そこに通ったところで字が書けるようにならないのは確かだが、今の優にとって必要なのは字を書くことだけじゃない。
まずは日々を楽しいと思えること、安心して暮らしていけることが一番だ。
「慌てるな。まだ字なんて習い始めたばっかりで、人生は長いんだから。それに字なんて書けなくても生きていけるしな。今はデジタルの時代だ。タブレットでなら俺と会話だってできるだろ? 優は計算もできてる。苦手なことも確かにあるけど、何かしら工夫とか道具とか、楽にやれる方法ってのはあるよ、きっと」
具体的にどうしたらいいかは目下勉強中なのだが。
それでも優は納得してくれたのか、給食や図工、体育の時間も少しずつ出てくるようになった。
字を書かなければならない授業はまだ怖いらしい。
書けるようになったわけでもないし、書かなくてよくなったわけでもなく、何も解決していないのだからそれはそうだろう。
相変わらず担任は黒板の字を写せという。
ただ、一つだけ芙美が先生にお願いをして聞いてもらえたことがある。
「一人ずつ音読させるのではなく、全員一斉か、グループにしていただけませんか? そのほうが苦手な子も安心して参加できますし」
しぶしぶやっていた宿題の音読を聞いて、芙美がその苦手さに気が付いたらしい。
それで放デイの先生に相談したところ、そう先生にお願いするよう助言を受けたのだ。
何故音読するのか律儀に調べた俺は、音読には様々な効果があると知った。
ネットの情報だからどこまで正確かはわからないが、いくつかのサイトで同じようなメリットが挙げられていた。
ストレス解消なんてのもあるらしい。
語彙力も上がるらしいから、特に低学年のうちは大事なことなのかもしれない。
だが一人で読まなければ効果がないということでもないだろうし、一人注目されることがないのなら無用な傷がつくこともない。
ルキアも以前よりは国語の授業が嫌そうではなくなった。小さなことだが、俺たちにとっては大きなことだ。
そうして停滞しているように見えながらも少しずつ進んでいたある日の朝、タブレットに優からのメッセージが残されていた。
『きょうはほうでいいきたくない』
そんな日もあるだろう。
だが何故行きたがらないのかが気になった。
楽しく行ってるんだろうと思ったのだが。
だから代わりに俺が行くことにした。
学校に送迎の車が来て、そのまま連れて行かれる。
俺が行くのは初めてだ。
職員の顔も名前も知らない。どんなところかさえ、パンフレットやネットで見ただけしか知らない。
俺は優とは違って、優がどんな日常を送っているのか見ているわけじゃないから。
知っているはずのところに本当は知らないまま行くというのはかなりハードルが高い。
当たり前のことを知らなかったり、いつもと違うと不審に思われないだろうかと朝から心配ばかりしていた。
だがそんな心配はすぐにふっとんだ。
衝撃が強すぎて、それどころじゃなかったから。
そこは小さなビルの二階にあって、もう一人車に乗っていた無口な三年生くらいの男子の後について階段をのぼっていくと、上半分が透明なガラスになっているドアに座敷童のような何かが張り付いていた。
「わっ」
思わず声を上げると、「あ、優くんだ!」とその座敷童が大きな口を開けてドアノブをがちゃがちゃやり始めた。
しかし鍵がかけられているようで、気づいた職員が慌ててやってきてその女の子を後ろに離したあと、そっとドアを開けた。
「こんにちはー、優くん、リンくん」
どうやら一緒に車に乗っていた彼はリンくんというらしい。
中を覗くと小学校の教室よりも一回り小さいくらいで、こんなところでマットや跳び箱をやるのかと驚いた。
さてこの後はどうしたらいいのだろうと先に入ったリンくんの様子を窺う。
リンくんは壁際にあるロッカーの前に立ち、何かを探すようにあたりを見回し、「あれ……ない」とぽつりと呟いた。
「ぼくのカゴがありません。荷物を入れる、ぼくの写真が貼ってあるカゴが、ありません。これじゃ遊べません」
途方に暮れたような顔で小さく呟くリンくんに気が付いた職員が、慌てて白いカゴを持ってきた。
「ごめんごめん、先週までリンくんがお休みしてたから、奥にしまってあったみたい。驚いちゃったね」
リンくんはこくりと頷くと、自分の写真が貼ってあるのを指さしで確認し、バッグをそこに入れた。そして写真が見えるようにしてそのカゴをロッカーの中にしまうと、再び指差し確認。
それからおもちゃの置いてあるほうへとぽてぽて歩いていった。
なるほど。荷物は各自自分のカゴにしまうわけだな。保育園と同じだ。
だがこちらは名前だけでなく顔写真が貼ってあるから、すぐにわかる。
保育園では年少くらいまではカブト虫やてんとう虫、チューリップやひまわりなどの絵がそれぞれの個人に割り当てられた目印だった。
その後は数字になり、俺は十五番だったのだが、タオルを掛ける場所も、荷物を置く場所も、全部十五の数字が書いてあってわかりやすかった。
その年代や特性に合わせてわかりやすくするための方法はそんな風にいろいろあって、これまでも当たり前のようにそれらに助けられていたのだと気づく。
それが小学校に行くと突然年齢によってあるべき姿を求められ、合理性が優位に立つようなやり方ばかりになり、昔から変わらない型を引きずっていたりするから、苦手がある子には特にそのギャップが大きくて困難に感じることや戸惑いが増えるのかもしれない。
だが写真付きのカゴのように、放デイではいろいろな特性があっても過ごしやすいように様々な工夫をしているようだし、優も安心して過ごせていることだろう。
「時間まであと十分あるからねー。それまでは自由時間だよー」
さて。ところで何故さっきからずっと俺のすぐ隣にあの座敷童のようなおかっぱの女の子が張り付くようについてくるのだろう。
挨拶はしたのだが、「こんにちは!」と言ったまま無言でついてくる。
よくわからないのでとにかく優の写真が貼られたカゴを探し、荷物を入れてロッカーにしまった。
その瞬間。
「あのね、優くん、ちあね、今日学校でね、お友達と遊んだんだけどね、その時にね、サッカーボールが飛んできちゃってね」
怒涛の勢いで喋り始められ、思わずまた「おぉっ」と声を上げてしまった。
びっくりした。
いきなり喋りだすから。
「ちあちゃん、えらいね! ちゃんと優くんがお支度終わるまで待てたね。よくできました!」
そうか。いつもこの怒涛の勢いで話しかけてくるから、支度が終わってからと職員と約束してあったのだろう。
「そう! 優くんが荷物を入れたからあとはちあが喋っていいんでしょ? ちあはね、今日学校でね、お友達と遊んだんだけどね」
どこまで話したかわからなくなって最初から話すことにしたのだろう。
「その時にね、追いかけっこしてた子が目の前をひゅーって走っていったからね、危ないよ! ってちあが怒って追いかけて行ったらね、鬼じゃないのにずっと逃げられちゃってね」
違う話だった。
サッカーボールはどうなったのだろうか。
いや別にいいんだが……。
「ちあちゃん、危ないって思ったんだね。じゃあ次は優くんがお話しする番ね?」
「え」
急に振られても困る。
「優くんは今日の学校はどうだった?」
雑な振り方だ。
「えっと……普通」
「そうか! 普通ならよかったね!」
まあ、悪いことはなかったということだからよかったといえばその通りだろう。
毎日いいことがあるわけでもなし。
優は普段、このような職員との世間話のような会話をどうしているのだろう。
そんなことを考える暇はなかった。
じりじりと順番を待っている子が俺の隣にはいたのだ。
「じゃあ次、ちあの番! あのね、今日学校でね、お友達と遊んだんだけどね、サッカーボールが飛んできちゃってね、危ないよって蹴って返してあげたんだけどね、全然違う方向に行っちゃったから、追いかけて行ってね、それでね、気づいたら一緒にサッカーしてた!」
結局同じような話だった。
どうやら唐突に視界に現れたものについて行ってしまう癖があるようだ。
それで先ほども優の顔が見えて飛びつこうとしていたのか?
「はーい、それじゃあそろそろ時間だから片づけができたら集まってねー」
助かった。
どうリアクションしたらいいかわらなくて困っていたし、勢いがすごすぎてやや疲れてしまった。
そこからは始まりのあいさつをすると、指名された子どもが今日の日にちや天気を答えていった。
なるほど。人前で発言するトレーニング、というところか。
それと小さなことでも誉めて、自己肯定感を高めているのだろうか。
それから今日一日やることが書かれたホワイトボードを職員が一つ一つ読み上げ、具体的にどんなことをやるか説明していった。
まずはこの後みんなでしっぽとりゲームというのをやって、それから宿題をやるらしい。
体を動かすところだと聞いていたから、勉強もするのかと意外だった。
だが確かに学校から直でここに来ていて帰りは十八時を過ぎるし、そこから宿題をやるとなると厳しい。
無理なく通えるようにいろいろ考えられているのだなと感心した。
ビルの二階でありながら、鬼となった職員は全力で逃げ回った。
下はジムだから、どたばたしていてもあまり苦情もないだろうか。
いくら狭いとはいえ大人が本気で逃げ回ると、腰から垂らした尻尾――バンダナだが、それを取るのは至難だ。
俺もついつい本気になって走り回り、疲れ切って机に向かうことになった。
「あわわわわわわー。あわわわわー」
だが一人、まだ走り回っている子がいた。
この子はみんなが鬼である先生を追いかけていても、一人だけそれとはまったく関係なく走り回っていた。
とにかく走るのが楽しいのだろう。
「体をめいっぱい動かした後はすんなり勉強に切り替えられる子が多いんだけどねー。かなたくんはまだ走り足りなかったかなー」
代表なのだろうか。
眼鏡をかけた四十代くらいの男が、近くにいた職員と苦笑し合っていた。
その道のプロでもうまくいかないことがあるのだ。
それを一人でやろうとしていた俺は無謀だったとしか言えない。
それでもなんとか今日いる子どもたち六人が揃って席に着いた。
子ども二人に職員が一人ついたのだが、俺の前に座ったのは二十代くらいの女の人だった。
首から下げられた名札には『岡部』と書いてある。
俺の隣は体の大きい男子。さっき誰かが六年生だと言っていた気がする。
確か、名前はトオル。
そうして黙々とそれぞれが学校で出された宿題と向き合い始めたのだが。
岡部さんは早々に俺のプリントに指をさした。




